雑感・高慢について

 

 聖書には、しばしば人間の「高慢」あるいは「傲慢」について戒めてある。古代ギリシャにおいても、神々の前に一番の罪とされたのは「高慢」(傲慢、ヒュブリス)だったそうである。

 そういえば、以前、箱崎にあるモスクでイスラム神学者の人と話した時も、何度も”arrogant”(アロガント、高慢・傲慢)という言葉を使って、それこそが最も人間にとって罪だということを述べていた。

 では、「高慢」あるいは「傲慢」とはどういうことなのだろうか。

 この前、矢内原忠雄全集を読んでいたら、そのことについてなるほどと思うことが書いてあった。

 矢内原によれば、「高慢」とは、「信仰に基づかない自信」のことだそうである。一方、 「信仰に基づく自信」は、「愛の実行力」をもたらすもので、大切なものだそうである。(矢内原忠雄「自信について」、全集14巻371頁)

 つまり、自分の力だけでなんとでもなると考えて、神に対する信仰に基づかない自信を持つと、人はどんどん神から離れていく。

 一方、神がこの宇宙を経綸している以上、自分も何かしら神の善い目的と計画の中で意味のある存在として創造されたわけであり、したがって自分の命には何かしらの意味があり、神を讃え神の栄光を現すために生きる、自分には意義がある、という自信があることは、より一層信仰を深め、また信仰にもとづく良い実践をもたらすものなのだろう。

 信仰に基づかない自信も、また信仰に基づく自信を持ち合わせない単なる卑屈も、どちらも滅びにつながるものなのかもしれない。

 とすれば、信仰にもとづく自信をしっかり持つことが、人生を意義深く生きるためにも最も枢要なことかもしれない。しかし、そのような、信仰にもとづく自信をしっかり持っている人の、なんと世に少ないことか。