『ハガイ書(下) ―神の選びとしるし』
Ⅰ、はじめに
Ⅱ、勇気の呼びかけ
Ⅲ、罪の指摘と赦し
Ⅳ、神の選びとしるし
Ⅴ、おわりに
Ⅰ、はじめに
・前回のまとめ(第一章分):
ハガイ書第一章では、捕囚から帰還し二十年近く経った人々に対し、神が神殿の再建を命じたことが記される。かつ、そのメッセージの中で、人生の中心とは何かが神から問われている。つまり、神の家(神殿)こそが人の家よりも人生の中心であるべきことが告げられ、さらに、ひとたび神を信じれば、神が共にいるということが伝えられる。神によって人々の霊が奮い立たされ、捕囚の苦難を通じて素直になったイスラエルの民は、神の言葉に耳を傾け、神殿(神の家、新約的には信仰者そのもの)の再建に着手したことを見た。
※ 「ハガイ書の構成」
第一部 神殿再建の呼びかけ 第一章(1:1~1:15) ⇒ 前回
第二部 新しい神殿の栄光と祝福 第二章(2:1~2:23) ⇒ 今回
ハガイ書では、第一章において、神殿再建が呼びかけられ、人生の中心を何にするのかが問われ、神を中心に生きる人々には神が共にいることが告げられる。第二章では、神が人々に勇気を出すよう励まし、汚れ(罪)の問題が指摘され、さらに赦しが告げられる。ゼルバベルを神が選んだことが告げられる。
・第二部(第二章)の構成
1、勇気の呼びかけ (2:1~2:9)
2、罪の指摘と赦し(2:10~2:19)
3、神の選びとしるし(2:20~2:23)
第二部は、三つの部分に分かれる。まず、神殿再建に向けて勇気を持てとイスラエルの民に対して呼びかけられる。次に、人間にはどうしようもない罪があることが指摘され、かつその罪の赦しが伝えられる。最後に、ゼルバベルが、神の「印章」(しるし)として選ばれたことが告げられる。
Ⅱ、勇気の呼びかけ(2:1~2:9)
◇ 2:1-2 題辞
ダレイオス王の第二年:紀元前520年。
ゼルバベル:
第一次バビロン捕囚(BC596年)で捕虜となった南ユダ王国の王ヨヤキン(ヨシヤ王の孫)の孫。ダビデ王家の出身。捕囚帰還期のユダヤの総督。大祭司ヨシュアと共に、神殿再建に努めた。イエスの養父・ヨセフの先祖でもある。
ハガイを通じた神の言葉 ⇒ ゼルバベルとヨシュアと「残りの者」に述べられている。
◇ 2:3 「昔の栄光」をハガイは見たことがあった?
⇒ もしそうだとすると、ハガイはこの時かなりの高齢のはず。BC587年バビロン捕囚から67年が経過。その時に子どもだったとして、70~80歳前後と推定。
◇ 2:4 「勇気を出せ」
ヘブライ語「ハザク」:多くの英訳は”Be strong”と訳す。
関根訳・バルバロ訳:「しっかりせよ」
文語訳「自ら強くせよ」
c.f.:易経「天行健なり。君子はもって自ら彊(つよ)めて息(や)まず。」
ex.自彊術、山口彊(1916-2010):二重被爆者、93歳まで元気に生きた。
参照:「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。」(Ⅰコリ16:13)
「弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。」(イザヤ35:3)
「雄々しくあれ、心を強くせよ/主を待ち望む人はすべて。」(詩篇31:25)
⇒ 聖書は「弱さ」を誇り(Ⅱコリ12:5)、あるがままで神にお任せして、己の知恵よりも神の知恵を優先させることを説く一方で、上記のように信仰の上に立った「強さ」「勇気」を説くものである。
これは別に矛盾せず、己の弱さを自覚してあるがままに神に委ねた信仰者は、信仰のゆえに神が共にいてくださることを知り、己の欲ではなく神のみ旨に従って生きようとする時に、通常では考えられない勇気や強さが湧いてくるということだと思われる。
◇2:5 神の霊がともにいる。 参照:ゼファニヤ3:17等。
◇2:6 もう一度揺り動かす。 ⇒ 状況は不変ではなく、神の御心に沿って大きな変化が歴史を通じて必ず行われること。
◇2:7 「財宝」:原文では「望ましいもの」。ラビ・アキバはこの箇所をメシアの到来と解釈、ヴルガタ訳も「万民のあこがれるものが来られる」と訳している。もしメシア預言と受け取れば、キリストが来るという預言(初臨、再臨)。
◇2:8 すべての富は、神のもの。
◇2:9 新しい神殿は昔の神殿にまさる。 ⇒ 第二神殿にキリストが現れたことを考えれば、第一神殿にまさる。あるいは、第一神殿・第二神殿よりも、キリストという新しい神殿とその復活(ヨハネ2:19)がまさるということ。
「この場所に平和を与える」 神の約束。
Ⅲ、罪の指摘と赦し(2:10~2:19)
◇ 2:10~14 ハガイの問いと民の罪の指摘
問1:聖なる肉を中に入れた衣服でさまざまな食べ物に触れた場合、その食べ物は聖なるものとなるか? ⇒ ならない。
問2:死体に触れて汚れた人が、何かに触れた場合、触れたものは汚れるか?⇒ 汚れる。
(参照:聖別された肉を食べる儀式(レビ7:16-18)、死体に触れると汚れる(レビ21:11、民数記19:11-13)
- この箇所は何を言っているのか?
