ゼカリヤ書(3) ―神による着替え

 

 

『ゼカリヤ書(3) ―神による着替え』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、神による着替え

Ⅲ、神の約束と地の罪の赦し

Ⅳ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに     

      

前回のまとめ

ゼカリヤ書は、捕囚帰還後の時代に、ハガイとともに神殿再建に尽力した預言者ゼカリヤによる預言(紀元前520年頃)。第一章では、人が神に立ち帰ればただちに神もその人に立ち帰ることが告げられ、ミルトスの林の中で神と人との間をとりなすみ使い(おそらくはキリスト)のビジョンが告げられた。第二章では、四本の角を切る四人の鉄工職人つまり悪と戦う神の使いたちのビジョンと、神が再びエルサレムを選びそこは城壁がなくその只中に神が住んでくださるというビジョンが告げられた。

 

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章 ⇒今回は三章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

☆第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章) ⇒ ※今回

第五の幻 七つのともし火皿と二本のオリーブ (第四章)

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章)

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章)

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)

ヨシュアの戴冠 (第六章)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

 

□ 第三章(第四の幻)の構成 

第一部 神による着替え (3:1~5)

第二部 神の約束と地の罪の赦し (3:6~10)

 

 第三章では、第四の幻が示される。前半の第一部においては、大祭司であるヨシュアが民の代表として主のみ使いの前に立ち、サタンの告発を受けるが、主と主のみ使いはサタンを責め、ヨシュアを汚れた衣から晴れ着に着替えさせ、罪を取り去ったことを宣言する。

さらに、後半の第二部では、神の御言葉に忠実に歩むならば、神の家と庭(エクレシア)を治める身となることと、将来メシアがやって来ること、ヨシュアたちはその予表(しるし)となることが告げられる。そして、七つの目のある石に刻印がなされることにより、地の罪が一日で除かれ、人々の平和が来ることが告げられる。新約から見れば、ここに十字架の贖罪の預言が示されている。

 

Ⅱ、神による着替え (3:1~3:5)

 

◇ 3:1 神の法廷におけるヨシュアと主のみ使いとサタン

 

ヨシュア:当時の大祭司。総督のゼルバベルと共に捕囚帰還後のユダヤの民の指導者として尽力。ハガイ1:12には、ゼルバベルと共にハガイの預言に耳を傾けたことが記されている。(ゼカリヤ書1:12では民とともに自分たちの罪を認め神に立ち帰ることを表明したと考えられる)。

 

主のみ使い:第一章・第二章に登場したみ使いか?だとすれば、神と人との間をとりなす仲保者であるイエス・キリスト。 ※バルバロ訳では「主の天使」。

 

サタンヘブライ語では「敵対者」一般を指す(岩波訳では「敵対者」)。ただし、ここでは神の法廷において、人の罪を告発する役割を果たしており、単なる敵対者一般というより、人間に対して罪の裁きを要求し滅ぼそうとする霊的な存在を表している(後世の新約時代にはそのような意味での固有名詞)。

 旧約においては、人口統計をつくるようにダビデをそそのかすサタン(歴代誌21:1)や、ヨブを試すように神に対して勧めるサタン(ヨブ記1:6-12)などが現れる。新約では、人を誘惑し(Ⅰコリ7:5)、つけこみ(Ⅱコリ2:11)、妨げ(Ⅰテサロニケ2:18)、道を踏み外させる(Ⅰテモテ5:15)存在としてサタンが言及されている。最終的にサタンは神に敗北する(黙示録20:7-10)。

 

 

◇ 3:2 主のみ使いによる弁護

 

・主のみ使いは、神がサタンを責められることを二回述べ、人の罪を許さず裁きを要求し滅ぼそうとするサタンの姿勢が神の御心にかなわないことを述べる。

c.f. マタイ18:14「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 c.f. 弁護者(パラクレートス)ヨハネ14章

 

燃えさし:バルバロ訳「燃え残りの木」。

神の怒りはしばしば「燃える炉」や「炎」「火」と表現される(詩21:10、詩18:9など)。「火」は人を試し(詩17:3-4、詩26:2)、銀を火で練るように試みて清める試練を意味する(詩66:10)。

