ゼカリヤ書 資料(8)

『ゼカリヤ書(8)ヨシュアの戴冠 ―好意の記念としての冠』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、ヨシュアの戴冠

Ⅲ、万人の救済

Ⅳ、祭司と冠について

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに        

        

 

・ゼカリヤ書=捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)のゼカリヤの預言。八章までの第一部と九章からの第二部に大きく分かれる。

 

・前回までのまとめ―第一章から第六章前半の内容:神に立ち帰ることの勧め、ミルトスの林の中でのキリストのとりなし。悪と戦う神の使いたち。神が再びエルサレムを選ぶこと。神がヨシュアの罪を赦し、メシアが来て人類の罪を取り除くこと。神からたえず油(霊)がそそがれる燭台と二本のオリーブの樹。飛ぶ巻物のビジョン(律法は呪い)。エファ升の中の女(罪)がシンアルの地に安置されること。四両の戦車と北の地のビジョンつまり神の経綸と神の霊が困難な地にこそ赴くこと。これらの八つの幻が示された。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章⇒今回は六章後半

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章) 

第五の幻 七つの灯皿と二本のオリーブ (第四章)

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章前半)

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章後半) 

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章前半)

ヨシュアの戴冠 (第六章後半)⇒ ※ 今回

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

□ 第六章後半の構成 

第一部 ヨシュアの戴冠 (6:9~6:13)

第二部 万人の救済 (6:14~6:15)

 

 第六章後半では、今までの八つの幻を通じて神の愛と知恵が示されたことを踏まえた上で、そのまとめとしてヨシュアの戴冠が語られる。

まず第一部において、捕囚から帰還した三人からの贈り物の金銀から冠をつくり、大祭司ヨシュアに戴冠させることが命じられる。さらに、メシア(若枝)が来ることが告げられる。

第二部では、冠は好意の記念であり、遠方の人々が主の宮を建て、神を知ること、つまり異邦人を含めた万人が神を知り救われることが告げられる。

 

Ⅱ、ヨシュアの戴冠 (6:9~6:13)

 

◇ 6:9 主の言葉がゼカリヤに臨む ⇒ 聖書は神のことば。

 

◇ 6:10  捕囚から帰還した三人からの贈り物

 

ヘルダイ:「もぐら」という意味。

トビヤ:「ヤハウェは知り給う」の意味。旧約聖書続編の「トビト記」のトビアか?エズラ記2:60およびネヘミヤ記7:62には「トビヤの一族」が帰還した捕囚の民として記されている。また、ネヘミヤ記には神殿再建を妨害するトビヤという人物が登場するがこれは別人と考えられる。

エダヤ:「ヤハウェはわが善なり、ヤハウェはわが恵みなり」の意味。エズラ記2:36およびネヘミヤ記7:39には帰還した捕囚の民として「エダヤの一族」が記されている。また、ネヘミヤ記3:10にはエルサレム城壁の修復を「ハルマフの子エダヤ」が行ったこと、同11:10には「ヨヤリブの子エダヤ」が祭司として勤めていること、またイエシュア(ヨシュア)の時代の祭司にエダヤがいたことがネヘミヤ記12:6-7に記されている。

 

⇒ 固有名詞を離れ、その名前の意味から考えるならば、(霊的に)目が見えない人々、しかし神がその人を知悉し見守る人々、そして神を善であり恵みであると信じる人々、つまり裁かれて困難な状況の中にあったけれども信仰を持つ人々が、バビロン捕囚から帰還し、贈り物を持ってきた、という意味と考えられる。

 

⇒ なお、古代イスラエルでは証人は三人の必要があった(申命記17:6および19:15)。捕囚が終わったことと、神の恵み・救いの証人としての三人か。

⇒ 予表論の立場に立てば、三人は東方の三博士の予表とも考えられる。

 

⇒ ※ ゼカリヤが三人からの贈り物を持って、バビロンから帰ってきたツェファンヤの子ヨシヤの家に入る。

 

