読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『「ヨエル書」を読む ―神に立ち帰る』資料 

『「ヨエル書」を読む ―神に立ち帰る』資料 

 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、第一部 「いなごの襲来」 

Ⅲ、第二部 「神への立ち帰り」 

Ⅳ、第三部 「回復と救済」

Ⅴ、第四部 「主の日の審判」 

Ⅵ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに

 

ヨエル書:十二小預言書のひとつ。成立年代は不明。いなごの襲来、悔い改め、神の霊がそそぐこと、主の日等について述べてある。全四章。のちに使徒行伝の中でペテロがヨエル書を引用し、聖霊がすべての人に下るというヨエルの預言がペンテコステにおいて成就したことを述べている。

  

・ヨエルとは誰か?:ヨエル書以外の聖書記述中情報がなく、詳しいことは不明。父親の名前はペトエル。ペトエルもヨエルも何者か不明。父の名が伝わっていることから、父の名が伝わらないミカと異なり、貧しい庶民ではなく、おそらくは一定の身分や教養のある階層の出身と考えられる。ペトエルという名前は「神を広めよ」という意味なので、祭司や神殿に関連した人物だった可能性が考えられ、ヨエル自身もそう考えられる。

 

ヨエルの時代背景:ヨエルが生きた時代は不明である。ホセア・アモス・ミカなどは、彼らが生きた時代の王の名が記されているために時代が確定できるが、ヨエル書本文には全く王の名が出てこない。本文中にも、名前のみならず、なぜか王に関する記述が全く存在しない。そのため、以下の時代の可能性が指摘されている。

 

① ユダの王ヨアシュの時代(BC835‐796

② バビロン捕囚が終わった後の時代(BC400‐180頃)

③ バビロン捕囚直後 (BC六世紀後半~五世紀半ば)

 

①説の根拠は、アハズヤ王の死後、母のアタルヤが権力を握り、ヨアシュが祭祀ヨヤダにかくまわれて神殿に隠れ住んでいた時代(列王記下11章)だとすれば、王についての記述がなくても不自然ではないからである。その場合、アモスやホセアやヨナが生きたヤラベアム二世(BC786‐746)の時代よりも古い年代となり、ヨエルは十二小預言者中最古の預言者、最古の記述預言者ということになる。

②説の根拠は、本文中にギリシャ人についての記述があるので、ヘレニズム期以降と推定されるため。しかし、イオニア人(ギリシャ人)の奴隷貿易の歴史についてはアレクサンドロスの数世紀前にさかのぼる文書が見つかっている。(アラン・ハバード、26頁)

③説は、「主の日」の黙示的な内容や、ユダとエルサレムの苦境、エレサレム城壁についての言及(を再建後のものと受けとめるならば)、他の預言者であるイザヤ・エゼキエル・ゼパニヤ・オバデヤからの引用とみられる語句があること、ヨエルがエドムの荒廃を将来のものとしているのに対し、マラキはエドムの荒廃を過去のこととしているので、マラキよりも以前の時代と推定できることが根拠である。ティンデル注解、フランシスコ訳解説は③説をとっている。

・しかし、十二小預言書はもともとは一巻の巻物におさめられ、一まとまりの内容として意識されていたという説がある。この説に立てば、ホセア書の次、アモス書の前にヨエル書が配列され、十二小預言書中二番目に記載されてきたことは、ヨエルがかなり早い時代の預言者と意識されていたものだと推測される。十二小預言書の中でも前半六つはアッシリアの時代、後半六つがそれ以後のバビロン捕囚や捕囚後の時代のものという配列を考えれば、アッシリアの時代のものと受けとめられてきたと考えられる。

 

ヨエル書に登場する「いなご」を軍隊の比喩と考えれば、差し迫るアッシリアの軍勢を預言したものとも考えられる。

①説のヨアシュ王の時代、あるいはやや下って紀元前八世紀頃の時代の人物と考えると、「主の日」について、「終りの日」・「終末の日」を意味するものとして「主の日」について言及した最初の預言者ということになる。

 

 

 ヨエル書の特徴と読み解くためのポイント 

 

 

① 簡潔で短い内容。

 十二小預言書の中でも、比較的短い分量。ホセア・アモス・ゼカリヤらに比べるとかなり短い。しかし、内容的には整然とした構成を持ち、「災いから希望へ」・「神への立ち帰り」という十二小預言書に通底するテーマが最も明瞭に現れている。

 

② 「いなご」とは何か?

