『ハガイ書(上) ―人生の中心とは』
Ⅰ、はじめに
Ⅱ、神殿再建の呼びかけ(人生の中心とは何か?)
Ⅲ、神が共にいることの告げ知らせ
Ⅳ、おわりに
Ⅰ、はじめに
・ハガイ書:
十二小預言書のひとつ。全二章。バビロン捕囚から帰還した後の時代に、神殿の再建に尽くしたユダヤの預言者・ハガイによる預言をまとめたもの。
内容は、捕囚から帰還した後の人々に対し、神殿の再建を命じ、その努力を支え励ますものである。さらに、その中で、人生の中心とは何かを問いかけ、神が共にいることを示し、本当の意味における復興とは何かを問いかける内容となっている。
・ハガイとは誰か?:
ハガイ書の中には、「預言者」として記されているのみで、父親の名前を含めて詳しいことは不明。父親の名前が記されていないので、おそらく庶民出身。エズラ記5:1には、預言者ゼカリヤとともに、ハガイが神殿再建を指導したことが記されている。
ハガイ書の内容から、ハガイは捕囚前の神殿を見たことがあると推測でき(2:3)、だとすればこの時にはすでに老人だったと考えられる。若きゼカリヤとともに、捕囚帰還後の神殿再建期のイスラエルの精神的指導者となったが、それまでの長い年月につぶさに捕囚の苦難を耐え忍んできた人物と考えられる。
・ハガイの時代背景:
ハガイ書本文中(1:1等)に、ペルシア帝国の皇帝ダレイオスの治世第二年、つまり紀元前520年に行われた預言であると明記されている。
バビロン捕囚(BC587~538)の後、バビロニアを滅ぼしたペルシア初代皇帝キュロスによる捕囚からの解放からすでに十七年が経っていた。
未だにバビロンによる占領時に破壊された神殿は再建できず、人々の生活が少し落ち着きを取り戻したものの、まだ貧しい時期だったと考えられる。当時の中東はほぼ全域をペルシア帝国が支配し、イスラエルはその一部となっていた。
※ 「ハガイ書の構成」
第一部 神殿再建の呼びかけ 第一章(1:1~1:15) ⇒ 今回
第二部 新しい神殿の栄光と祝福 第二章(2:1~2:23) ⇒ 次回
ハガイ書では、第一章において、神殿再建が呼びかけられ、人生の中心を何にするのかが問われ、神を中心に生きる人々には神が共にいることが告げられる。第二章では、人々に勇気を出すよう励まし、本当の意味における神殿再建とは何かが問われ、ユダヤ総督ゼルバベルを神が選んだことが告げられる。
・第一部(第一章)の構成
1、神殿再建の呼びかけ(人生の中心とは何か?) 第一章(1:1~1:11)
2、神が共にいることの告げ知らせ(1:12~1:15)
第一部は、二つの部分に分かれる。前半は、神殿再建が呼びかけられ、人生の中心を何とするのかが問われる。後半では、神の言葉に耳を傾け、神を中心として生きることを選んだ人々に対し、神が共にいることが告げ知らされ、霊が奮い立たせられることが述べられる。全体として、神を中心として生きることの大切さと、そうすれば神が共にいるということが告げられている。
Ⅱ、神殿再建の呼びかけ(人生の中心とは何か?) (1:1~1:11)
◇ 1:1 題辞
ハガイ:「祭り」の意味。父の名前が記されていないので、おそらくは庶民の出身。「預言者」と明記されているので、「預言者」として当時の人々に尊重されたことがうかがわれる。神と共に生きることは宴の日々であり祭りの日々であるということを考えれば、神と共に生きることと「神の家」(神殿)を重視したハガイの思想は、名前とも深く関わると考えられる。