⇒ きよめの力より汚染力が強いこと。
帰還したユダヤ人の神殿再建を、サマリア人は手助けしようと申し出たが、ゼルバベルたちは拒絶した。
混血が進んだサマリア人を、ユダヤ人たちは不純なものとみなし、そのような人々によって神殿は汚れてしまうと考えた?
⇒ その場合、2:14の「この民」は、サマリア人を指すと考えられる。
⓶ より内面的なことを言っていると考える解釈。
※ 何か聖なるものを持っていたり儀式で手に入れたとしても、周囲を浄化し聖(きよ)める力はない。また、「死体」(=死、罪)に触れていれば、触れるものすべてを汚してしまう。
⇒ 罪にまみれている人間にとっては、行うことがすべて罪となってしまい、的外れなものとなってしまうことの指摘。(罪=ハマルティア(的はずれ))
参照:ロマ書3章、7章等、罪の支配・罪の法則。
⇒ つまり、人間が何をしようとも罪にまみれており、儀式や儀式から生じる聖なるもの(聖別された肉、聖餐など)によっては、死と罪にまみれた人間は救われないということをここで述べているとも考えられる。
⇒ その場合、14節の「この民」はイスラエルの民でもあり、全人類をも指すということになる。
◇ 2:15~19
汚れ・罪のために、人の行いが十分に実を結ばないこと。
参照:「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが」(ロマ3:23)
⇒ 2:19 この日から「祝福を与える」 新改訳2017「祝福する」
一方的な神の赦しと祝福が宣言される。 ⇒ キリストの福音
キリストを信じれば、それだけで神に義とされる。
※ ハガイ書には明示的には述べられないが、その罪への深い認識と、一方的な神の祝福はキリストの福音を指し示しているとも考えられる。ただし、この罪の贖いが明確に啓示されるには、新約を待たねばならなかった。
Ⅳ、神の選びとしるし(2:20~2:23)
- 2:21-22 神が状況を揺り動かす。苦しい状況はいつまでも変わらないわけではなく、神の力によって急速に変わることがある。
・「馬を駆るもの」「戦車」=軍隊・戦力。
⇒ 軍隊・戦力を神が覆し、それらは滅びていくことが述べられる。
参照:マタイ26:52「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」
- 2:23
印章=「ホタム」、英訳signet, seal。
王が文書につける印章、封印、その印のついた指輪。
迎え入れる=フランシスコ会訳「わたしはお前を取り」
※ ゼルバベルが、神に迎え入れられ(あるいは「取られ」)、「印章」となり、神から選ばれるということが述べられる。
・ゼルバベルはメシアと期待された?
関根訳の見出し:「ゼルバベル―メシヤ」
ハガイとゼカリヤはゼルバベルに対してメシア的な期待を持った?