⇒ ここでは、バビロン捕囚という大きな苦難を経て生き残ってきたことを、「燃えさし」「燃え残りの木」と呼んでいると考えられる。

主のみ使い(キリスト)は、大きな苦難を経て神の言葉に耳を傾けるようになったヨシュアヨシュアが代表するイスラエルの民を愛し、彼らを完全に滅ぼすことを望まず、サタンの告発から弁護し守ろうとしている。

c.f. 「残りの者」(ミカ2:12、同5:6、アモス5:15、ゼファニヤ3:13、ヨエル3:5、イザヤ4:3、同10:20-22など。)

 

◇ 3:3-5 神による着替え

 

ヨシュアは汚れた衣を着て、み使いの前に立っている。(3:3)

⇒ 「汚れた衣」=罪に汚れている状態。

 

ヨシュアの罪とは?:

・神に背き、偶像崇拝や社会的不正義に耽り、南ユダ王国が滅亡するという事態に立ち至ったユダヤの民。

・バビロン捕囚期においても、異国の風習や文化に染まったことが考えられる(ヨシュアの一族も異民族の女性と結婚した者が多数いたことが記されている(のちに離縁)(エズラ10:18-19)。)

・捕囚期間後も二十年の間、神殿再建が滞っていたことは、ハガイ書が記すとおりであり、ヨシュアはその点では力不足の指導者でもあった。

 

・さらに言えば、アダム以来、人は神から離れようとする傾向・罪を持っており、皆大なり小なり汚れた衣を着てキリストの前に立っていると言える。(創世記3章、ホセア6:7、ロマ5:12、知恵の書2:23-24)。

 

◇ 3:4 「晴れ着」=新改訳2017・岩波訳「礼服」、関根訳「立派な服」

 

・「過ち」=新改訳2017・岩波訳「咎」、フランシスコ会訳・関根訳「罪」。

 

フランシスコ会訳3:4「見よ、わたしはお前の罪を取り除いた。お前に礼服を着せよう。」

バルバロ訳3:4b「<見よ、私は、お前の罪を取り除いた>。」

 

⇒ み使い(キリスト)は、天使たちにヨシュアの汚れた衣を脱がせ、罪を取り除き、礼服を着せる。

 

c.f. マタイ22章、宴会のたとえ。天国の宴会では「礼服」をつけている必要があり、礼服を着ていないと追い出される。

 

礼服=キリストを信じることによって神に義とされること。キリストを着る。

 

「主イエス・キリストを着なさい。」(ロマ13:14a)

「キリストにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)

c.f. 新しい人を着なさい(エフェソ4:24)、朽ちる存在の人間が不朽の死なないものを着る(Ⅰコリ15:53)。

 

・人は罪(汚れた衣)を身にまとっているが、キリストの十字架の贖いを信じるだけで「汚れた衣」を脱ぎ、罪が赦され、「礼服」を着、キリストを着て、神の御前に立ち、キリストや天使と交わることができる存在となるというのが聖書の示すところである。黙示録によれば、天国の住人は「白い衣」を着ている。(黙示録3:4、3:5、4:4、6:11、7:9、7:13-17)。

 

◇3:5 「清いターバン」=フランシスコ会訳・岩波訳・バルバロ訳「清いかぶりもの」。 ⇒ 礼服をより完全にするという意味か。頭を清いターバン・かぶりもので覆うということで、思考までも完全に清らかな神にふさわしい聖なるものとなる、という意味か。(信仰による義認⇒一生をかけての完全なる聖潔)

 

 

Ⅲ、神の約束と地の罪の赦し(3:6~3:10) 

 

◇  3:7 

「家」:ヘブライ語バイス」。神の家の意味の場合は「神殿」と訳される。

「庭」:聖書では、庭・園は荒野と対比され平和な美しい豊かなイメージと結びつく。また、出エジプト記27章では「幕屋を囲む庭」が記され、庭は神の臨在の場所という意味もある。

 

⇒ 神の道を歩み、務め(関根訳「誡命」、新改訳2017「戒め」)を守るならば、神の家と庭の管理者となる。エクレシア(集会、教会)を守る者となる。

 

