『ゼカリヤ書(1) ―神に帰ること』
Ⅰ、はじめに
Ⅱ、神に帰ること
Ⅲ、第一の幻 ミルトスの林と馬
Ⅳ、おわりに
Ⅰ、はじめに
・ゼカリヤ書
十二小預言書のひとつ。全十四章。バビロン捕囚から帰還した後の時代に、ハガイとともに神殿再建に尽力した預言者ゼカリヤによる預言をまとめたものとされる。内容は、極めて不思議なビジョンに満ちた、いわゆる黙示を多く含む。また、神に立ち帰ることや、社会正義を勧めている。
ゼカリヤ書の特徴は、十二小預言書中最も多くのメシア預言を含むことである。ろばに乗ったメシア等の預言は、のちに福音書に引用されている。さらに、メシアが受難することが明確に預言されている。
・ゼカリヤとは誰か?:
ゼカリヤ書冒頭に祖父にまで及ぶ三代の家系図が書かれており、祖父のイドは帰還した祭司としてネヘミヤ記に記されている(ネヘミヤ記12:4)。したがって、ゼカリヤはレビ人の祭司の家系の名門出身であることがわかる。捕囚から帰還した頃は、極めて若かったことがネヘミヤ記から推測される。老人だったと推測されるハガイとともに、神殿再建について預言し人々を慰め励ましたことがゼカリヤ書前半からはうかがえる。後半の九章以降もゼカリヤの預言だとすれば、神殿完成後かなり経ってからも預言を続けたと考えられる。
・ゼカリヤの時代背景:
ゼカリヤ書の第一章にはペルシア帝国のダレイオス王の第二年八月と、また、第七章にはダレイオス王の第四年という日時が記されており、紀元前520年および紀元前518年にそれらの預言がなされたことがわかる。
ただし、第九章以降は日付が存在せず、かつかなり内容が異なるので、もしゼカリヤ自身の預言とすれば、かなり後年に、おそらく紀元前480年頃になされた預言と推測される。別の学説では、後半は別人の手により、おそらくヘレニズム期、紀元前218年から紀元前134年の間、マカバイ戦争の時代と考えられている(第二ゼカリヤ)。さらに第十二章以降を第三ゼカリヤとする説もある。
※ 「ゼカリヤ書の構成」
第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章
第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章
ゼカリヤ書は、大きく二つの部分に分けられる。
第一部においては、八つの幻を通じて、神殿再建期のイスラエルを慰め励ます内容となっている。また、社会正義こそが重要とも説かれる。
第二部では、終末における諸国民の審判や、イスラエル・エルサレムの救いが描かれ、メシアがろばに乗ってやってくること、およびメシアが受難すること等が預言されている。第二部はアラム語由来の言葉を含み、内容も異なるので、別人による預言という説もある(第二ゼカリヤ)。ただし、第一部が若い時の、第二部が年をとってからの預言という説もある。
・第一部(第一~第八章)の構成
神に帰ること (第一章) ⇒ 今回
第一の幻 ミルトスの林と馬 (第一章) ⇒ 今回
第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)
第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)
第四の幻 汚れた衣を晴れ着に着替えさせられる (第三章)
第五の幻 七つのともし火皿と二本のオリーブ (第四章)
第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章)
第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章)
第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)
ヨシュアの戴冠 (第六章)
真実と正義の勧め (第七~八章)
第一部は、八つの幻と、神に帰ることへの勧めと、社会正義の勧めがなされている。これらを通じて、神殿再建と捕囚期間後のイスラエルの本当の意味での復興が目指され、図られている。
・新約聖書との関連において特に注目すべきこと
ゼカリヤ書には、新約聖書との関連で、以下の注目すべき内容がある。
