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浄土真宗とキリスト教の違いについて

浄土真宗キリスト教の違いについて、Dさんの浄土真宗論に刺激されて、若干考えてみた。

 

しばしば、浄土真宗キリスト教はよく似ていると言われる。

何が似ているかというと、本人の行為や功績によって救われるのではなく、絶対者(浄土真宗では阿弥陀如来キリスト教ではキリスト)の側の働きへの信仰(信受)によって救われるということである。

 

たしかにその点はよく似ている。

その他のあらゆる宗教が、呪術的なものにしろ、律法的なものにしろ、あるいはなんらかの座禅などの行によるものにしろ、行為者の側の行為による救済を説くのに対し、浄土真宗キリスト教は行為者の側の行為は問題とせず、ただ信仰のみによる救いを説く点では他の宗教と異なるものである(なお正確に言うと、浄土真宗では「信心」と言っても「信仰」とは言わない。自力の信心と他力の信心の区別に基づく重要な論点であるが、ここでは割愛する。)

 

だが、しかし、上記の共通点を認めた上で、キリスト教浄土真宗には相違点が以下の三点がある。

 

1、キリスト教天地創造の神を認めるが、浄土真宗には天地創造の神は存在しない。

 

2、キリスト教の場合、イエス・キリストという具体的な歴史的人物による十字架の贖いという行為に救いの根拠が置かれているが、浄土真宗における法蔵菩薩阿弥陀如来は具体的な歴史的人格ではなく、超時間的な理念的存在であり、また救いの根拠は贖いではなく回向による。

 

3、キリスト教には黙示録における世の終末と新天新地の希望が記されているが、浄土真宗には特に終末論やその後の世界についての展望はない。つまり、キリスト教における「神の国」は終末において現実化するものであるのに対し、浄土真宗の浄土はあくまで他界であり終末が存在しないので終末において現実化するということはない。

 

この三つが異なっていると思われる。

 

もちろん、これらのどちらが正しいかというのは、これは客観的には論証使用がないことである。

というのは、天地創造も世の終末も、ごく限られた時間を生きる人間には、体験のしようも観察のしようもないからである。

また、歴史的人物であるイエスと、理念的存在である阿弥陀如来と、どちらが救いとなるかどうかも、これはそれぞれの信仰を持つ人にとって答えが変わってくることであろう。

人によっては、歴史的存在だからこそイエスを具体的に感じるというかもしれないし、人によっては具体的な歴史的存在ではないからこそ阿弥陀如来に自分の時代や場所から接することができやすいと感じるかもしれない。

 

なので、大事なことは救いを本人が得ることであろうし、相違点よりも共通点を見いだすこと、そして相違点を相違点のままとして尊重することであれば、ことさらに優劣を論じることは愚かなことであり、自勝勝他のあさましき振る舞いとなると言えるかもしれない。

 

しかし、あえて上記のことに留意した上で、一種の思考実験として、上記の三つの相違点において、私が思うところを書くならば、以下のとおりである。

 

まず、1の点について。

仮に、創造があったとすれば、この世のすべての人間や動植物の存在は、根底において神の愛や承認のもとにあり、すべてに意味があるということになる。

人間の浅知恵ではわからないとしても、人間の思いはからいを越えた、神の愛や配慮がすべての存在には刻印されていることになる。

ここに、人間や動植物の尊厳の究極的な根拠が見出し得るのではないだろうか。

仮に創造がないとすると、すべての存在は偶然的なものとなり、どこに尊厳の根拠があるのかはわからなくなる。

もっとも、将来的に仏になりうる存在として、尊厳があるということは、浄土真宗の論理からも言えるが、それは将来の可能性としての尊厳ということになり、今現在はたして尊厳があると言えるのかどうかは疑問である。

 

次に、2の点について。

これは、信仰者の側の問題なので、歴史的と理念的とどちらが良いかは、一概には言えないかもしれないが、イエスの場合は福音書に資料がほぼ限られているとしても、それなりにその言行について知りうるということはあるかと思う。

一方、法蔵菩薩は、少しその修行について書かれているとしても、極めて抽象的で、あまり具体的にその生涯や言葉を知ることはできない。

また、信仰者を救うための働きにおいて、キリストにおいては十字架の贖いという、具体的な贖いの行為が存在しているのに対し、法蔵菩薩(=阿弥陀如来)においては讃仏偈において代受苦を思わせる内容も若干存在してはいるものの、さほど贖いということは強く前面に出ることはなく、あくまで回向という行為によってである。