※ 信仰によって罪が赦されたのちは、神の御言葉に従って生きることが勧められている。

c.f. ヨハネ8:11 姦淫の女へのイエスのことば「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」

c.f. Ⅰヨハ2:6「神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。」

そして、さらに、そのように御言葉に従って生きるようになった人は、自分だけでなく、エクレシアにおいて応分の役目を果たし、エクレシアを守るべきことが期待されていることが、この箇所では言われていると考えられる。

 

◇ 3:7c「ここに立っている者たちの間で行き来することを許す。」

 

フランシスコ会訳3:7c「ここに立っている者たちの間に入ることを許そう。」

=神やキリストや天使や聖徒の交わりに入ることが許されること。

 

・「礼服」を着た人は、神やキリストやエクレシアの交わり(コイノニア)に入ることが許され、可能となる。 

c.f. ヤコブの梯子(創世記28:11-12)

ヨハネ1:51「さらに言われた。「よくよく言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

  •  3:8 

 

「しるし」=文語訳「前表(しるし)」。予表。

 

イザヤ書20:3、エゼキエル12:11などの用例では、これから起こる出来事の前触れ・兆しという意味で「しるし」という言葉を使う場合がある。

 

「若枝」:メシアのこと。キリストのこと。

・イザヤ4:2「その日には、主の若枝は麗しく、光り輝く。地の実りは、イスラエルの生き残った者にとって誇りと栄誉となる。」

・イザヤ11:1「エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち」

・イザヤ53:2「この人は主の前で若枝のように/乾いた地から出た根のように育った。彼には見るべき麗しさも輝きもなく/望ましい容姿もない。」

他、エレミヤ23:5、同33:15、ホセア14:7等。

 

※ ヨシュアやその同僚の人々(つまり当時のイスラエルの大祭司や祭司たちや総督ゼルバベルなど)が、メシア(キリスト)の予表・先ぶれとなることと、メシアが来ることが告げられている。「ヨシュア」という名前は、ギリシャ語では「イエス」である。

 ヨシュアの姿は、罪の赦しの宣言という意味でキリストの十字架による贖罪の予表であるのと同時に、ヨシュアが大祭司だということはキリストの贖いによって救われた人は皆「祭司」になるという新約の予表も意味していると考えられる(Ⅰペテロ2:9、黙示録5:10)。万人祭司の予表というしるしだとも、キリスト教の信仰の立場からは考えられる。

 

  •  3:9 ヨシュアの前に置かれた「石」の「七つの目」と、そこに刻まれるものと、罪の除去

 

 石の上の「七つの目」:

① ゼカリヤ4:10では、石にある七つの目は「すべての地を巡る主の目」だと言われている。ゆえに、このゼカリヤ3:9も、すべてを見守るし完全に知る「主の目」をこのように表現していると考えられる(7はユダヤにおいて完全数)。

② 「石」を宝石と考えれば、切子面のことを「目」と呼んでいると考えられる。大祭司の胸当てに付ける宝石のことか。ただし、ヨシュアの「前に置いた石」なので、この解釈が妥当かはいささか疑問。

③ 「目」のヘブライ語「アイン」(ayin)は、「泉」を意味する場合があり、その場合は、石に七つの泉があるということになる。石に七つの泉があり、その入り口を開けておく、という意味になる。モーセが岩を打って泉を湧かせたこと(出エジプト17:6、民数記20:7-11)や、いのちの水(ヨハネ4:14)とつながる。

 

⇒ おそらく、ゼカリヤは①の「目」と③の「泉」の両方の意味を「アイン」の語に持たせたと考えられる。(c.f. イザヤ11:2、黙示録1:4-5、七つの霊)

 

「石」:イエスは「かなめ石」(エフェソ2:20、Ⅰペテロ2:6)、

「親石」(マタイ21:42、マルコ12:10、ルカ20:17、使徒4:11、詩篇118:22「家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。」

「岩」:いのちの水の湧いた岩=キリスト(Ⅰコリ10:4)

 

  • 3:9c「私はそこに文字を刻む。」

 

