フィリップ・ヤンシーさんとの質疑応答のメモ

先日、アメリカのキリスト教についての著名な文筆家のフィリップ・ヤンシーさんの講演会に行き、質問させてもらった。 

講演の内容が、とても素晴らしいものだったので、それに触発されてのことだった。 
極めて私の個人的なことだったが、率直に質問させてもらった。 


私の妹が15年前に亡くなりました。 

幸い私の場合、その後、多くの良い人との出会いや、自然や、素晴らしい物事などに出会い、多くの慰めを受けて来たと思います。 
また、時が経つにつれ、当初の悲しみは、薄れてきたと思います。 

その時、思うのは、悲しみが薄れるということは、愛が薄れることと同じではないか、また、自分は自分の人生を楽しんだり喜んだりすることは、はたして良いのだろうか、ということです。 

いつも思うことではなく、時折、ふとした時に、今も思うことです。 
このことについて、お考えを聞かせていただければ幸いです。 


と。 

それに対する、ヤンシーさんの答えは、以下のようなものだった。 


悲しみというのは、特に誰か家族や愛する人を喪った悲しみというのは、愛情と痛みの両方が襲ってくるものです。 

つまり、愛と痛みの両方が、悲しみにはありますし、その両方を感じるのが、悲しみということです。 

私たちは、当初のあまりの痛みをずっと持ったままでは、生きていけませんし、何か神からの、あるいはさまざまなことを通じて、心に慰めを得て、徐々に痛みが薄まっていくのは、大変素晴らしいことだと思います。 
また、時とともに、痛みが薄らいていくのも、自然なことだと思います。 

ただし、痛みが薄らいだり、訪れる間隔がそう頻繁でなくなっていったからといって、愛情が薄まったわけではありません。 
悲しみには、愛と痛みがありますが、痛みが当初ほどではなくなったとして、愛がなくなったわけではないのです。 
痛みが薄まったから、悲しみは薄まったとしても、愛が薄まったわけではない、これがまず大事なことです。 

また、もう一つの大事なことは、痛みは薄らいだり、間隔が頻繁でなくなったとしても、心からなくなるわけではありませんし、なくならなくても良いということです。 

ふとした瞬間に、どれほど時が経っても、愛する人を失った悲しみが心に噴きだすことは、ありえますし、あっても良いのです。 

聖書は、決して、悲しむなとか、痛みを感じるなとは言っていません。 
悲しんでも、痛みを感じても、そのことを聖書は決して否定していません。 

私は震災の直後、日本を訪れましたが、日本人は、ともすれば、悲しみをあまり表に出さず、誰もが苦しんでいる、あるいは自分以外にもっと苦しんでいる人がいる、と考えて、心の奥の悲しみを抑圧する傾向があると思います。 

しかし、聖書は、悲しみや痛みを感じることを、決して否定していない、悲しみや痛みは、人間が感じる自然な感情だとしていることも、大切なことだと思います。 

私は、かつて交通事故で、首の骨が折れて、大変なケガをしたことがありました。 
その時、病院の先生は、針で私の手や足を突き刺して、痛みを感じるかどうか調べました。 
何も感じなかったら、それは非常に症状としては問題なわけで、痛い、痛い、と叫べば、その箇所は正常というわけでした。 
その時、私は、痛みを感じるというのは、健康である証拠で、人間にとって健康な、自然なことだと、覚りました。 

そして、もう一つ、大事なことは、人生に喜びを感じることは、もちろん良いことですし、あなたの妹が望んでいることです。 
なぜ、私たちが愛する人を喪ったとしても、人生に喜びを感じて良いか、また喜びを感じて生きるべきかというと、信仰を持っている者にとっては、この人生や愛する人の喪失はずっと続くものではなく、一時的なものだということです。 
時が来れば、復活し、再会の時があります。 
なので、それまで、しばしの別れの間、この一時的な人生を、こちらの方でもしっかり生き生きと楽しく生きて、再び会った時に良い報告ができるようにしておくべきです。 

妹さんのことをシェアしてくださり、ありがとうございました。 



という答えだった。 

大変ありがたい、質問への答えだった。 

なんというか、相手の質問から、ああいう人ってのは、質問の表面の文意だけでなく、心の奥底にあるものを瞬時に見抜いて、答えるのだろうなぁ。