ツェファンヤ:エレミヤの友人に同名の祭司がおり、その人物か(エレミヤ29:25、29)。原語は「ゼファニヤ」と同じ。「ヤハウェは隠し給うた」の意味。

ヨシヤ:「ヤハウェは支え給う、ヤハウェは癒し給う」の意味。ツェファンヤの子ヨシヤについては聖書中他に記述がないので不明。

 

捕囚の民の三人からの贈り物を持って、バビロンから帰還したヨシヤの家に「その日のうちに」入る。おそらく、三人は捕囚から帰還した直後であり、それらの人々からの贈り物を受け取って、すでに以前から帰還していたヨシヤの家にすぐに行く、という意味と考えられる。

 

岩波訳:「捕囚の民の中から、ヘルダイ、トビヤ、イェダヤ〔の三人〕から受けよ。そしてあなたはその日のうちに行って、バベルから帰ってきたゼファニヤの子ヨシヤの家に入り、」

⇒ 罪人が信仰を得て罪から救われ(神に帰還し)、そののちにすぐにすでに罪から贖われた救われた人々の家(つまりエクレシア)に入ることの予表か。

・特定の歴史上の人物という文脈から離れ、その名前の意味から考えるならば、神が隠し守ってくださっていた、そしてその中に入れば癒し支えてくれる、神の家(エクレシア)に罪から贖われてすぐに帰還するということか。

 

◇ 6:11 銀と金をとって、冠をつくり、ヨシュアの頭に載せる。

ヨツァダク:「ヤハウェは義なり」の意味。

ヨシュア:「ヤハウェは救い」の意味。当時の大祭司。ハガイ書およびゼカリヤ書3章にすでに登場。

 

※ 祭司は冠をつけることが律法には規定されていた(出エジプト29:6、レビ記8:9)。 出エジプト39:30 「聖なる冠である花模様の額当てを純金で作り、その上に印章を彫るように、「主の聖なる者」と彫った。」

 

※ 捕囚から帰還してすぐで、経済的には困窮していたはずだが、金銀など高価なものを惜しみなく神のために用いている。

(あるいは捕囚期間中にも、人によっては裕福になっていた可能性もあり(トビト、エステル、ダニエルなど)、そのような人々が惜しまずに祭司の冠を用立てたということを意味している。)

・歴史上の特定の人物という文脈から離れて、その名前の意味から考えれば、神の義と救いを象徴する冠をつくり、載せるということか。なお、「冠」はここでは複数形。この文章からゼルバベルの名前が削除されたためという説もある。あるいは、神がヨシュアに限らず多くの人に冠を授けることの預言か。

 

◇ 6:12   若枝=メシア 既出:ゼカリヤ3:8。 

・イザヤ4:2「その日には、主の若枝は麗しく、光り輝く。地の実りは、イスラエルの生き残った者にとって誇りと栄誉となる。」

・イザヤ11:1「エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち」

・イザヤ53:2「この人は主の前で若枝のように/乾いた地から出た根のように育った。彼には見るべき麗しさも輝きもなく/望ましい容姿もない。」

他、エレミヤ23:5、同33:15、ホセア14:7等。

(ゼルバベルを指すという説もあるが、メシア預言とみるべきか)

 

※ 主の宮を建てる ⇒ 旧約においては神殿の建設。新約の光に照らせば、キリストがエクレシア(教会、集会)を建てること。

 

◇ 6:13  メシアが王座について治める。

エスは王(マタイ27:11等)。(東方三博士の贈り物である黄金・乳香・没薬は、それぞれ王への捧げもの・祭司の祈り・葬儀(十字架の死)を意味。イエスは王であり大祭司であり贖いの小羊)。

 

⇒ イエスは、昇天ののちすでに神の右の座にいる(マルコ16:19、使徒2:33)。また、あらゆる権能を持っており(マタイ28:18)、王である(黙示録19:16、17:14)。再臨の日には、キリストの審判・支配が貫徹する。

 

※ メシア(キリスト)と祭司は、平和への思いで、一致している。

 