岩波訳「見よ、わたしがそこに彫るべき徴を刻み込む。」

(岩波訳脚注「徴」の原語は「彫り物」と注記。(ヘブライ語:ピットゥアハ))

 

バルバロ訳「見よ、私は、みずから、この石の上に銘を刻む」

 

⇒ 文字を刻むというよりも、なんらかの銘・彫りこみをそこに刻むというのが正しい意味と思われる。

 

⇒ つまり、「隅の親石」・「霊的な岩」でありすべてを知り人々を慈しみ見守る(七つの目・いのちの泉)であるキリストに、十字架という人類の忘れえぬ彫りこみがなされる。

 

□ 3:9d「そして私はこの地の過ちを一日のうちに取り除く。」

 

関根訳「そして一日のうちにその地の罪を除く。」

⇒ 七つの目・泉の石に彫りこみがなされ、一日のうちに全人類の罪が除かれる。 

⇒ キリストの十字架の受難による人類の罪の贖いことと考えられる。

 

◇ 3:10 ぶどう・いちじく=新約と旧約のことか。

キリストの福音が世界に広まったのちには、旧約と新約の御言葉の両方を人々がよく学び、御言葉に従うようになり、神を愛し隣人を愛し、おのおのそれぞれ自分の場所を持ち、全き平和が来る、の意か。

c.f. ミカ書4:4「人はそれぞれ自らのぶどうの木/いちじくの木の下に座し/脅かすものは誰もいないと/万軍の主の口が語られる。」

 

 

Ⅳ、おわりに  

 

ゼカリヤ書三章(第四の幻)から考えたこと

 

・ゼカリヤ書第三章に記される「第四の幻」は、キリストの十字架の贖いによる人類の罪の赦しを示しているとしか私には思えない。旧約において、最も人類の罪に対する神の赦しを明確に示している預言と考えられる。この「第四の幻」の意味は、新約の時代において明らかにされたと考えられる。

 

・キリスト以前の時代に生きた人々は予表・前表という意味でキリストの「しるし」であり、キリストの以後の時代に生きるキリスト者は「キリストの香り」(Ⅱコリ2:14-16)という意味で「しるし」なのだと思われる。

 

・最近見た映画『バラバ』(イタリア、1961年。アンソニー・クイン主演)

 悪人で、すべて的外れで、なかなか回心しないバラバが、最後はキリストにすべてをゆだねる。

 思えば、出エジプト記に出てくる頑ななファラオや、列王記・歴代誌・預言書に出てくる頑なな民、そしてバラバは、私自身の姿であると思われる。

 そのような自分が、不思議な導きにより、キリストを信じ、御言葉を学ぶようになったのは、本当にありがたいことだと思う。

 

芥川龍之介西方の人』『続・西方の人』 

芥川が独自の観点からイエスを描き、常に「超えていこう」とする人であり、俗物と闘い、共産主義的で、ボヘミアンな人物として、天才的な「ジャアナリスト」だったとしている。それらは大変興味深く、魅力的で、イエスのある側面については鋭くとらえている部分もあると思われるが、「十字架の贖い」が決定的に抜け落ちている。晩年の芥川はキリストに随分と心惹かれていたようで、『続・西方の人』は遺稿でもあったが、最後まで贖罪の信仰に至らなかった。自殺してしまったのは、そのことが大きかったように思われる。

 

・「かくして、人がイエスの十字架の死の中に己自身の罪を認め、イエスが死んだのは自分の罪のために自分に代わって死んだのであることを信ずるならば、神はイエスの従順のゆえに、かく信ずる人の罪を赦す。すなわちもはやその人の罪の責任を追求しないのである。

 このように、イエスは我らの罪のために十字架にわたされ、我らの義とせられるために復活させられた。このことを信ずる者には聖霊によりて新しい生命が注がれ、神に対する背反はいやされて、神に対する従順の心が与えられる。第一の人アダムの背反がすべての人の原罪となって、人に死をもたらしたように、第二のキリストの従順は、彼を信ずるすべての人に罪の赦しと新しい生命をもたらしたのである。」