ダレイオス:ペルシア帝国第三代皇帝ダレイオス一世のこと。治世はBC522からBC486年。初代皇帝キュロスとともに名君とされる。ペルシア帝国の版図を広げ、統治を安定させ、多様な民族や宗教に対して寛容な政策で臨んだ。しかし、ギリシャ諸都市を征服しようとし、マラトンの戦いでアテナイの軍隊に敗戦を喫し、屈辱の余り憤死したとヘロドトスの歴史は伝える。
ゼルバベル:第一次バビロン捕囚(BC596年)で捕虜となった南ユダ王国の王ヨヤキン(ヨシヤ王の孫)の孫。ダビデ王家の出身。
ハガイ書にはシャルティエルの子と記されているが、歴代誌上3:17にはペダヤの子と記されている(シャルティエルもペダヤもどちらもヨヤキンの息子。おそらくはペダヤの子で長子のシャルティエルの養子となって王家の直系を継いだと推測される)。
捕囚帰還期にユダヤの総督としてユダヤの民の政治的指導者となり、大祭司ヨシュアと共に、ハガイとゼカリヤに従い、神殿再建に努めた。ハガイ書・ゼカリヤ書ともに、ゼルバベルを高く評価している。
しかし、聖書の中には、唐突にゼルバベルについての記述が消えてしまい、その後の消息については不明である。一説には、なんらかの政治的陰謀に巻き込まれて非業の死を遂げたと考えられ、イザヤ書五十三章において第二イザヤが描く「苦難の僕」は、ゼルバベルのことを指していたと推測する説もある。
ヨシュア:エズラ記・ネヘミヤ記には「イエシュア」と記される。レビ人の家系で、大祭司。総督のゼルバベルと協力し、捕囚からの帰還の時期に指導者として活躍し、帰還の翌年(BC536)には、みずから神殿の工事の指揮をとり(エズラ3:8-9)、神殿の基礎を据えた。しかし、その後、十七年間工事は進まず、神殿は再建されなかったが、ハガイの預言を機に、再びゼルバベルと協力して神殿再建に努めた。
◇ 1:2 口語訳「万軍の主はこう言われる、この民は、主の家を再び建てる時は、まだこないと言っている」。」
※ 今がその時 「まだその時は来ていない」 人がよく使う言いわけ。
⇒ ※ ルカ14:16-24 大宴会のたとえ
⇒ 魂の再建をするのは今、魂のことをすることは今。集会に参加するのは今。
※ 神殿:ヘブライ語では「ヘーカル」(王宮)、あるいは「バイス」(家)(ハガイ書では「バイス」)。
第一神殿 ソロモン王が建設(起工BC958)。バビロンにより破壊(BC587)。
第二神殿 ハガイ・ゼカリヤ・ゼルバベル・ヨシュアらが再建 礎石を置いたのはBC536、着工はBC520、竣工はBC515。
ヘロデの神殿 第二神殿を大幅に拡張。BC20頃着工、AD64に完成。AD70にローマ軍により破壊。
※ 神殿とは何か?:新約聖書においては、建物ではなく信仰者。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(1コリ3:16)
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(1コリ6:19)
「わたしたちは生ける神の神殿なのです。」(Ⅱコリ 6:16)
「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」(エフェソ2:21)
⇒ ただし、旧約のハガイにおいては、まず建物としての神殿(神の家)の再建が呼びかけられている
◇ 1:3~11 人生において何を中心として生きるのか?
1:4 バルバロ訳「居心地の良い家」
⇒ 神殿(神の家)を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板貼りの家・居心地の良い家に住む。 ⇒ 霊的なことよりも、物質的生活を優先する。
⇒ 戦後の日本も、霊的な事柄を廃墟にさせたまま、物質的生活のみを追求してはこなかったか?