ゆえに、法蔵菩薩の生涯や受難を追体験することは極めて難しく、また回向を購いに比べて切実に感じ取ることはかえって茫漠としていて難しいのではないかと私には思われる(もっともこれは人によっては違うかもしれない)。

 

最後に、三つ目の点だが、浄土真宗の場合は浄土はあくまで他界であり現実とはどこまでも平行線の超越した世界であるのに対して、キリスト教の場合は歴史の軸の最後の時点で「神の国」が現実化し、また今生においても部分的に「神の国」が現実化しているという点は極めて大きな相違点と思う。

もっとも、キリスト教においても、「神の国」のほとんどは基本的には他界であり超越的な性格を持っており、しかもその到来はまったく神の側の働きによるもので、人の行為が神の国の到来をもたらすことはできない。

なので、安易な現世と他界の混同や、救済が現世で行われるとする説(典型的なのは天台本覚思想や娑婆即浄土・煩悩即菩提といった言説)とは二つとも全く異なるということは注意する必要がある。

なので、共通点の方が実は多いのかもしれないけれど、ずっと断絶している浄土真宗と異なり、理想的な世界と現実の世界が歴史の終末において交わるというキリスト教の終末観は、やはり異なると思われる。

 

私自身のことを言えば、創造を思う時、神の愛に触れることができる気がするし、キリストの受難と贖いをもってはじめて罪人の私も救われたと思うし、終末のキリストの再臨を思えばこそ、この歴史が無意味な反復ではなく何がしかの完成に向かい神の経綸に貫かれた意味のあるものだと思うことができる。

 

もっとも、これは人によって、全く違う反論も成り立つかもしれない。

 

ただ、私としては、上記の三つの相違点に関して、上記のように今のところ思っている。

 

が、仮に浄土真宗の側に立つとすれば、以下の三つの議論も成り立つことだろう。

 

1の点について。

今日の科学からすれば、天地創造など到底信じることはできない。

また、自然界は残酷なものであり、どうしてこんな残酷な自然界や残酷な生物を神が創造したのか理解できない。

あるがままにこの世界を観察するために、特に創造の神を想定する必要はない。

 

2の点について。

どうして歴史上の一人物であるイエスが十字架上で処刑されたからといって、それが後の時代の人間を救うと言えるのか。

また、法蔵菩薩の修行についてはたしかに抽象的としても、具体的な菩薩の行為やことばや生涯については、ジャータカや一切経に現れる釈迦牟尼仏の言行を見れば良い。

回向を共感によって受けとめる原理は合理的であり、受けとめる心があれば回向は受けとめることができるものである。

 

3の点について。

浄土は他界だとしても、浄土によって救われた人の働きはおのずとこの世にも現れるものであり、染香人・妙好人と呼ばれる念仏者がこの世を良くする働き自体を浄土真宗は否定するものではなく、むしろ浄土真宗の歴史はそのような多くの事例を持っている。

終末を想定する必要はなく、むしろ自分の人生の死をこそ見つめるべきであり、身のたけを越えた創造や終末を論じるより、この人生の始まりと終わりをこそよく見つめるべきである。

 

以上のような議論も、浄土真宗の側から成り立つと思う。

 

結局のところ、ここから先は、個々人の自分の人生における実感や実験に基づくしかないのかもしれない。

 

ただ、ひとつ言えることは、私は浄土真宗の人にも、キリスト教の人にも、どちらも多くの素晴らしい人を見て来た。

そこには、何がしかの真理の働きがあったと思われる。

 

そのうえで、言えることは、浄土真宗の場合、比較的、日本の風土や伝統に即しやすいとは言えるのかもしれない。

逆に言えば、キリスト教の場合、おのずと世界史的な広がりや視野を持ちやすいのかもしれない。

しかし、たぶん本当は、どちらも大事なことなのかもしれない。

 

ここから先は、私個人のことに過ぎないが、親鸞聖人や法然上人は実に偉大な人物であり人格だったと思うが、あくまで人だったのに対し、イエスは神の子だったとしか思えないというところが違いだろうか。

だが、もし親鸞法然がイエスに出会うことができたら、即座に東方の三博士のように頭を垂れたと思うし、イエスは百人隊長に対して言ったように「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」と述べたような気がする。

思うに、キリストを知らずしてキリストのおぼろな光を感じ取ったのが浄土真宗であり、阿弥陀如来と言われるものの実体がキリストだったのではないかと私には思えてならない。