矢内原忠雄キリスト教入門』(中公文庫)、101-102頁)

 

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、神による着替え

Ⅲ、神の約束と地の罪の赦し

Ⅳ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに     

      

前回のまとめ

ゼカリヤ書は、捕囚帰還後の時代に、ハガイとともに神殿再建に尽力した預言者ゼカリヤによる預言(紀元前520年頃)。第一章では、人が神に立ち帰ればただちに神もその人に立ち帰ることが告げられ、ミルトスの林の中で神と人との間をとりなすみ使い(おそらくはキリスト)のビジョンが告げられた。第二章では、四本の角を切る四人の鉄工職人つまり悪と戦う神の使いたちのビジョンと、神が再びエルサレムを選びそこは城壁がなくその只中に神が住んでくださるというビジョンが告げられた。

 

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章 ⇒今回は三章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

☆第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章) ⇒ ※今回

第五の幻 七つのともし火皿と二本のオリーブ (第四章)

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章)

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章)

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)

ヨシュアの戴冠 (第六章)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

 

□ 第三章(第四の幻)の構成 

第一部 神による着替え (3:1~5)

第二部 神の約束と地の罪の赦し (3:6~10)

 

 第三章では、第四の幻が示される。前半の第一部においては、大祭司であるヨシュアが民の代表として主のみ使いの前に立ち、サタンの告発を受けるが、主と主のみ使いはサタンを責め、ヨシュアを汚れた衣から晴れ着に着替えさせ、罪を取り去ったことを宣言する。

さらに、後半の第二部では、神の御言葉に忠実に歩むならば、神の家と庭(エクレシア)を治める身となることと、将来メシアがやって来ること、ヨシュアたちはその予表(しるし)となることが告げられる。そして、七つの目のある石に刻印がなされることにより、地の罪が一日で除かれ、人々の平和が来ることが告げられる。新約から見れば、ここに十字架の贖罪の預言が示されている。

 

Ⅱ、神による着替え (3:1~3:5)

 

◇ 3:1 神の法廷におけるヨシュアと主のみ使いとサタン

 

ヨシュア:当時の大祭司。総督のゼルバベルと共に捕囚帰還後のユダヤの民の指導者として尽力。ハガイ1:12には、ゼルバベルと共にハガイの預言に耳を傾けたことが記されている。(ゼカリヤ書1:12では民とともに自分たちの罪を認め神に立ち帰ることを表明したと考えられる)。

 

主のみ使い:第一章・第二章に登場したみ使いか?だとすれば、神と人との間をとりなす仲保者であるイエス・キリスト。 ※バルバロ訳では「主の天使」。

 

サタンヘブライ語では「敵対者」一般を指す(岩波訳では「敵対者」)。ただし、ここでは神の法廷において、人の罪を告発する役割を果たしており、単なる敵対者一般というより、人間に対して罪の裁きを要求し滅ぼそうとする霊的な存在を表している(後世の新約時代にはそのような意味での固有名詞)。

 旧約においては、人口統計をつくるようにダビデをそそのかすサタン(歴代誌21:1)や、ヨブを試すように神に対して勧めるサタン(ヨブ記1:6-12)などが現れる。新約では、人を誘惑し(Ⅰコリ7:5)、つけこみ(Ⅱコリ2:11)、妨げ(Ⅰテサロニケ2:18)、道を踏み外させる(Ⅰテモテ5:15)存在としてサタンが言及されている。最終的にサタンは神に敗北する(黙示録20:7-10)。

 

 

◇ 3:2 主のみ使いによる弁護

 

・主のみ使いは、神がサタンを責められることを二回述べ、人の罪を許さず裁きを要求し滅ぼそうとするサタンの姿勢が神の御心にかなわないことを述べる。

c.f. マタイ18:14「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 c.f. 弁護者(パラクレートス)ヨハネ14章

 

燃えさし:バルバロ訳「燃え残りの木」。

神の怒りはしばしば「燃える炉」や「炎」「火」と表現される(詩21:10、詩18:9など)。「火」は人を試し(詩17:3-4、詩26:2)、銀を火で練るように試みて清める試練を意味する(詩66:10)。