※ BC537年にキュロスから解放され帰還したユダヤの民は、翌年には大祭司ヨシュアのもと、神殿の礎石を据えた(エズラ記3:8-13)。しかし、サマリア人が神殿再建の手助けを申し出たのを断ると、サマリア人は神殿再建を妨害するようになり、再建工事は中断せざるを得なくなった(エズラ記4:1~24)。帰還後の生活的・経済的苦境も工事がはかどらなかった理由として大きかったと考えられる。十七年経ち、人々が神殿再建について、帰還直後の感激(詩編126、エズラ3:12)を忘れかけていた時に、ハガイを通して神は語りかけた。
1:5 「自分の歩む道に心を留めよ。」 ⇒ 1:7でも繰り返される。
フランシスコ会訳「お前たちがどう過ごしてきたかをよく心に留めよ。」
関根訳「君たちは今の状態についてよく考えて見るがよい。」
岩波訳「あなたがたは自分たちの歩みに心を留めよ。」
バルバロ訳「自分のやったことを思い直せ。」
新改訳2017「あなたがたの歩みをよく考えよ。」
文語訳「汝ら、おのれの行為(おこない)を省察(かんがう)べし。」
⇒ 自分がどのように生きているか、どのように生きて来たか。
⇒ つまり、何を中心に生きているか、何を大切にし、何とともに生きようとしているのか。神はハガイを通して問いかけた。
1:6 収穫が少なく、飲食に満足できない。金袋には穴があいている。
① 実際に、物資が不足し、働いても楽にならない。
② ある程度は、収穫や物資があっても、心が満足できない。
⇒ おそらくは、両方とも。神の祝福がないと、物質的に十分な安定や繁栄が得られず、苦難によって神が人の心を神に向き直させようとされることがあると旧約は記す(ホセア二章、アモス四章など)。また、神との関係が満たされないと、魂が満たされることはないということは聖書に通底するメッセージ。
1:7 1:5の繰り返し。再度、自らの人生の歩みを問い直すことが呼びかけられている。
1:8 新改訳2017「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。/そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。/―主は言われる―」
⇒ 信仰者、あるいはその集いであるエクレシアを通して、神は栄光を現す。
1:9 岩波訳「それは、わたしの家が廃墟のままなのに、/あなたがたは各々自分の家のために走り回っているからだ。」
⇒ 「神殿」」は原文では家。「神の家」と「人の家」とが対比され、後者が優先されたために、物質的に満たされることがないことが指摘される。
1:10 本来、神を愛し、神の言葉に従うならば、天から雨が降り、地から収穫があることが約束されていた(申命記 11:13-15)
1:11 バルバロ訳「私は、地にも、山にも、小麦にも、ぶどう酒にも、油にも、地の産物にも、人間にも、家畜にも、すべての手の業にも日照りを下した。」
⇒ 神から遠ざかると、心も、人生の出来事においても、「日照り」となる。
Ⅲ、神が共にいることの告げ知らせ(1:12~1:15)
◇ 1:12 神の言葉に耳を傾ける
※ ゼルバベル、ヨシュア、「民の残りの者」(=捕囚から帰還した民)は皆、ハガイを通して伝えられた神の言葉に「耳を傾けた」。
⇒ 列王記・歴代誌では、あれほど神の言葉に耳を傾けず、十二小預言書でも、多くの場合、耳が傾けられなかった神の言葉に、「残りの者」は耳を傾けた。
⇒ それは、バビロン捕囚という苦難をかいくぐってきたから。
⇒ 頑なな心も、さまざまな苦難を経て、神の言葉に素直に耳を傾けるようになる。
◇ 1:13 「神が共にいる」というメッセージ
※ 1:13a 新改訳2017「主の使者ハガイは主の使命を受けて、民にこう言った。」
※ 1:1や1:12の「預言者」から「主の使者」とハガイの呼び方が変わっている。 ⇒ 耳を傾ける者にとっては、神の言葉を伝えるものは「御使い」「天使」と等しい。 ⇒ 私たちの人生にとっても、その人の背後に神の御手を感じとり、その人の言葉の背後に神を感じる時は、「主の使者」と受けとめられる(ex. 内村鑑三、矢内原忠雄など。)
1:13b 新改訳2017「わたしはあなたがたとともにいる ―主のことば。」
※ 神が共にいるということは、聖書を通底して一貫した呼びかけであり、メッセージである。
・エノクやノアは神と共に歩んだ。(創世記3:24、同6:9)
アブラハム:「恐れるな、アブラムよ。/わたしはあなたの盾である。/あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」(創世記15:1)
イサク:「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす/わが僕アブラハムのゆえに。」(創世記 26:24)
ヤコブ:「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(創世記28:15)
ヨセフ:「監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」(創世記39:23)
モーセ:「神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」」(出エジプト 3:12
「あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。」(申命記2:7)