・ろばに乗ったメシア(9:9)→ マタイ21章、マルコ11章、ルカ19章、ヨハネ12章。 四福音書すべてが記すエピソード。
・契約の血(9:11) → マルコ14:24 キリストの贖いの血=契約の血
・銀30シェケル(銀貨30枚) (11:12) → マタイ26:15、27:9(実はエレミヤにはない)
・命の水(14:8) → 黙示録7:17、21:6、22:1、22:17
・一日のうちに罪を取り除く(3:9) → キリストの十字架の贖い
・受難のメシア(12:10)
⇒ ゼカリヤ書は全体として、神に帰るべきことと、その帰るべき対象であるメシアは平和と受難のメシアであることを述べている。キリスト教の信仰の立場から言えば、イエス・キリストを預言した預言書として、ゼカリヤ書はイザヤ書同様に極めて貴重な内容と言える。
Ⅱ、神に帰ること (1:1~1:6)
◇ 1:1 題辞
ダレイオス:ペルシア帝国第三代皇帝ダレイオス一世。治世はBC522からBC486年。
その第二年八月は、紀元前520年の10~11月。(すでに同年の二か月前と一か月前にハガイの預言があり、ゼルバベルとヨシュアと民は神の言葉に耳を傾け、神が共にいることと勇気を出すべきことが告げられていた。)
イド:「神の友」という意味の名前。ゼカリヤの祖父。ただし、エズラ5:1、同6:14では、ゼカリヤの父と伝えられる。ネヘミヤ12:4によれば、レビ人の家系の祭司であり、ゼルバベルとヨシュアとともにバビロンからエルサレムに帰還した。
ベレクヤ:「ヤハウェは祝福したもう」という意味の名前。ゼカリヤの父。ただし、前述のとおり、エズラ記においては、ゼカリヤはイドの息子とされ、ベレクヤの名は省かれている。ベレクヤが若くして亡くなったか、あるいは何か事情があったと推測される。聖書中他に記載なし。
ゼカリヤ:「ヤハウェは覚え給う」という意味の名前。イドの孫とすれば、第一章当時は極めて若年だったと推測される。
◇ 1:2 主の怒り=バビロン捕囚、および帰還後の苦しみのこと。
◇ 1:3
新改訳2017:
「あなたは人々に言え。/『万軍の主はこう言われる。/わたしに帰れ。/―万軍の主のことば―/そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。/万軍の主は言われる。』
文語訳:「万軍のエホバ、かく言ふと、汝かれらに告(つげ)よ。万軍のエホバ言ふ、汝ら我に帰れ、万軍のエホバいふ、我も汝らに帰らん。」
※ 立ち帰る・帰る = シューヴ 英訳:return, turn
回心、心の方向転換。
神以外のものを向いていたことから、神の方向に向き直ること、神に帰ること。
⇒ 人が神に帰れば、神も人に帰ると、ゼカリヤ書では明確に告げられる。
⇒ 十二小預言書はすべて神に立ち帰り、神を求めることを勧めている。
ホセア12:7、14:2-3 ヨエル2:12-13 アモス5:4、5:6
ヨナ(神の逃亡から神の意志に従うことと、さらに深い神の意志を知ること)
ミカ5:8「へりくだって神と共に歩むこと」 ナホム1:7 ハバクク2:20
ゼファニヤ2:3 ハガイ(神の家を大切にすること) マラキ3:7
⇒ イザヤ・エレミヤ・エゼキエルの三大預言書も同様。
- その中で、ゼカリヤ1:3は、ただ神に帰ることが呼びかけられ、特になんらかの条件や行いは何も要求されていない。
参照:ルカ15:11-32 放蕩息子の帰還
神の愛への帰還。
- 私自身のこと:中学の時に一度聖書を通読し、山上の垂訓に感動したこともあったが、長く聖書からは離れていた。家族の死や、家の経済的困窮の苦しみの中で、随分遠回りしたのち、再び聖書をよく読むようになった。それからは、不思議と生きることがだいぶラクになり、心に幸せを多く感じるようになった。
- まずは、理屈や行いでなく、ただ神の愛に帰ることの大事さ。(参照:内村鑑三とシーリーのエピソード)
◇ 1:4~6 先祖のようであってはならない
ユダヤの人々の先祖は預言者を通じて語られる神の言葉に聞く耳を持たなかったことが記され、そのようになってはならないと諭されている。
先祖のようであることの具体例:詩編78:8「頑なな反抗」、エレミヤ11:8「耳を傾けず、聞き従わず、おのおのその悪い心のかたくなさのままに歩んだ。」