バルバロ訳「この二人の間には、平和の一致がある。」 

新改訳2017「二人の間には平和の計画がある。」

⇒ 十字架の贖いによってキリストの平和(ヨハネ14:27、16:33)を得、そしてその平和によって世界の平和をつくることをめざして生きる(マタイ5:9)。

(第四の幻(第三章)ですでにヨシュアは罪が赦されている)

 

 

Ⅲ、万人の救済 (6:14~6:15)

 

◇ 6:14   好意の記念

※ 三人のうちのひとりめ「ヘルダイ」⇒ヘブライ語原文はここでは「ヘレム」。ヘレムの意味は「強さ」。つまり、「もぐら」から「強さ」あるいは「強い者」に名前が変わっている。(シリア語訳ではヘルダイのまま)。

⇒ 目が見えない地中にいたものが、メシアを信じ、目の見える強められた者となったことを表しているとも考えられる。

 

※ 「ツェファンヤの子の好意」⇒好意のヘブライ語原文は「ヘン」。

すでに6:10でツェファンヤの子はヨシヤとなっているので、ここでは固有名詞ではなく通常の名詞に受け取る訳が多い。 ヘン=好意、恵み。

⇒ ヘルダイ(ヘレム)、トビヤ、エダヤ、ヨシヤ(ツェファンヤの子)らの好意の記念として、冠が主の宮に(ヤハウェの宮殿)に置かれる。

 

◇ 6:15 遠く離れている人々が来て、主の宮を建てる

⇒ ゼカリヤ書の当時における意味は、捕囚や離散の民が遠方から帰還するということ。ただし、新約の光に照らせば、イスラエル以外の遠方の異邦人もエクレシア(主の宮)を形成するようになるという預言と受けとめられる。

 

・ 神の言葉に聞き従うならば、ゼカリヤを通じた神の言葉を神の言葉として受けとめることができるようになる。

⇒ 心を尽くして神に従うことと、神の言葉に心を開くことの大切さ。

 

余談:ヘレム、トビヤ、エダヤの三人に加えて、ヨシヤも好意の記念として冠を主の宮に置いていると考えられる。前三者を東方の三博士の予表とするなら、ヨシヤは四人目の博士の予表となるとも考えられる。

(渡辺和子「キリストの香り(16) - 四人目の博士」

youtube動画: https://www.youtube.com/watch?v=M7VuRbPn7cA )

 

 

Ⅳ、祭司と冠について 

 

◇ 上記で、ゼカリヤ第六章後半のヨシュアの戴冠について見た。ここで「祭司」と「冠」について考察したい。

旧約のゼカリヤ書では、戴冠するのは歴史上の特定の人物である大祭司ヨシュアである。しかし、新約の光に照らせば、イエス・キリストの十字架の贖いはこの私のためであったことを信じる全ての人は祭司である。

 

参照:ルターの万人司祭説

 

教皇、司教、そして司祭、修道士たちは霊的で、諸侯、王、手工業者と農民は世俗的な身分だと言われています。そのような驚愕すべき、しかも巧妙な言い方が考案されているのです。けれども、そのような言い方に脅かされる必要はありませんし、恐れを感じることもありません(中略)すべてのキリスト者は誰でも皆、霊的な階級に属しているのです。それぞれの職務の違い以外には何の違いもありません。最も重要なことは、私たちは一つの洗礼、一つの福音、一つの信仰をもっており、私たちは皆同じキリスト者だということです。〔一つの〕洗礼、〔一つの〕福音、〔一つの〕信仰が、私たちを皆、霊的なものにし、キリスト者にするのです。(中略)私たちは誰でもまさに文字どおり洗礼によって祭司として聖別されているのです。」

(ルター「キリスト教界の改善について」(深井智朗訳『宗教改革三大文書』講談社学術文庫、2017年、54頁))

Ⅰペトロ2:5「あなたがた自身も生ける石として、霊の家に造り上げられるようにしなさい。聖なる祭司となって、神に喜んで受け入れられる霊のいけにえを、イエス・キリストを通して献げるためです。」