ヨエル書冒頭では未曾有のいなごの襲来が述べられる。「いなご」をどう受けとめるかで、後世の我々にとっても重大な示唆に富むものとなる。

 

③ 「立ち帰る」(シューヴ)=悔い改めにおける内面的契機の強調

「神に立ち帰ること=悔い改め」は、聖書を通底したテーマ(申命記30:2-3)。

ヘブライ語ではシューヴ(שׁוּב)。ギリシャ語には二つの用語がある(『聖書思想事典』参照)。

epistrephō(ἐπιστρέφω) エピストレフォー : 生活・品行の改善

metanoia(μετάνοια) メタノイア : 内面の悔い改め

ヘブライ語のシューヴはどちらも含むが、アモスやミカにおいては個人の生活態度の改善や社会全体の変革が強調されている。ホセアは、神との愛という内面的契機を重視しつつも、偶像崇拝の除去という点で実際の生活態度の悔い改めも強く迫る。

それに対し、ヨエルは、エピストレフォーではなくメタノイアを強調したと言える。シューヴの思想の歴史の中で、エピストレフォーと区別されたメタノイアの契機を抽出し、強調した最初の預言者?

 

④ 神の霊が万人にそそがれるという預言

儀式や神殿や聖職者を必要とせず、直接各人が神の霊と結びつくという点で、プロテスタントや無教会主義の先駆。

 

⑤ 「主の日」の二重の意味

ヨエルは「主の日」という言葉を以下の二重の意味で用いている。

①近い将来に起こる、あるいは現に起こっている、主が歴史に介入する日。

②終末の審判の日。

前者については二章で、後者については四章で主に言及している。①の意味での使用はアモスにも存在するが、②の意味はダニエルや新約聖書の黙示録を先取りするものと言える。また、二重の意味で使用している点で独特の歴史のとらえ方がある。

 

※ 「ヨエル書の構成」

 

第一部 いなごの襲来 1章1節~2章11

第二部 神への立ち帰り 2章12節~17

第三部 回復と救済 2章18節~3章5

第四部 主の日の審判 4章1節~21

 

・ヨエル書は、四部構成で、起承転結、正確に言えば「起転承結」の緊密な構成となっており、文章もすぐれた修辞や表現に富む。

         

 

Ⅱ、第一部 「いなごの襲来」 (11節~211節) 

 

※ 1:1 「題辞

ヨエル:主は神、ヤハウェが神、という意味の名前。ペトエルについては前述。

 

※ 1:2-3 「体験者による記憶の継承」

未曾有の体験を、子々孫々に伝えることを命じている。 ⇒記憶の継承の大切さ。

(ただし、ヨエル書の「いなご」襲来について、聖書の歴史記述は存在しない。)

 

※ 1:4-20 「いなごの襲来と被害」

 

◆ いなご:英訳locust 正確には、バッタ。サバクトビバッタトノサマバッタ

〈孤独相〉から〈群生相〉に突然変異する。群生相になると、1㎢あたり五千万の個体が群生する場合がある。別名・飛蝗、それによる被害を蝗害といい、古代より中東や中国で猛威を振るい、20世紀に入ってからもアメリカ・中国・フィリピン等で甚大な被害を与えた。

(c.f. パール・バック『大地』⇒同作品でもいなごは悔い改めのきっかけ。)

日本では、享保の大飢饉が、いなごとウンカのために起こったと言われている。(1732年夏に起こった享保の飢饉では、福岡藩の人口の五分の一、約七万人が餓死したと言われる。一説には人口の三分の一が餓死。中洲川端や桜坂、万行寺や徳正寺や顕乗寺などに、享保の飢饉の時に亡くなった人々を供養するための飢え人地蔵と呼ばれる地蔵菩薩像が現存。幕府は福岡藩のために救援米を十三万六千石送ったが、福岡藩は優先的に家中の武士に分け与え、飢えた庶民には五万三千石しか分け与えず、残りの八万三千石の米を人口比率で言えば圧倒的に少ない武士たちだけで独占し、武士は一人も餓死しなかったという。)

 

・聖書においては、いなごは、出エジプト記10章においてエジプトに対する「十災」のひとつとして登場する。また、レビ記11:22では食用可能な昆虫として言及される。

 

・申命記28章15節:「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう。」同38節、呪いの実現の一つ:「畑に多くの種を携え出ても、いなごに食い尽くされて、わずかの収穫しか得られない。」

⇒ 古代イスラエルにおいては、いなごの襲来は神の怒りや呪いの実現と考えられていた。

  