⇒ ここでは、バビロン捕囚という大きな苦難を経て生き残ってきたことを、「燃えさし」「燃え残りの木」と呼んでいると考えられる。

主のみ使い(キリスト)は、大きな苦難を経て神の言葉に耳を傾けるようになったヨシュアヨシュアが代表するイスラエルの民を愛し、彼らを完全に滅ぼすことを望まず、サタンの告発から弁護し守ろうとしている。

c.f. 「残りの者」(ミカ2:12、同5:6、アモス5:15、ゼファニヤ3:13、ヨエル3:5、イザヤ4:3、同10:20-22など。)

 

◇ 3:3-5 神による着替え

 

ヨシュアは汚れた衣を着て、み使いの前に立っている。(3:3)

⇒ 「汚れた衣」=罪に汚れている状態。

 

ヨシュアの罪とは?:

・神に背き、偶像崇拝や社会的不正義に耽り、南ユダ王国が滅亡するという事態に立ち至ったユダヤの民。

・バビロン捕囚期においても、異国の風習や文化に染まったことが考えられる(ヨシュアの一族も異民族の女性と結婚した者が多数いたことが記されている(のちに離縁)(エズラ10:18-19)。)

・捕囚期間後も二十年の間、神殿再建が滞っていたことは、ハガイ書が記すとおりであり、ヨシュアはその点では力不足の指導者でもあった。

 

・さらに言えば、アダム以来、人は神から離れようとする傾向・罪を持っており、皆大なり小なり汚れた衣を着てキリストの前に立っていると言える。(創世記3章、ホセア6:7、ロマ5:12、知恵の書2:23-24)。

 

◇ 3:4 「晴れ着」=新改訳2017・岩波訳「礼服」、関根訳「立派な服」

 

・「過ち」=新改訳2017・岩波訳「咎」、フランシスコ会訳・関根訳「罪」。

 

フランシスコ会訳3:4「見よ、わたしはお前の罪を取り除いた。お前に礼服を着せよう。」

バルバロ訳3:4b「<見よ、私は、お前の罪を取り除いた>。」

 

⇒ み使い(キリスト)は、天使たちにヨシュアの汚れた衣を脱がせ、罪を取り除き、礼服を着せる。

 

c.f. マタイ22章、宴会のたとえ。天国の宴会では「礼服」をつけている必要があり、礼服を着ていないと追い出される。

 

礼服=キリストを信じることによって神に義とされること。キリストを着る。

 

「主イエス・キリストを着なさい。」(ロマ13:14a)

「キリストにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)

c.f. 新しい人を着なさい(エフェソ4:24)、朽ちる存在の人間が不朽の死なないものを着る(Ⅰコリ15:53)。

 

・人は罪(汚れた衣)を身にまとっているが、キリストの十字架の贖いを信じるだけで「汚れた衣」を脱ぎ、罪が赦され、「礼服」を着、キリストを着て、神の御前に立ち、キリストや天使と交わることができる存在となるというのが聖書の示すところである。黙示録によれば、天国の住人は「白い衣」を着ている。(黙示録3:4、3:5、4:4、6:11、7:9、7:13-17)。

 

◇3:5 「清いターバン」=フランシスコ会訳・岩波訳・バルバロ訳「清いかぶりもの」。 ⇒ 礼服をより完全にするという意味か。頭を清いターバン・かぶりもので覆うということで、思考までも完全に清らかな神にふさわしい聖なるものとなる、という意味か。(信仰による義認⇒一生をかけての完全なる聖潔)

 

 

Ⅲ、神の約束と地の罪の赦し(3:6~3:10) 

 

◇  3:7 

「家」:ヘブライ語バイス」。神の家の意味の場合は「神殿」と訳される。

「庭」:聖書では、庭・園は荒野と対比され平和な美しい豊かなイメージと結びつく。また、出エジプト記27章では「幕屋を囲む庭」が記され、庭は神の臨在の場所という意味もある。

 

⇒ 神の道を歩み、務め(関根訳「誡命」、新改訳2017「戒め」)を守るならば、神の家と庭の管理者となる。エクレシア(集会、教会)を守る者となる。

 