 

Ⅰペトロ2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある顕現を、あなたがたが広く伝えるためです。」

 

黙示録1:6「私たちを御国の民とし、またご自分の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。」

⇒ 祭司の自覚

黙示録5:10「彼らを私たちの神に仕える御国の民/また祭司となさったからです。/彼らは地上を支配するでしょう。」

⇒ 小羊は贖いによってキリストを信じるあらゆる人々を祭司とする。

 

※ したがって、新約の光に照らせば、ゼカリヤ書における大祭司ヨシュアについての記述は、新約の時代以降はすべてのキリスト者にあてはまる。キリスト者は皆、キリストの十字架の贖いにより、すでに神との間に和らぎを得、キリストの平和を得た身である。キリスト者は皆祭司として、冠を得る。ゼカリヤ書6章後半は、新約の光に照らせば、キリスト者の戴冠について述べている。

 

□ では、新約においては、冠は何を意味するのか?

 

※ 旧約においては、冠は祭司や王の身に着けるものであり、神の恵みや栄光を象徴するものだった

・祭司の冠出エジプト29:6、39:30、レビ記8:9)

・王の冠(サムエル記下1:10  列王記下 11:12 歴代誌下23:11 詩編21:4 詩編89:20)。王の権威を帯びる場合も冠をつけた場合あり(エステル8:15)。

・冠=栄光や誉れ、恵みの象徴詩編8:6、65:12、103:4、箴言4:9、イザヤ28:5、62:13)。

 箴言16:31「白髪は誉れある冠/正義を行う道に見いだされる。」

 箴言17:6「孫は老人の冠/祖先は子孫の誉れ。」

 

※ 新約では、冠は永遠のいのちと義認を意味する。

・イエス茨の冠(マタイ27:29、マルコ15:17、ヨハネ19:2、19:5)をかぶり、十字架の贖いを成し遂げた。

ヘブライ2:9「ただ、「僅かの間、天使より劣る者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と誉れの冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれたのです。」

⇒ イエスは永遠の大祭司(ヘブライ2:17、4:14、6:20)であり、その大祭司イエスは十字架の受難のゆえに栄光と誉れの冠を授けられた。

 

⇒ このイエスの十字架の贖いが私自身の罪の贖いのためであったと信じる者には、義の冠・いのちの冠が約束されている。

 

Ⅱテモテ4:8「今や、義のが私を待っているばかりです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるでしょう。私だけでなく、主が現れるのを心から待ち望むすべての人に授けてくださるでしょう。」

⇒ すべての信仰を持つ者に義の冠が与えられる。

 

ヤコブ1:12 「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格な者とされ、神を愛する者に約束された命の冠を受けるからです。」 ⇒ 命の冠

 

1ペテロ5:4「そうすれば、大牧者が現れるとき、あなたがたは消えることのない栄冠を受けることになります。」 ⇒ 消えることのない栄冠

 

黙示録2:10 「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはならない。見よ、悪魔が試すために、あなたがたのうちのある者を牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間、苦しみを受けるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう。」 ⇒ 命の冠

 

Ⅰコリ9:25「競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるために節制するのです。」 ⇒ 朽ちない冠    ※ 新約では冠は義認・永遠のいのちの象徴

 

※ 旧約聖書続編にも冠についての言及あり。

 

バルク5:2「神からの義の外套を身にまとい/永遠なる方の栄光の冠を頭に戴け。」

エズラ記(ラテン語)2:43「その中央には、背の高い若者がいた。彼は、他の誰よりも秀でており、群衆一人一人の頭にをかぶせており、そしていっそう称賛されていた。私はこの不思議な光景に捕らえられた。」

エズラ記(ラテン語)2:45、46「天使は私に答えて言った。「この人たちは死すべき衣を脱ぎ捨て、不死の衣を身にまとい、神の御名を告白したのだ。今、を戴き、しゅろの葉を受ける。」私は天使に言った。「彼らにをかぶせ、しゅろの葉を手渡しているあの若者は誰なのですか。」