・1:4  いなごの四つ種類 (ハバード、48頁)正確には、各種の単語は、はたして「いなご」を意味するのか、あるいは「いなご」だとしてどの成長段階なのか、不明。

ガーザーム:「かみつく」

アルベ:「増やす」

イェレク:「跳び虫・ばった」「なめるもの」

ハーシール:「破壊者」「とどめをさすもの」

(1:4 バルバロ訳「ガザムが残したものは、いなごが食った。/いなごが食い残したものは、エレクが食った。/エレクが食い残したものは、ハジルが食った。」)

 

⇒ いなご、あるいはその他の何かによって、災厄や悪がかみつき、増え、なめつくし、破壊する様子を現している。

・1:5 関根訳「覚めて泣けよ、酒に酔う者」今まで現実を直視していなかった人々が、災難や危機に際してやっと目を覚ますこと。また、現実を直視して目を覚ますことの勧め。

・1:6 「一つの民」:

いなごは本当にいなごなのか、あるいは民族や軍隊の比喩なのか?

(参照:士師記6:5と7:12では、アマレク人など敵対する民族の数の多さを「いなご」のようだと比喩で表現している。)

 

※ 三つの学説

① 1章のいなごと2章のいなごは、共に実際のいなごを意味する。

② 1章のいなごは実際のいなご、2章のいなごは軍隊を意味する。

③ 1章、2章ともに、「いなご」は比喩である。

 

※ ③の比喩説の場合(あるいは②の半分)、いなごは何を意味するか?

1、アッシリア。(ナホム3:15~18では、いなごをアッシリアの比喩に使用。)

2、四つのいなごは、それぞれ、アッシリアバビロニアセレウコス朝シリア、ローマ

3、病気(なんらかの感染症、ペスト、結核など)

4、人の心をむしばみ傷つけ害する言葉や教えや情報(軍国主義、唯物主義、弱肉強食主義、カルト宗教、性的・暴力的な表現の氾濫など)

5、黙示録9章に出てくる、アポリオンから派遣される人間のみを攻撃する「いなご」。(「蝗は無神唯物の文化の霊であり、その毒は偶像崇拝である。」(矢内原忠雄全集9巻467頁)

6、飢え。(物質的・精神的)。

7、飢えや病気や貧困による死。

8、ヨハネ黙示録第六章の白・赤・黒・青の馬(=キリスト・戦争・飢饉・疫病)。

 ⇒ 実際のいなご説と合せて、比喩説をそれぞれの立場で参考にすることは可能。

 

・1:7 「ぶどうの木」・「いちじくの木」

中東における最も重要な果物。比喩としてとらえる場合、ぶどうの木はイスラエル(ホセア10:1、詩編80)。新約においては、ぶどうの木はキリスト(ヨハネ15章)。いちじくは、しばしば律法やバプテスマのヨハネ、あるいはファリサイ人のたとえ。⇒「いなご」の襲来により、新約と旧約の御言葉が危機に瀕する?(アモス書7章、第一の幻と第二の幻)

 

・1:9 「献げ物の穀物とぶどう酒」=「素祭と灌祭」が絶たれたことの意味

素祭:ミンハー。農耕的な供え物。レビ記二章。

灌祭:ぶどう酒を神に捧げた。

ともに、日常的に神の恵みに感謝し、神との関係を持つために行われていた祭儀。のちのキリスト教のミサにおけるパンとぶどう酒に類似。

つまり、「いなご」の襲来の結果、神との通常の交わりを維持することができなくなったことの衝撃と歎きを述べている。10節はその理由としての大地の荒廃が述べられている。

115 「主の日」  (主が歴史に介入する日、時)

ヨエルは、今現在やって来ている「いなご」の襲来という危機において、主が歴史に介入している時間を見ている。その上で、四章における終末の日としての「主の日」を展望している。つまり、終末としての「主の日」を、今現在起こっている「主の日」を通して感じとり、注意を促している。二重の「主の日」の構造となっている。

⇒ 今やって来ている災厄を「主の日」とし、終末の日の「主の日」の部分的な実現と感じとること。

 

・1:18 「なんという呻き家畜はすることか」

動物も戦争や飢饉の際は人間と共に、人間以上に苦しむ。(上野動物園のゾウ、マイケル・モーパーゴ『戦火の馬』、高橋よしひろ銀牙の犬たち』等)

環境汚染においても、動物が真っ先に甚大な被害に苦しんだ。(水俣病の魚、猫等)