(十二小預言書、三大預言書を通じて、偶像崇拝や社会の不正義を批判)
1:4b 新改訳2017:『万軍の主はこう言われる。/あなたがたは悪の道と悪しきわざから立ち返れ。』 ← 先祖への呼びかけ。
1:6a 新改訳2017:「しかし、わたしのしもべである預言者たちにわたしが命じた、わたしのことばと掟は、あなたがたの先祖に追い迫ったではないか。」
新共同訳「届かなかったろうか」 ⇒ 新改訳2017「追い迫ったではないか」
・何度もさまざまな預言者を通じて神が警告や諭しを行ったのに、ユダの民は聞き従わず、バビロン捕囚の憂き目にあった。
(参照:戦前の日本。内村鑑三や田中正造や矢内原忠雄らが幾度も批判や警告をしたにもかかわらず耳を傾けず、神を知ろうともせず、物質文明や軍国主義に走り、近隣諸国を侵略し、社会の不正義を放置し、敗戦の破局を迎えた。)
⇒ 1:6b 新改訳2017:「それで彼らは立ち返って言ったのだ。/『万軍の主は、私たちの生き方と行いに応じて、私たちにしようと考えたことを/そのとおりになさった』と。」
ユダヤの人々は、先祖の誤りを認め、自分たちの苦しみは自業自得と認めた。
参照:ルカ15:21「息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』」
- 神に帰ることの呼びかけ ⇒ 先祖のようにならないこと(不従順の誤りを繰り返さないこと)の勧め ⇒ 自業自得の認識。自分の罪を認める。
(参照:戦後の日本。一度一応はそのような認識に達し、平和国家を目指してきたはずだった。しかし、最近は過去の罪を隠蔽糊塗することを意図する人々が増加し、しかも勢力を振るっているように思われる。)
※ 神に帰ることと、律法を守ることや善い行いが、聖書においてはしばしばセットで語られる。
信仰によって救われるか、行いによって救われるかは、しばしばのちの時代の議論にもなってきた。(信仰義認と行為義認、ロマ書とヤコブ書)
ゼカリヤ書においては、何の条件もつけずに神に帰ることがまず告げられ、そのうえで「先祖のように歩まないこと」が勧められる。
これは、神の計画において、神に帰ることが必要条件で、正しく行い歩むことが十分条件ということではないかと思われる。
つまり、神に帰るだけで神の愛は回復し救われ神の子となるが(Ⅰヨハネ3:1)、神の望むとおり全き聖なるものとなるためには神の命じるとおりに歩むことが重要となる。善い行いや「先祖のようにならない」ことは救いの条件ではなくて、ただ神に帰ることだけによって神の愛は回復され救われるが、神に帰ったあとには神の意志に従って善い行いになるべく努め「(間違った)先祖のように歩まない」ことが神の意志に即した生き方であり、より完全なる神の子になるということではないかと思われる。
※ この世界においては、神が定めた原因と結果の法則が貫徹しており、善い行いには善い結果が伴い、悪い行いには悪い結果が基本的には蓋然的に伴う(箴言)。しかし、この法則を直視することは、苦難の中においては難しい。通常、自分は悪くないと考え、また先祖の行為は自分とは関係がないと考えがちである。
したがって、自分の境遇が自分や先祖(自分の社会の歴史)の行いの結果だという直視や認識を可能とするのは、すでに神に立ち帰って神の支えがあればこそと考えられる。すでに神の愛を知っているからこそ、恐れることなく、不安になることなく、過去の自分たちの罪業を直視し、やり直すことができるのではないかと考えられる。
自分の社会を構成する過去の歴史からの人間の行為の集積を自分のこととして引き受けることが、罪の自覚ということであり、罪からの自由はそこから始まると考えられる。そのような自由を可能とするのは、神の愛の先行である。
Ⅲ、第一の幻 ミルトスの林と馬(1:7~1:17)
◇ 1:7 シェバトの月:現在の一月中旬から二月中旬
- 1:8 赤い馬、赤毛・栗毛・白の馬:
参照:ヨハネ黙示録6章 白い馬=勝利者、赤い馬=戦争・審判、黒い馬=価値を定め正す、青ざめた馬=死
⇒ 栗毛の馬が黒い馬だとすれば価値を定め正しくすること、青い馬だとすれば死を意味する。栗毛なので、おそらくは黒い馬か?