 

⇒ 神の子イエス・キリストから義の冠・命の冠を、キリストの十字架の贖いを信じる者は受ける。

 参照・ルター「喜ばしき交換」:私たちの罪をキリストが引き受け、キリストの義を私たちがいただく。それが十字架の贖いであり、神の一方的な恵み。

 

□ ゼカリヤ6:14 「好意」=「ヘン」=恵み。

⇒ 神からのはかりしれない恵み、またそのような神の愛と恵みは、罪からすでに救われた人々、エクレシアに集う人々によって伝えられていく。エクレシアは、このような神の好意の記念であり、冠そのものである。

 

Ⅰテサロニケ2:19「私たちの主イエスが来られるとき、その御前であなたがた以外の誰が、私たちの希望、喜び、また誇りの冠となるでしょうか。」

⇒ エクレシアはキリストの冠。

(c.f.詩編132:18「しかし、その灯の上には王冠が花開くであろう。」⇒エルサレム(エクレシア)の上に神の王冠が花開く。)

 

※ さらに言えば、私たちはキリストとともに王となる。

 

Ⅱテモテ2:12塚本虎二訳:「(キリストの復活についての)今の言葉は本当である、すなわち――「なぜなら、もしわたし達が(キリストと)一しょに死んだら、一しょに生きる。もしわたし達が耐え忍ぶなら、(キリストと)一しょに王となる。(以下略)」

 

Ⅱテモテ2:12新改訳2017:「次のことばは真実です。/「私たちが、キリストとともに死んだのなら、/キリストとともに生きるようになる。/耐え忍んでいるなら、/キリストとともに王となる。(以下略)」

 

私たちは、キリストの茨の冠と十字架の贖いによって、罪を赦され、義と命の冠が約束されている。神の子・祭司・王となり、キリストの平和をいただくという、はかりしれない「好意」(原語「ヘン」=恵み)を受けている。

 

Ⅴ、おわりに  

 

ゼカリヤ書六章後半から考えたこと

 

・神の好意・恵みのはかりしれなさ。また、万人が祭司である以上、自分もまた祭司の一人であり、「主の声を心して聞く」(ゼカリヤ6:15)ことの大切さ。

 

・ヘレム、トビヤ、エダヤ、ヨシヤのように、捕囚帰還直後の大変な状況にあっても、なけなしの金をはたいて神の御用に役立てるような信仰を、はたして自分が持っているか? ⇒ せめてもささやかな奉仕や労役。

 

・キリストと一致した「平和への思い」(ゼカリヤ6:13)を持って生きるのが祭司(キリスト者)。信仰によって「キリストの平和」をいただき(ヨハネ14:27、16:33)、そのうえで自らの生き方もこの世界に「平和を造る人」となるように努めること(マタイ5:9)。それにはキリストの贖いによる罪の赦しが前提(ヨシュアの戴冠も第四の幻で示された罪の赦しを含めた、八つの幻で示された神の愛と知恵の働きが前提)。

 

・地上の物質的な冠はむなしく、永遠の朽ちることのない霊的な冠こそが本当に意味のある恵み。

 

・ただし、霊的な冠は、神からの好意の象徴であるのと同時に、ある程度は人々からの好意として示されるとも思われる。好意や愛が全ての人々からではなくても、心ある三人、四人の人から示される。それこそ最も価値ある冠。

 ex.中村哲さんのお別れの会、五千人の参列者。多くの人の心からの追悼。cf. 山県有朋、葬儀に一万人の準備をするも実際は千人しか集まらなかった。必ずしも数にはよらないが、心のこもった哀惜や追悼は、その人への冠ではないか。

 cf. 的野ツギノさんの葬儀の時の、義理のお子さんやお孫さんたちからのメッセージに感動したこと。松村敬成さんの葬儀の時の、仕事でかつて関わった方からのメッセージに感動したこと。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/) 他多数