『ハバクク書(上) ― 義人は信仰によって生きる 』
Ⅰ、はじめに
Ⅱ、ハバククの疑問① なぜ神は悪を放置するのか?
Ⅲ、神の答え① バビロンを興す
Ⅳ、ハバククの疑問② 神はなぜ悪しき者を用いるのか?
Ⅴ、神の答え② 約束と信仰
Ⅵ、おわりに
Ⅰ、はじめに
・ハバクク書:十二小預言書のひとつ。全三章。紀元前600年頃、南ユダ王国の末期に活動した預言者・ハバククによる預言をまとめたもの。内容は、神義論(なぜこの世の悪を神が放置するのかという疑問)とそれに対する答えである前半と、後半のハバククの信仰の喜びを歌った詩から成る。
・ハバククとは誰か?:ハバクク書以外の旧約聖書中の情報がなく、詳しいことは不明。父の名も出身地も不明。ただし、十二小預言者中、名前の前に「預言者」と冠して呼ばれている数少ない人物(他にハガイとゼカリヤのみ)なので、職業的預言者ないし神殿に仕える預言者だったと推測される。(なお、旧約聖書続編の「ダニエル書補遺 ベルと竜」には、ダニエルを助ける人物として預言者ハバククが登場するが、これはかなり後世の伝説と考えられる。)
・ハバククの時代背景:ユダの王ヨシヤ、ヨアハズ、ヨヤキム、ヨヤキン、ゼデキヤの時代(BC640頃-587以前)
ハバククの生きた時代は、預言内容から考えて、中東でアッシリアが急速に衰退し滅亡し、新バビロニア王国(聖書本文中の「バビロン」)が急速に台頭し、その猛威に南ユダ王国がさらされた頃である。エルサレム陥落とバビロン捕囚を実際に見届けたかどうかは本文中からは明らかではない。預言者のナホムおよびエレミヤとほぼ同時代と考えられる。
※ 「ハバクク書の構成」
第一部 ハバククの疑問と神の答え 第一章~第二章(1:1~2:20) ⇒ 今回
第二部 ハバククの詩 第三章(3:1~3:19) ⇒ 次回
ハバクク書は、第一、第二章の前半部分と、第三章の後半部分とでかなり内容が異なる。前半部分は、神がなぜ悪を放置するのかというハバククの問いとそれに対する神の答えが、後半部分ではハバククの詩が記される。
・第一部(第一~二章)の構成
Ⅰ、ハバククの疑問① なぜ神は悪を放置するのか? (1:1~1:4)
Ⅱ、神の答え① バビロンを興す (1:5~1:11)
Ⅲ、ハバククの疑問② 神はなぜ悪しき者を用いるのか? (1:12~1:17)
Ⅳ、神の答え② 約束と信仰 (2:1~2:20)
ハバクク書の前半部分である第一部は、ハバククの二つの問いと、それぞれに対する神の答えが記される。おそらく、一つ目の問いと、二つ目の問いの間には、かなりの時間の流れがあると想定される。
Ⅱ、ハバククの疑問① なぜ神は悪を放置するのか? (1:1~1:4)
◇ 1:1 題辞
ハバクク:アッカド語のバジルの木を意味する植物名「ハムバクーク」という説があるがよくわからない。「(神に)抱かれるもの」という意味との説もある。
幻:啓示。ハーゾーン(hazon)、神からの啓示、語りかけ。Vision。
◇ 1:2~4 ハバククの疑問① 「なぜ神は悪を放置するのか?」
新共同訳「不法」=「暴虐」(岩波訳)
新共同訳「災い」=「不義」(岩波訳)
ここで言われている「悪」とは何か:
① 南ユダ王国内部の悪:ヨヤキム、ヨヤキンなどの王、その大臣たちの悪、不信仰など。
② アッシリアのこと。
Ⅲ、神の答え① バビロンを興す (1:5~1:11)
カルデア人:新バビロニア王国(バビロン)をつくった人々のこと。五つの部族から構成されていた。主神はマルドゥク。カルデア人は、かつてはアッシリアの支配下にあったが、紀元前625年に独立し新バビロニア王国を建国。メディアと同盟を結びアッシリアを滅ぼし、紀元前605年のカルケミシュの戦いでエジプトを撃破し、中東一円を支配した。紀元前587年にはエルサレムを陥落させバビロン捕囚を行う。しかし、のちにペルシア帝国に倒され、紀元前539年に新バビロニア王国は滅亡。
神は、バビロンを興す。 ⇒ アッシリアの滅亡、南ユダ王国の罪の審判。
バビロン(カルデア人)の圧倒的な軍事力、猛威。(c.f.モンゴル、ナチスetc.)