 

・1:19、20 「火」・「炎」 ⇒ 2:1~3

諸説あり:旱魃、いなごを燃やすための火、戦火etc.。

 

 

※ 2:-11 「いなごの襲来としての主の日」

 

(一章においては、今現在やって来ている「いなご」の被害について。二章ではこれから近い将来にやってくる「いなご」の被害が描かれている。)

 

・2:3  「いなご」の来襲: エデンの園 ⇒ 荒れ野 (徹底した破壊のイメージ)

 

・2:4―5 「軍馬のように」「戦車のような」:仮にこの「いなご」が軍隊の比喩だとすると、なぜこのような比喩を使っているのか説明がつかないという指摘もある。

 

・2:9 「盗人のように窓から入りこむ」:気付かぬうちに静かに忍び寄る、という意味?病気や放射能、あるいは死そのもの?

 

・2:11 「主の声」:主の意志の実現としての「主の日」

 

・第一部を通して 

・ 非常にリアルな描写。恐怖をかきたてる「いなご」による襲撃の様子の描写。

・ 未曾有の「いなご」の襲来による被害と、その出来事や体験を記憶に留めるべきだという主張、および近い将来にもっと大きなそれらが起こりうることの警告がなされている。

 

 

Ⅲ、第二部 「神への立ち帰り」 (212節~17節) 

 

 

※ 関根訳 21213a 「立ち帰りのことば」(※ヘブライ語原文は末尾に記載)

「しかし今でも遅くない、とヤハウェは言われる、

心をこめてわたしに帰れ、

断食して嘆き悲しめ。

衣でなく心を裂き

君たちの神ヤハウェに帰れよ。」

 

・口語訳:「主は言われる、/「今からでも、あなたがたは心をつくし、/断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。/あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。/あなたがたの神、主に帰れ。」

・文語訳:「されど、エホバ言いたもう、今にても汝ら、断食と哭泣(なげき)と悲哀(かなしみ)とをなし、心をつくして我に帰れ。汝ら衣を裂かずして心を裂き、汝らの神エホバに帰るべし。」

 

・「立ち帰る」(シューヴ)のは、「今」。(人生で一番大切な時は、今と今から。)

・「自分は今までの人生の方向が間違っていたことを認めます。自分は今まで罪につかえこの世につかえ肉の情欲につかえてきたものでありましたが、今日以後はキリストにつかえ神につかえ義につかえてまいります」(矢内原忠雄キリスト教入門』166頁)

・それが外面的なことではなく、内面的なことであるべきこと。

・砕けたる心(詩編34:19、ルカ18章10~14の徴税人。悔い改めの詩編:6、32、38、51、102、130、143)⇒ 自らのこととして悔い改める。「アッタ・ハーイーッシュ」(サムエル記下12:7) ⇒ メタノイアとしてのシューヴ

・「泣き悲しんで」 ⇒ 悲しみがきっかけとなって「立ち帰る」。

神の御心にかなった悲しみ=救いに通じる悔い改め

第二コリント7:10「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」

 

※ 「悲しみ」の意味

矢内原忠雄:「悲しみは永遠の窓であります。悲しみから見た人生に永遠の薫(かおり)があります。この世にこびり着いて離れ難き人の目を、神に向かい永遠に向かって開くものは悲しみであります。悲しみの無い人は俗人であると言って憚りません。もし人の人たることが永遠を慕い、永遠の生命を得ることにありとすれば、悲しみは人生の祝福であります。」(矢内原忠雄「かなしみ」、『矢内原忠雄全集 第十四巻』326頁)

⇒ ヨエルたちは、「いなご」の襲来の悲しみを通じて、メタノイアとしてのシューヴ、つまり永遠に目を転じ、永遠を慕うことができるようになった。

 

・「断食」:ヨナ3:7等。このヨエル書の箇所では、文字通りの断食を意味すると思われる。しかし、のちに「断食」の意味は深められ、イザヤ58やゼカリヤ7章では、形式的な断食ではなく、悪による束縛・くびきを断ち、貧しく苦しんでいる人々を助ける社会正義のことを「断食」と呼んでいる。ヨエルの「断食」をこの意味に受け取れば、アモスやミカと同じ内容にもつながる。後世の我々は断食の意味を広く深く受けとめることも可能。

(政池仁は、「正しき思い、明るい心」で生きることを自らに課すことが「断食」だと神への深い祈りの中で思い至っている。「パラクレートス」290号参照。)