※ 信仰によって罪が赦されたのちは、神の御言葉に従って生きることが勧められている。

c.f. ヨハネ8:11 姦淫の女へのイエスのことば「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」

c.f. Ⅰヨハ2:6「神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。」

そして、さらに、そのように御言葉に従って生きるようになった人は、自分だけでなく、エクレシアにおいて応分の役目を果たし、エクレシアを守るべきことが期待されていることが、この箇所では言われていると考えられる。

 

◇ 3:7c「ここに立っている者たちの間で行き来することを許す。」

 

フランシスコ会訳3:7c「ここに立っている者たちの間に入ることを許そう。」

=神やキリストや天使や聖徒の交わりに入ることが許されること。

 

・「礼服」を着た人は、神やキリストやエクレシアの交わり(コイノニア)に入ることが許され、可能となる。 

c.f. ヤコブの梯子(創世記28:11-12)

ヨハネ1:51「さらに言われた。「よくよく言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

  •  3:8 

 

「しるし」=文語訳「前表(しるし)」。予表。

 

イザヤ書20:3、エゼキエル12:11などの用例では、これから起こる出来事の前触れ・兆しという意味で「しるし」という言葉を使う場合がある。

 

「若枝」:メシアのこと。キリストのこと。

・イザヤ4:2「その日には、主の若枝は麗しく、光り輝く。地の実りは、イスラエルの生き残った者にとって誇りと栄誉となる。」

・イザヤ11:1「エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち」

・イザヤ53:2「この人は主の前で若枝のように/乾いた地から出た根のように育った。彼には見るべき麗しさも輝きもなく/望ましい容姿もない。」

他、エレミヤ23:5、同33:15、ホセア14:7等。

 

※ ヨシュアやその同僚の人々(つまり当時のイスラエルの大祭司や祭司たちや総督ゼルバベルなど)が、メシア(キリスト)の予表・先ぶれとなることと、メシアが来ることが告げられている。「ヨシュア」という名前は、ギリシャ語では「イエス」である。

 ヨシュアの姿は、罪の赦しの宣言という意味でキリストの十字架による贖罪の予表であるのと同時に、ヨシュアが大祭司だということはキリストの贖いによって救われた人は皆「祭司」になるという新約の予表も意味していると考えられる(Ⅰペテロ2:9、黙示録5:10)。万人祭司の予表というしるしだとも、キリスト教の信仰の立場からは考えられる。

 

  •  3:9 ヨシュアの前に置かれた「石」の「七つの目」と、そこに刻まれるものと、罪の除去

 

 石の上の「七つの目」:

① ゼカリヤ4:10では、石にある七つの目は「すべての地を巡る主の目」だと言われている。ゆえに、このゼカリヤ3:9も、すべてを見守るし完全に知る「主の目」をこのように表現していると考えられる(7はユダヤにおいて完全数)。

② 「石」を宝石と考えれば、切子面のことを「目」と呼んでいると考えられる。大祭司の胸当てに付ける宝石のことか。ただし、ヨシュアの「前に置いた石」なので、この解釈が妥当かはいささか疑問。

③ 「目」のヘブライ語「アイン」(ayin)は、「泉」を意味する場合があり、その場合は、石に七つの泉があるということになる。石に七つの泉があり、その入り口を開けておく、という意味になる。モーセが岩を打って泉を湧かせたこと(出エジプト17:6、民数記20:7-11)や、いのちの水(ヨハネ4:14)とつながる。

 

⇒ おそらく、ゼカリヤは①の「目」と③の「泉」の両方の意味を「アイン」の語に持たせたと考えられる。(c.f. イザヤ11:2、黙示録1:4-5、七つの霊)

 

「石」:イエスは「かなめ石」(エフェソ2:20、Ⅰペテロ2:6)、

「親石」(マタイ21:42、マルコ12:10、ルカ20:17、使徒4:11、詩篇118:22「家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。」

「岩」:いのちの水の湧いた岩=キリスト(Ⅰコリ10:4)

 

  • 3:9c「私はそこに文字を刻む。」

 