「強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」(申命記31:6)
ヨシュア:「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」(ヨシュア 1:5)
ギデオン:「主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」」(士師記 6:12)
ダビデ:「主は彼と共におられ、彼はどの戦いにおいても勝利を収めた。」(サムエル記上 18:14)
ヒゼキヤ:「主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した。彼はアッシリアの王に刃向かい、彼に服従しなかった。」(列王記下 18:7)
「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」(詩編23:4)
「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ41:10)
「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ43:2)
「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」(イザヤ43:5)
「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」(エレミヤ1:8)
「わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エゼキエル37:27)
「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい。」(ダニエル10:19)
「「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(マタイ1:23)
「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)
◇ 1:14 主が霊を元気づける。
バルバロ訳「主は(略)みなの心を奮い起こされた。」
関根訳「ヤハウェは(略)霊を呼び起こした。」
⇒ 主が霊を奮い立たせる、元気づける。そうすれば、どのように困難な出来事も可能となる。
⇒ 逆に言えば、主が共にいないと、主の力が加えられないと、人間が自分の力だけで何かをしようとしても、うまくいかない場合がある(神殿再建が帰還から十七年も中断したこと)。神に頼り、神を仰ぐ時に、人は大きな力を発揮できる。神と共にいることが霊に大いなる力を与える。
⇒ 日々に聖書を読み、神の言葉に霊を奮い立たせることの必要性。
◇ 1:15 「それは六月二十四日のことであった。」
⇒ 神と共に歩み、霊に大きな力を得て、何かを始めた日は、いつでも記念すべき日となる。永遠に残る一日となる。
Ⅳ、おわりに
ハガイ書から考えたこと
・ 自分は人生の何を中心にして生きているか。
・ 神から離れていた時は、「日照り」の時だったと、人生の経験上・実験上、思う。霊的にも物質的にも。
・ しかし、ひとたび神の方向に心の向きを変えて、神の言葉に耳を傾ければ
即座に「神は共にいます」ことが実感できる人生が始まる。
・ 神が共に歩んでくださる人生は、霊が決して沈みこんだままになることがなく、霊が奮い立ち、心が元気になる。必ず希望がある。力ある歩みとなる。
・ 「神殿」は、新約聖書を踏まえれば、建築物ではなく、信仰を持つ人間である。また、その集いであるエクレシア(集会、教会)である。この神殿・神の家をきちんと築き、清め、立派につくりあげていくことを人生の中心とすることが、神の御心であること。神の栄光はそこにおいて現れること。
・ 戦後の日本は、ごくわずかな例外を除けば、「人の家」のみを大切にし
「神の家」をおろそかにしがちだったのではないか。
・ そのような中で、福岡聖書研究会や無教会、愛真高校や独立学園は、「神の家」を大切にしてきた数少ない貴重な例外と思われる。
・ バビロン捕囚は決して無駄ではなく、多大な苦難を経たからこそ、ユダヤの残りの民は、神の言葉に素直に耳を傾けるようになったのだと思う。
ただし、そうして築かれた第二神殿が、かえって人が神の宮であることを見失わせ、キリストを磔刑にするファリサイ人たちの拠点になってしまったことに、人間の罪の深さを感じざるを得ない。「神殿」の本当の意味に開眼する必要があるのだと思う。
※ ハガイ書 第一章十三節b 神ともにいます
アニー・イッテヘム・ネウーム・アドナーイ
アニー=私 / イッテヘム=共に、~のために /ネウーム=言った
「わたしはあなたがたと共にいる。」
―(これは)ヤハウェの御告げ―
「参考文献」
・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)
・ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/)
・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年
・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年
・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年
・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数