 

※ 他の聖書箇所を踏まえれば、ここでの「悲しみ」は「立ち帰り」のきっかけを、「断食」は「立ち帰り」の結果としての行為を、それぞれ意味していると思われる。

 

※ 213 「主は恵みに満ち・・・」 イスラエルの希望の根拠となる神観

参照:出エジプト34:6‐7

「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」」

 

⇒ この出エジプト記の箇所は、詩編においても、主の恵みを待ち望む根拠となっている。

文語訳・詩篇130:5「我、エホバをまち望む。わが霊魂はまちのぞむ。われはその聖言(みことば)によりて望みをいだく」 その御言葉=出エジプト34:6‐7の上記箇所。

ヨエル2:13も、この箇所を思い起こし、神の「思い直し」を望んでいる。

(神の「思い直し」については、出エジプト32:14やアモス7:3、アモス7:6を参照)

⇒ 「立ち帰り」と、神の慈愛に対する「信頼」は、一組となっている。

※ 214 私が「シューヴ」する(立ち帰る)時に、神も「シューヴ」する?

「あるいは、主が思い直され」=岩波訳「誰が知り得よう、彼が立ち帰り、思い直して、・・・」

 

⇒ 穀物とぶどう酒(素祭と灌祭)、祝福が残る。⇒ 神との通常の交わり、御言葉の回復。

 

・2:15、16 民全体に「立ち帰り」が呼びかけられている。

⇒ 単に個人の内面のみの立ち帰り・悔い改めにとどまらず、民全体・社会全体に悔い改めを呼びかけている。 個人⇒全体のメタノイア。(参照・バプテスマのヨハネ

 

・2:16 「花婿・花嫁」 なぜここに出てくるのか?

古代イスラエルにおいては、新郎は兵役義務や公務を免除されていた。

申命記24章5節:「人が新妻をめとったならば、兵役に服さず、いかなる公務も課せられず、一年間は自分の家のためにすべてを免除される。彼は、めとった妻を喜ばせねばならない。」

⇒ したがって、通常はいかなる公務も免除されている人であっても例外なく、集会に集まり、神への立ち帰りに参加せよ、という意味。あるいは、祝い事の自粛を厳しく命じている。厳粛に民族全体で神に立ち帰ることを勧めている。

 

・2:17 主への嘆願 の背景

参照:列王記上8:37~39、歴代誌下6:28~30 では、ソロモンが神に対して、いなご等が発生した場合にも、イスラエルの民が、心に痛みを覚え祈るなら、罪を赦し、こたえてください、と祈っている。

それに対し、ソロモンの夢の中で神が答えて、以下のように語ったとされている。

歴代誌下7:13~14「わたしが天を閉じ、雨が降らなくなるとき、あるいはわたしがいなごに大地を食い荒らすよう命じるとき、あるいはわたしの民に疫病を送り込むとき、もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。」

⇒ 心の痛み(悔い改めに通じる悲しみ)を持って神に祈れば、必ず神が聴いてくださるという確信。信頼。

 

※ 以上、第二部では、「立ち帰り」について述べられている。

ただし、ここで問題が生じる。第二部と第三部の関係はどうなっているのか?

 

※ 「私が立ち帰ったから、神が思い直してくださる」のか?

・ヨエル書の文章を読むと、一見、人の側の神への立ち帰りが、神の人への「立ち帰り」・「思い直し」をもたらし、第三部でこれから述べるような回復と救済をもたらしたように読める。人が立ち帰れば、神が罰を思い直す(立ち帰る)という構造になっているように読める。(マラキ3:11には、人が立ち帰って立ち帰りにふさわしい行動をすれば、神がいなごを滅ぼすことが述べられている。)

・しかし、ヨエル書には、ホセア書において批判される偶像崇拝や、アモス書やミカ書で批判されている社会の不正義が一切書かれていない。いきなり、いなごの襲来が記されているだけで、前提となる民の側の罪は一切書かれていない。

 

・これから見る第三部にも、別に悔い改めて立ち帰ったから赦された、とは書かれておらず、2:18では、「ヤハウェはご自身の国を熱愛し、その民を憐れまれた。」(岩波訳)とのみ記されてつながっている。

 

・したがって、申命記にあるように、なんらかの神への背きの罰としていなごの襲来があったようにも受けとめることができるが、むしろ、第三部にこれから述べられる祝福を与えるために、神がまず人の側に立ち帰ることを促すために「いなご」(悲しみ)を送ったようにも読める。つまり、罰するためでなく、(悲しみという)祝福をもたらすために。