岩波訳「見よ、わたしがそこに彫るべき徴を刻み込む。」

(岩波訳脚注「徴」の原語は「彫り物」と注記。(ヘブライ語:ピットゥアハ))

 

バルバロ訳「見よ、私は、みずから、この石の上に銘を刻む」

 

⇒ 文字を刻むというよりも、なんらかの銘・彫りこみをそこに刻むというのが正しい意味と思われる。

 

⇒ つまり、「隅の親石」・「霊的な岩」でありすべてを知り人々を慈しみ見守る(七つの目・いのちの泉)であるキリストに、十字架という人類の忘れえぬ彫りこみがなされる。

 

□ 3:9d「そして私はこの地の過ちを一日のうちに取り除く。」

 

関根訳「そして一日のうちにその地の罪を除く。」

⇒ 七つの目・泉の石に彫りこみがなされ、一日のうちに全人類の罪が除かれる。 

⇒ キリストの十字架の受難による人類の罪の贖いことと考えられる。

 

◇ 3:10 ぶどう・いちじく=新約と旧約のことか。

キリストの福音が世界に広まったのちには、旧約と新約の御言葉の両方を人々がよく学び、御言葉に従うようになり、神を愛し隣人を愛し、おのおのそれぞれ自分の場所を持ち、全き平和が来る、の意か。

c.f. ミカ書4:4「人はそれぞれ自らのぶどうの木/いちじくの木の下に座し/脅かすものは誰もいないと/万軍の主の口が語られる。」

 

 

Ⅳ、おわりに  

 

ゼカリヤ書三章(第四の幻)から考えたこと

 

・ゼカリヤ書第三章に記される「第四の幻」は、キリストの十字架の贖いによる人類の罪の赦しを示しているとしか私には思えない。旧約において、最も人類の罪に対する神の赦しを明確に示している預言と考えられる。この「第四の幻」の意味は、新約の時代において明らかにされたと考えられる。

 

・キリスト以前の時代に生きた人々は予表・前表という意味でキリストの「しるし」であり、キリストの以後の時代に生きるキリスト者は「キリストの香り」(Ⅱコリ2:14-16)という意味で「しるし」なのだと思われる。

 

・最近見た映画『バラバ』(イタリア、1961年。アンソニー・クイン主演)

 悪人で、すべて的外れで、なかなか回心しないバラバが、最後はキリストにすべてをゆだねる。

 思えば、出エジプト記に出てくる頑ななファラオや、列王記・歴代誌・預言書に出てくる頑なな民、そしてバラバは、私自身の姿であると思われる。

 そのような自分が、不思議な導きにより、キリストを信じ、御言葉を学ぶようになったのは、本当にありがたいことだと思う。

 

芥川龍之介西方の人』『続・西方の人』 

芥川が独自の観点からイエスを描き、常に「超えていこう」とする人であり、俗物と闘い、共産主義的で、ボヘミアンな人物として、天才的な「ジャアナリスト」だったとしている。それらは大変興味深く、魅力的で、イエスのある側面については鋭くとらえている部分もあると思われるが、「十字架の贖い」が決定的に抜け落ちている。晩年の芥川はキリストに随分と心惹かれていたようで、『続・西方の人』は遺稿でもあったが、最後まで贖罪の信仰に至らなかった。自殺してしまったのは、そのことが大きかったように思われる。

 

・「かくして、人がイエスの十字架の死の中に己自身の罪を認め、イエスが死んだのは自分の罪のために自分に代わって死んだのであることを信ずるならば、神はイエスの従順のゆえに、かく信ずる人の罪を赦す。すなわちもはやその人の罪の責任を追求しないのである。

 このように、イエスは我らの罪のために十字架にわたされ、我らの義とせられるために復活させられた。このことを信ずる者には聖霊によりて新しい生命が注がれ、神に対する背反はいやされて、神に対する従順の心が与えられる。第一の人アダムの背反がすべての人の原罪となって、人に死をもたらしたように、第二のキリストの従順は、彼を信ずるすべての人に罪の赦しと新しい生命をもたらしたのである。」

矢内原忠雄キリスト教入門』(中公文庫)、101-102頁)

 

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数