◇ 1:11 バビロンは「自分の力を神とした」=罪に定められる。
Ⅳ、ハバククの疑問② 神はなぜ悪しき者を用いるのか? (1:12~1:17)
◇ 1:12前半 フランシスコ会訳:「主よ、あなたは永遠の昔からわたしの神、/わたしの聖なる方、不死なる方ではありませんか。」
(新共同訳「我々は死ぬことはありません」⇒ 神が「不死なる方」?)
◇ 1:17 新共同訳「剣を抜いても」 フランシスコ会訳脚注「網を使う」
岩波訳「その網を空にして」
⇒ 網を使って人々を捕まえ、網を使って殺し、その網に対してバビロンが香を焚いて供物を捧げている。
⇒ 「網」は、武器のたとえか? あるいは人を生かすのがキリストの網で、人の魂を悪しきものによってとらえて殺してしまうのがバビロンの網?
※ バビロンが、アッシリアや南ユダの悪を罰するための神の道具として用いられているとしても、なぜ清いはずの神が、神に逆らうものであるバビロンを用いるのか?なぜ神はバビロンの悪を放置するのか?
⇒ 我々も直面する問題。
仮に戦時中の日本の罪があったとして、原爆が用いられて良いのか?
ナチスに罪があったとして、ソビエトによるドイツの甚大な被害は何なのか?ナチスが去った後の東欧は、なぜソビエトに抑圧されねばならなかったのか?
イラクのサダム・フセイン⇒ アメリカ・ブッシュ政権による戦争⇒ IS
⇒ もっと言えば、なぜこの世に「悪」は存在するのか?なぜ神は悪を放置するのか? ⇒ 神議論(theodicy)
Ⅳ、神の答え② 約束と信仰 (2:1~2:20)
◇ 2:1 答えを待ち望み意識して神のことばに耳を澄ます。職業預言者としてのハバククの態度、あるいは神との対話に関して万人に望まれる「沈黙」(2:20)。
⇒ 神の答えが与えられる。啓示。
◇ 2:2~4 フランシスコ会訳:「啓示を書き記せ。/それを読む者が容易に読めるように、/板の上にはっきりと書きつけよ。/この啓示は定められた時までのもの、/終わりの時について告げるもので、偽りはない。/もし、遅れるとしても、それを待ちなさい。/それは必ず来る。/それは遅れることはない。/見よ、心がまっすぐでない者は崩れ去る、/しかし、正しい人はその誠実さによって生きる。」
2:4 岩波訳:「見よ、増長している者を。/その魂はまっすぐではない。/義しい者は、その信仰によって生きる。」
2:4 関根訳:「見よ、不遜な者はその魂その中に留まらぬ。/しかし義人はその信実によって生きる。」
※ のちに、パウロが信仰義認説の根拠として引用。
「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ロマ1:17)
「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。」(ガラテヤ3:11)
※ ハバクク書の文脈で言えば、「定められた時」「終わりの時」(=「主の日」・「再臨」)が来るという神の約束を信じることによって義しい者は生きること。
2:4 「高慢」 =信仰に基づかない自信のこと ⇔ 信仰に基づく自信=愛の実行力 (矢内原忠雄「自信について」、全集14巻371頁)
信仰:キリストを信じること=①内在(聖霊)・②超越(父=宇宙経綸の神)
① キリストを信じることによって、人は永遠の生命を生きてゆくことができる。十字架の贖いを信じるだけで、罪の赦しと復活の希望が与えられる。
② キリストの再臨の時(終わりの日・主の日)に、宇宙や自然が完成される。新しい天と新しい地が与えられる。万物が救われる。
⇒ ①の信仰から導かれる生き方:死後、神の審判において義とされ、永遠の生命によみがえることを人生の目的とし、この目的にふさわしい生き方をする。肉体とともに朽ちるのではない生命=永遠の生命が自分に与えられていると信じ、その観点から生きること。
(⇔ この世だけ、物質や富や食べ物だけを目的とする生き方。)
⇒ ②の信仰から導かれる生き方:神は宇宙と歴史を経綸する神(計画をもって主宰する神)だと信じ、自分もまた神の宇宙経綸の一部・計画の一部だと理解して生きる。神は人とともに生きる歴史的存在であり、歴史の指導者であり、歴史を通して働くことを知る。ゆえに、神の意志を重んじ、神の栄光を現すことを心がける。自分を中心とするのではなく、神およびエクレシアや他の人のために生き、神の御心・御計画が実現するように願って生きる。
※ 「その信実」(エメット)は、人間の側の信仰なのか、それとも神の側の「誠実さ」なのか?