 

矢内原忠雄:「悲しみの経験ある人でなければ、『悲哀(かなしみ)の人』キリストを知ることはできません。そして永遠の生命を得ることが人生最大の幸福であるとしますれば、キリストを知ることがすなわち最大の幸福なのであります。悲しみはキリストを知る門であります。ですから悲しみは神の恩恵であります。」(前掲書331頁)

 

・ホセア書においては、ホセア11:8―9で、人の側の悔い改めや行いに関係なく、神の側で一方的に人の苦しみを憐れみ心を動かすことと、ホセア13:14で神の側が一方的に人間を死から贖い出すことが宣言されている(新共同訳ではなく関根訳だとその点が明瞭。前々々回「ホセア書を読む」資料参照)。

したがって、ホセア書の次にヨエル書が来ているという配列を重視し、ホセア書の内容を受けてヨエル書を読み解くのであれば、ヨエル書における「立ち帰り」は「罰」の結果ではなく、むしろ神の側の「愛」や「贖い」が先行したものであり、「祝福」であると受けとめることができる。 ※「罰」ではなく「悲しみ」(という祝福)。

 

⇒ まず先に神の側のゆるし、神の愛、神の側からの働きかけがなければ、人は立ち帰ることができないのではないか?(参考:九重集会での川島重成先生の御話。および哀歌5:21)

⇒ 第三章の「神の霊が万人にそそぐ」ことは、記述の順番では「立ち帰り」のあとになるが、実は神の霊がそそいでいるからこそ、立ち帰ることができたのではないか?

※ 上記のことに留意して第三部を読むと・・・。

Ⅳ、第三部 「回復と救済」 (218節~35節) 

 

※ 21827 「豊かさの回復」

 

221 関根訳「地よ、恐れるな、/かえって喜びたのしめ、/まことにヤハウェは大いなることをされた。」

⇒「恐れるな」(アル・ティラ):創世記15:1、イザヤ43:1、エレミヤ30:10、ダニエル10:19、ルカ2:10、ルカ12:7、ルカ12:32、黙示録1:17等)

⇒「喜び踊れ」(ギーリー・ウーセマーヒー、ギルとサマッハ)岩波訳「喜び、歓べ」(英訳(rejoice and glad):詩編2:11、32:11、96:11、97:1、149:2、イザヤ35:1、49:13、65:18、66:10、ゼファニヤ3:14)

「喜びなさい」:マタイ5:12、ルカ10:20、Ⅱコリ13:11、フィリピ2:18、3:1、4:4、Ⅰテサロニケ5:16) ⇒ 一説には、聖書には八百回喜びなさいと書かれている。

⇒ 聖書に通底する「恐れるな」「喜べ」のメッセージがヨエルにも響き渡っている。

 

・損害の何年分も償われる。豊かな大地が回復する。イスラエルのうちに神がいることを人々は知るようになる。いちじくとぶどうの豊かな実りの回復。

・神の愛に満ちた、豊かさに満ちた人生の実現。

・いちじくとぶどうを旧約と新約の御言葉のことと解釈すれば、これらの箇所も、単なる物質的な回復や物質的な祝福ではなく、霊的な意味にも受けとることができる。神に立ち帰ったのち、豊かに御言葉が与えられることと解釈できる。

 

⇒ その証拠のひとつは、2:23における「義の教師」の言及である。

 

・2:23 岩波訳:「…彼はあなたがたに、義に従って秋の雨を与え、あなたがたに冬の雨を、もとのように、秋の雨と春の雨も降らせて下さった。」

口語訳:「主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、」

⇒ 関根訳「間違いなく雨を与え」、フランシスコ訳「救いの雨」。ハモーレ・リツダーカーアラム語訳やヴルガタ訳では、「義の教師」としている。

 

⇒ つまり、この箇所は、「義の教師」が与えられる、という訳が可能。雨が言及される中で唐突だという説もあるが、秋の雨と春の雨=旧約の御言葉と新約の御言葉が与えられるという意味ととれば不自然ではない。(アモス書前々回レジュメ(7章、第一の幻)参照。)

⇒ 「義の教師」はクムラン・エッセネ派死海文書で登場する、メシア的な人物に使われる言葉。

・ただし、この箇所は、物質的な豊かさの回復の意味に受け取っても十分に素晴らしい箇所と思われる。そのうえで、義の教師や精神的な糧も与えられていると受けとめることも可能と思われる。