※ ゼルバベルはその後、全く旧約聖書に姿を現さなくなり、どうなったのかわからない。
一説にはペルシアに謀殺されたという説もある。つまり、ダビデ王家の血筋で、メシアとも期待され、ユダヤ民族の団結の中心点となったため、ペルシアに意図的に排除されたとも考えられる。
※ 参照:山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』(岩波現代文庫)2003年、195頁。
一説には、イザヤ書53章の「苦難の僕」はゼルバベルのことを指しているとも言われる。
おそらくは、ゼルバベルは、メシアとも期待されたものの、なんらかの理由で、唐突に姿を消してしまったものと思われる。また、その末路を語ることさえ、当時は憚られるものだったと推測される。
(ちなみに、マタイ1:12-13およびルカ3:27では、ゼルバベルはイエスの養父ヨセフの先祖の一人に挙げられている。)
※ では、この箇所は、ゼルバベルに対してのみ言われていることと解釈すべきなのか? だとすれば、はずれた預言、あるいは歴史的な一エピソードに過ぎなくなる。しかし、・・・。
- 印章・刻印・しるしについては、聖書には以下のような箇所がある。
印章:「また、純金の花模様の額当てを作り、その上に印章に彫るように「主の聖なる者」と彫りなさい。」(出エジプト記28:36)
証印:「神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えてくださいました。」(Ⅱコリ1:22)
「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」(エフェソ1:13)
焼き印:「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」(ガラテヤ6:17)
刻印:「こう言った。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」
わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。」(黙示録7:3-4)
しるし:「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。」(ルカ2:34)
同箇所文語訳「シメオン彼らを祝して母マリヤに言ふ『視よ、この幼兒は、イスラエルの多くの人の或は倒れ、或は起たん爲に、また言ひ逆(さから)ひを受くる徴のために置かる。」
ヨナのしるし:マタイ12:39、ルカ11:29-32
⇒ 人々はしるしを欲しがるが、ヨナのしるし以外は与えられない。ヨナのしるしとは、受難し三日ののちによみがえること、つまり復活というしるし、あるいは人々に悔い改めを促し人々が悔い改めることそのものを指す。
⇒ イエス自身が、神から与えられた、神が人類を愛していることの「しるし」であった。イエスはまた、神への愛と隣人への愛に生きたがゆえに、多くの人々から反抗される・逆らいを受ける「しるし」でもあった。
⇒ このようなイエスを信じ、受け入れたものは、聖霊によって刻印され、証印され、救われるものである。
また、イエスの生き方や存在が「焼き印」された者ともなり、いかなる苦難においてもイエスの御心にかなった生き方を歩まざるを得なくなるものでもある。
⇒ これはゼルバベルに限らず、歴史上多く存在した人々にもあてはまる。
⇒ ex. フランツ・イェーガーシュテッター(Franz Jägerstätter、1907-1943)
オーストリアの人で、普通の農民だった。ナチスによるオーストリア併合の是非を問う国民投票において、村で唯一反対の投票を行い、村八分となる。その後もヒトラーを「反キリスト」だと批判し、徴兵命令が来ると良心に反するとして徴兵拒否を宣言し、ナチスにより逮捕、死刑判決を受けてギロチンによって処刑された。
- また、私たちの人生においても、神の御手の働きや導き、神の愛を教えてくれた人々は、私たちの人生における神の「しるし」だったと思われる。
内村鑑三「贖罪の弁証」:「われら各自もまたわれらに付与せられし力量相応に世の贖い主となることができるのである。」 ⇒ 究極の意味の贖い主・救い主と「しるし」はイエスだが、イエスを信じその歩みにならった人々は、それぞれの力量に応じて、しるしとなり、また贖いをもなすことができる。
⇒ キリストの香りとなる生き方。Ⅱコリ2:14-16
- キリストを信じ、聖霊に証印され、キリストの香りを持つ生き方になったのは、キリストに選ばれたからである。
- 2:23「わたしがあなたを選んだからだ」:神の選びの先行
参照:「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1:4)
キリストを信じる信仰を与えられた人は、それぞれに神から選ばれた人であり、神の「印章」であると、聖書全体を通してみた場合、言える。
Ⅳ、おわりに
ハガイ書2章から考えたこと
・ 勇気を持ち、しっかりと生き、自らを強くすることの大切さ。これらは、みずからの無力と罪を自覚し信仰を持つことの大切さと両立することである。神が共にいます時、人は強くなる。
・ 人間の罪の重さと、またその罪を一方的に赦し祝福するキリストの福音についてあらためて考えさせられる。
・ 信仰を与えられた者は、すべて大なり小なりゼルバベルのように神から選ばれた者であり、神の印章であって、聖霊によって証印されたものである。ゆえに、イエスの歩みにならって、できうる限り地の塩・世の光として、キリストの香りとして、神のみ旨に従って歩む努力を日々になすべきではないか。
⇒ そう考えると、ハガイ書二章のゼルバベルへの言及は、「外れた預言」などではなく、深い意味を持った言葉なのだと思われる。
「参考文献」
・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)
・ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/)
・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年
・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数