⇒ 神の「信実」(誠実さ)を知り、それに触れて、疑いがない状態が自分の側の「信仰」。
キリストの真実の生き方や御心に触れた時に、①の信仰も②の信仰も得られる。(旧新約聖書を通じて)。
①と②の信仰がなければ、人は死ねば終わりという刹那主義や虚無主義に陥ったり、この人生や歴史に意味を見いだせなくなってしまう。①と②の信仰を得た時に、人は再びよみがえって、元気に活力にあふれ喜びをもって生きることができる。 (ハバクク2:3の「それ」=キリスト?)
⇒ キリストの真実・キリストの十字架の贖いによる「新生」。
※ 2:5~2:20 神の審判
◇ 2:5 新共同訳「富は人を欺く」(クムラン写本) 岩波訳「葡萄酒は人を欺き」(マソラ本文) ⇒ この世の物質主義、あるいは間違った酔わせる考えにあざむかれること。
◇ 2:6後半 岩波訳「禍(わざわ)いだ、〔いつまでなのか、〕自分のものでないものを増やし続け、/担保で自分を重くする者よ」。
⇒ 自分のものでないものを不当にむさぼる者は、目に見えない負債・担保を自分で増やしていること。いつか審判が下る。
◇ 2:9 「高いところに巣をかまえる」 オバデヤ3節 参照 傲慢
◇ 2:10 新共同訳「自分をも傷つけた」 岩波訳「あなたの魂は罪を犯した。」(同脚注、死海写本「あなたはあなたのいのちの糸を切断した」
⇒他に対する暴虐は、自分自身の魂やいのちの糸を破壊し、必ず審判を受ける。
◇ 2:11 石が叫び、梁が答える。 下積みになっている人々・庶民から怨嗟の声が出れば、必ず国という建物全体がきしみ、壊れて再建を余儀なくされる。
◇ 2:14 審判 ⇒ 神の栄光の知識
◇ 2:15~16 他人に加えた侮辱、他者の尊厳を無視して辱めた場合、必ず自分自身も辱められることになる。 恥辱の因果応報。 (c.f. ヘイトスピーチ)
◇ 2:17 レバノンにある森林の法外な伐採?(イザヤ14:8) 自然破壊により動物が姿を消したこと。そうした自然破壊の罪もしかるべき時に審判を受けること。
◇ 2:18~19 偶像崇拝のむなしさ。神でないものを神としても、そこに「命の息」は何もないこと。(現代における金銭や国家を崇拝する倒錯のむなしさ)
◇ 2:20 「御前に沈黙」 ⇒ 神の静かな声に耳を傾けること。
「まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。」
(イザヤ30:15)
「地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」
(列王記上19:12)
Ⅴ、おわりに
ハバクク書から考えたこと
・悪が何の裁きも受けずにいると、はたしてこの世に道理はあるのか、神はいるのかと疑いを持つ時が人にはあると思われる。(参照:詩編73編)
しかし、神は必ず義の審判を下し、終わりの時までに良い方向に歴史を導き、この宇宙や自然や人間の世界を完成させると、聖書では啓示されている。
この信仰を持った時に、人は疑いから無気力になるのではない、気力のある人生を生きていくことができるのではないか。
※ 矢内原忠雄「信仰と努力」、全集14巻379-384頁
・フィリピ1:6とフィリピ3:12-14
終わりの日には完成する、終わりの日までには間に合う、ということと、そうであればこそ、前に向かって励んでいくこと。
矛盾ではなく、希望や見通しがあるからこそ、安心して励み努力できる。
・神に対する率直な問い(ハバクク、ヨブ、ダビデ、ナオミetc.)。「沈黙」し、神の静かな声に耳を傾け、神と対話することこそが大切。神に対する信仰があるからこそ問いや対話(祈り)が成立し、応答の中で信仰は深められる。
※ ハバクク書 第二章四節 (義人は信仰によって生きる)
הִנֵּ֣ה עֻפְּלָ֔ה לֹא־יָשְׁרָ֥ה נַפְשֹׁ֖ו בֹּ֑ו וְצַדִּ֖יק בֶּאֱמוּנָתֹ֥ו יִחְיֶֽה׃
ヒネー・ウッペラー・ロー・ヤーシャラー・ナッショー・ボウ・
ヴェツァディーク・ベエムナトー・イェーヒイェー
「見よ、不遜な者はその魂その中に留まらぬ。
しかし義人はその信実によって生きる。」
「参考文献」
・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)
・ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/)
・デイヴィッド・W・ベーカー著、山口勝政訳『ティンデル聖書注解 ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書』いのちのことば社、2007年
・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年
・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年
・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年
・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数