 

※ 315 「霊的祝福」

 

・すべての人に神の霊がそそがれる。

・誰もが、預言・夢・幻によって神のメッセージを受けることができるようになる。

・奴隷にも神の霊がそそがれる。つまり、身分は一切関係なく、平等である。

⇒ 神と個人の直接的な関係と、万人の平等という驚くべき内容が主張されている。

(神の霊がそそがれる以上、当然「奴隷」も尊い存在ということになる。人権の根拠。)

 

⇒ 使徒行伝2:15~21 ペンテコステに際して、ペテロのヨエル引用

「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。・・・」

(参照:ゼカリヤ12:10においても、聖霊が人々にそそがれることの預言がある。)

 

・3:3 「血と火と煙の柱」 十字架? きのこ雲? 「しるし」

 

・3:5 「主の御名を呼ぶ者は皆救われる」 ⇒ 主を信じてその信仰を告白する人は、主の日においても救われる。残りの者には、逃れ場がある。

 

 

※ 「立ち帰り」と「神の霊のそそぎ」と「御名を呼ぶ」ことの関係はどうなっているのか?

 

・ヨエル書の文章の順序としては、「立ち帰り」→「神の霊のそそぎ」→「御名を呼ぶ」という順番になっている。

しかし、キリストを主と告白し、神を父と呼べるのは、聖霊の働きだと新約は述べている。(フィリピ2:11~13、ガラテヤ4:6)。

それを踏まえれば、むしろ「神の霊のそそぎ」があったからこそ、「立ち帰り」が可能となり、「御名を呼ぶ」ことができるようになったと読むことができる。

もしその読み方をするのであれば、ヨエル書の第二部と第三部、つまり二章十二節以下から三章にかけては、同時に起こっていることと考えることができる。

 ⇒ 立ち帰り・神の霊のそそぎ・御名を呼ぶことは、同時だし、神の働きによる。

Ⅴ、第四部 「主の日の審判」 (41節~21節) 

 

※ 4115 「最後の審判

 

41 岩波訳:「まことに見よ、ユダとエルサレムの囚われ人を帰らせる、その日、その時に、」

(新共同訳「繁栄の回復」が、岩波訳・文語訳だと「帰還」の意味の言葉となっている。)

 

・ヨシャファトの谷:神の審判の谷。エルサレムとオリーブ山の間のケデロンの谷という説もある。 

ディアスポラ、土地が奪われたこと。

・人身売買、奴隷貿易

(参照:アフリカの黒人奴隷。フレデリック・ダグラス自伝には、海外の伝道団体に聖書を寄付するために黒人の赤ん坊を売り払ってお金をつくる南部の奴隷主人についての言及がある。また、朝鮮半島の植民地化や従軍慰安婦などの過去の歴史の罪科を直視しないことを考えれば、日本にとって決して無関係なことではない。)

⇒ 罪は、必ず神によって審判される。   

(罪に対する正義の審判があるという観念の薄いことが日本文化の特徴(吉村孝雄先生))

 

・4:10 「鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ」 ミカ4:3―5およびイザヤ2:4とちょうど正反対の言葉。

⇒ ミカとイザヤの言葉が、イスラエルの民に言われているのに対し、ヨエルのこの箇所はヨシャファトの谷に集まるイスラエル以外の敵の民たちに対して言われている。挑発的に彼らの敵意や軍国主義を揶揄している表現。したがって、神の本意は、ミカとイザヤの中のヨエルとは正反対の表現の中に、非戦論・平和主義の中に、あると考えられる。

 

・4:13 鎌、刈り入れの時  黙示録14章、マルコ4:29、ルカ10:2、イザヤ63:3

審判。(福音書イザヤ書を踏まえれば、鎌は準備の整った義人の魂を神の国に迎えること、酒ぶねを踏むことが悪に対する審判)

⇒ 黙示録における最後の審判と通底する内容。

 

※ 41621 「救い」

 

・4:18 岩波訳「ヤハウェの家から泉が湧き出て、シッティム(※アカシアの木)の流れを潤す。」

⇒ 主の家から泉が湧き出る。

ヨハネ4:14、エゼキエル47章、ゼカリヤ14:8、雅歌4:15、黙示録7:17、黙示録21:6、黙示録22:1、黙示録22:17 :いのちの水) ⇒ ヨエル書にも通底。

 

