「ナオミの詩について(ルツ記から)」

「ナオミの詩について(ルツ記から)」


「ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ/全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」(ルツ記 第一章 二十、二十一節)


ナオミ(ダビデの曾祖母の姑)のこの詩について、私は長い間さして気にも留めてこなかった。しかし、今は大事なことを教えてくれる詩と思っている。

そのきっかけは、ユダヤ教のラビのマゴネットさんの御話だった。今年の六月、「どうしてナオミはこの詩のように率直に神に対して不平不満を訴えることができたのですか?」と質問する機会があった。

すると、「ユダヤ人における自分と神との関係は、いわば家族の中の事柄。子が親に対し文句を言ったりケンカをしたりするようなもので、相手の愛情を信頼しきっているからこそ、思いきった文句も言える。」との答えだった。

そして、こんな小話を紹介してくれた。ある時、ベビーカーに赤ちゃんを乗せて浜辺を散歩している女性がいた。すると、大きな波が来て、ベビーカーごと赤ちゃんを海にさらっていってしまった。女性は嘆き悲しみ、天を仰いで助けを祈った。すると、もう一度波がやって来て、なんと赤ちゃんが浜辺にそっと打ち寄せられ、無事だった。女性は赤ちゃんを抱きかかえると、「ところでベビーカーは?」と天に向かって言った。

それぐらいとことん遠慮なく、神に不平不満を述べ、お願いすることができる。これがユダヤ人と神との関係だ。との答えを聞いて、私は目からウロコが落ちる気がした。

日本人には、人生において、文句を言わず、じっと耐えていくのが良いという考え方があると思う。いかに人生で悲しいことがあろうと、不条理があろうと、文句を言わず、むしろ自分の非を反省し生きていった方が良いという考え方が。

私は、家族の病気や死があった時にも、どうもそのような思いこみが強かった。そして、納得のいかない形容しがたい思いを抱えて生きてきた。

しかし、今は、わかった。ナオミのように、率直に神に文句を言ってみたかったし、言って良かったのだと。そして、神はそのことに怒ったりすることなく、必ず受けとめて、愛をもって報いてくださるのだと。そして、そのような神は、ただ聖書の神だけなのだと。

ナオミは飢饉を逃れて渡っていったモアブの地で、夫と二人の息子を病気で亡くした。その嘆きはいかばかりだったろう。そして、その悲しみや怒りを、神との関わりの中で受けとめ、率直に詩で表現した。

しかし、神は、ナオミの詩に、決して怒らなかった。むしろ、慰めと祝福をそそいだ。周知のとおり、このあと、ナオミの家族ははかりしれない神の恵みを受け、ダビデを生み、主イエスの養父ヨセフを生みだす家系となった。

ナオミは、うつろになって戻ってきたベツレヘムの地で、のちに満たされた。マラ(苦い)と思っていた人生は、ナオミ(快い)となりうることを証した。主は、ナオミやルツを決して見捨てず、ボアズと出会わせた。

ボアズとルツの子である祖父・オベドを通じ、ダビデはナオミのことをよく聞いて育ったことだろう。オベドは、ルツが産んだが、実質的にはナオミが育てたことがルツ記に記されている。ナオミの詩と物語をよく聞いて育ったダビデは、率直にどのようなことも神に吐露し、祈る人生を歩むことができるように育った。だからこそ、神にかくも愛された。ダビデの人生と詩篇の源には、冒頭の素朴なナオミの詩があるのだと思う。

聖書の中にルツ記があるのは、ダビデの意向によると思われる。そうでなければ、誰がこの物語を伝えたろう。そして、ナオミの亡くなった夫・エリメレクや息子のマフロンとキルヨンも、ルツ記を通じて、人々の記憶に永遠に生き続けることとなった。

ナオミは、冒頭に引用した詩では嘆いていたが、のちにルツ記の中でこう言っている。「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主」(ルツ記 第二章 二十節)。しばしば、苦しみを通し、深い淵に立って、人ははじめて神に問いかけ、呼びかける。神の思いは時に人にはわからないが、そこで向き合った神は、必ず愛をもって応えてくださる。そして、苦しみの中で信仰を得た時、自分のみでなく、先立った家族も、自分とともに、神の惜しみない慈しみの中に入っていく。

思えば、主イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ)」(マルコによる福音書 第十五章 三十四節)と率直に神に述べられた。そして、復活の栄光を得た。信仰の恵みにより、私たちは、イエスやナオミのように、神とどんな時も率直に関わって生き、神と共に歩むことができる。神の民であることに感謝。