⇒ これらの馬は地上を巡回させるために主が遣わしたもの(1:9)。巡回の結果、イスラエルの周辺の国々は平穏で安逸に過ごしていることが報告される(1:11)。
⇒ 主はそれらの不正の上に安逸を貪る諸国の民を怒り、苦しんできたイスラエルの民に愛をそそぎ、正義を回復することを述べる(1:16-17)。
※ ミルトス:キンバイカのこと。5-7月頃咲く。
- ミルトスが咲く谷間の中にあって、審判の権限を持つ(赤い馬に乗っている)「み使い」とは誰か?
⇒ 主とユダヤの民との間を仲介している(1:12)。さらには、主のことばをゼカリヤに伝えている(1:14-17)。また、主はこのみ使いに対し「恵みと慰めに満ちた言葉」で答えている(1:13)
⇒ イエス・キリストのことと考えられる。
- 仲保者・仲介者としてのキリスト。神に人をとりなしてくださるキリスト。
◇1:16 測り縄が張られる ― エルサレムが復興されること。また、神の民が正しい価値基準を得ること、および正しく測られ評価されること。
◇1:17 恵み・慰め・選び
神に帰ること・信仰によって、この三つが与えられる。
参照:ヨハネ1:16(恵みの上の恵み)、ロマ15:5(慰めの源である神)、ヨハネ15:16(神の側からの選び)
⇒ 神に帰るとただちに、神の恵み・慰め・選びが与えられる。日々に神と人との間を仲保者であるキリストがとりなしをしてくださる。
⇒ 一見、世界に不条理や不正義が放置され、神がどこにいるのかと考えられる時も、ある時に「馬」が巡回し、不正の上の安逸に対しては審判が開始されることとなる。
Ⅳ、おわりに
ゼカリヤ書一章から考えたこと
・ 神はまず、そのままで神に帰ることを求めておられる。
- そのうえで、過去の歴史の過ちを繰り返さないことを勧めている。
- 神に帰り、すでに神の愛の回復があればこそ、私たちは現在の境遇が過去の行いの結果だと直視し、そこから再び自由にやり直すことができる。
- 神に帰ると、ただちに神の恵み・慰め・選びが与えられる。
- キリストがとりなしをしてくださっていることのありがたさ。(主はキリストを通して、「優しい言葉、慰めの言葉」(1:13)を語られる。)
・日本における「先祖の悪い道と悪い行い」は何だったか。「わたしたちの歩んだ道と行った業に従って」神が私たちを扱ったと、きちんと認識しているのか。また、そのような先祖の歩みから、本当に今の日本は離れているのか。
・「無責任の体系」(丸山真男の指摘)⇒311福島原発事故で同様の状態
・戦争責任について、平和国家の理念の希薄化
・神の前に一人立ち責任を負う「個」としての自覚の希薄さ
・神を愛し隣人を愛する精神の希薄さ(冷淡な利己主義、無関心、人心の荒廃)
⇒ ただし、そのような私たちにも、ミルトスの林の谷間に立って、神との間で人をとりなしてくださっているキリストが存在する。
・「神に帰ること」自体は、極めて簡単なことであり、そのままの自分で、神に心を向けて、神に帰るだけで良い。(ペテロとイスカリオテのユダとの違い。)
特に儀礼や儀式や修行は不要である。特別な行いや特に難しい信仰の心を固めることも不要である。
神に帰るだけで、神が自分に帰る(恵み・慰め・選びが与えられる)。これらのことを、今回ゼカリヤ書一章で確認でき、ありがたいことだった。
「参考文献」
・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)
・ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/)
・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年
・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年
・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年
・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数