本田哲郎神父の御話 メモ書き

本田哲郎神父の御話を聞く機会に恵まれた。
 
私はカトリックではないけれど、本田神父は私がこの世で最も尊敬する方で、二年ぶりにお会いして、その優しさにあらためてとても強い感銘を受けた。
 
本田神父は、聖書の新共同訳の訳者の一人だった方で、個人で新約聖書の翻訳もされた方であるのと同時に、長年ずっと釜ヶ崎でホームレスの支援に携わっておられて、以前Eテレのこころの時代でも特集があったので知っておられる方も多いと思う。
 
御話はいろんな事柄に渡ったけれど、印象深かったのは以下のことだった。
私の聴き間違いもあるかもしれないので、不正確なところはあるかもしれないが、自分用のメモ書きとして以下に若干記したい。
 
すべての人はすでに神のふところに迎え入れられて抱き取られおり、宗教や宗派は関係ない。
浄土真宗イスラム共産主義の人でも、神のいのちを本当に生きて、キリストの感性を生きている人もいる。
大切なのは宗教の形態ではなく、どれだけ真実に触れているかどうかである。
 
最も貧しく苦しい思いをしている人々の願いにこそ、真実があり、その人々の声に教えてもらい、その人々の下に立って教えを請おうとするところに、真実や解放に至る道がある。
 
御国(神の国・天国)は往くものではなく、来るものだと聖書に書いてある。
だというのに、死んでから往くものだと教会は教えがちだけれど、そうではない。
今、すでに来ているもので、神の「人を大切にする」心や解放や正義を、今ここで来らせていくことがイエスの願いだった。
 
イエスが説いた「新しい掟」は、「人を大切にする」ことである。
「人を大切にする」ことだけで良い。
古い掟にプラスして新しい掟があるのではなく、新しい掟ができていれば、すべて古い掟は本当の意味では満たされていく。
 
愛と訳すと、無理が生じ、不必要な苦しみが心に生じるが、アガペーやアガパーテというのは、「大切にする」という意味であり、愛するではない。
嫌いな人を無理に愛する必要はない。
しかし、嫌いな人であっても、人間として大切にする。
それはできるはずである。
 
福音とは、キリストが来てくださったということで、もうすでにすべての人は神のふところに抱かれて、神の子であり、神のいのちを生きているということである。
 
福音については、種をまくのではなく、刈り入れだと聖書には述べられている。
すでに誰もが神の子であり神のいのちを生きているのだから、別にクリスチャンにならなくても良いし、福音を教えてやろうなどとしなくて良い。
そうではなくて、自分自身が身をもって、解放や正義や人を大切にする心や、その人がその人自身としてのびのびと生きていくことができる、そういう福音を体現していくことが、本当の意味で福音を宣べ伝えていくということである。 等々。
 
他にもいろいろためになる御話を聞けたので、忘れずに覚えていきたいと思う。