※ 421 は、新共同訳の「復讐」とは正反対の意味の諸訳が存在する。「赦し」の意味にこの箇所をそれらの訳は受け取っている。

関根訳「わたしは今まで罪なしとしなかった/彼らの血を罪なきものとしよう。」

・フランシスコ訳脚注(マソラ本文)「わたしは罰しなかった彼らの血を罰しないでおく」

ジェームズ欽定訳:“For I will cleanse their blood that I have not cleansed:”

・New Living Translation “I will pardon my people's crimes, which I have not yet pardoned; "

Naqah=clean。 ここは、新共同訳の「復讐をする」ではなく、むしろ関根訳等のように、罪のゆるしと受け取るべきと思われる。 ⇒ 救い、赦し。

 

※ 上記の解釈に立ち、ヨエル書を救いや赦しに引きつけて読めば、十字架の贖い・キリストへの信仰によって魂にいのちの水が湧きだし、罪がゆるされ、神の霊がそそがれる、ということをヨエル書は預言しているということになる。

(ただし、歴史的に見て、復讐の審判が行われる主の日を希求したものとみることも可能。矢内原忠雄「復讐の神」(全集九巻680頁)=紊乱された神の秩序の回復。)

 

※ いずれにしろ、ヨエル書の第四部では、終りの日にイスラエルの人々が「帰還」し、「最後の審判」がヨシャファトの谷で行われ、主を神だと知った人々には、いのちの水が湧きだすことが明確に描かれている。

 

 

Ⅵ、おわりに 

 

◇ ヨエル書の聖書全体の中での重要性

 

・仮にヨアシュ王時代の預言者だと考えれば、十二小預言者中最古の預言者、最古の記述預言者ということになること。

 

・シューヴ(立ち帰り)の内容において、それまでは外面の行動の重視に力点が置かれていた中で、特に内面における契機を重視し、のちの「メタノイア」につながる内容を説いたこと。

・「主の日」を二重の意味で用い、「最後の審判」の思想を最も早く打ち出していること。

 

・神の霊が万人にそそがれるという、神と個人の直接的関係と万人の平等を明確に預言していること。

 

 

※ ヨエル書から考えたこと:

 

・日本は、敗戦や311、さかのぼれば享保の飢饉などのさまざまな出来事を、ヨエル書が冒頭に述べるようにきちんと記憶を継承し、体験を語り継いできたのか?

 日本は、敗戦においてすら、立ち帰り・悔い改めが不徹底だったのではないか?(昭和四十九年「荒野」第六十一号 白毛子「懺悔と悔改め」参照。)

 

・「主の日」を二重の意味に受けとり、今起こっている問題や災厄から類推して終りの日をリアルに感じ取るという姿勢と、最後の審判において義が貫徹されるという信頼の姿勢の、この二つの姿勢を持つことをヨエル書から学ぶことができるのではないか?特に日本にはこの二点が欠けているのではないか?

 

・神の霊が万人に平等に降るというヨエルの預言は、神と人との直接的な関係と万人の平等を明確に示しており、ルターの万人祭司主義を先取りするものであり、さらには無教会主義の根拠となるものと思われる(矢内原忠雄「一人一教会」)。聖職者や組織を媒介にしなくても、個人は神に直接結びつき、神から救いを受け取ることができるという意味で、ヨエル書は無教会主義の根底をなす。

 

・「断食」を深く広い意味で受けとめて、社会変革の意味だと受けとめるとしても、まずは個人の「悲しみ」の体験にもとづいた切実な神への「立ち帰り」が必要だということがヨエルから学ぶ貴重なメッセージ。「立ち帰り」→「断食」(社会変革)の順番。

 

・ただし、ヨエルの場合、「立ち帰り」が個人に始まるとしても、個人に止まることなく、民族全体に呼びかけられているものであることも注目すべきことと思われる。ヨエルや洗礼者ヨハネ、そして主イエスは、個人の内面の救いや隠遁にとどまらず、「立ち帰り」を広く人々に呼びかけるものであったこともあらためて確認されること。

 

・冒頭がいなごの襲来のため、ヨエルには深刻な悲哀に満ちたイメージが当初はあったが、「立ち帰り」以後の、圧倒的に豊饒な祝福に満ちたイメージこそ、ヨエルの真骨頂と思われる。「悲しみ」は「永遠の窓」であり「祝福」である。

※ ヨエル書 第二章十二~十三節 (立ち帰りのことば)

 

 וּבְמִסְפֵּֽד׃ וּבְבְכִ֖י וּבְצֹ֥ום בְּכָל־לְבַבְכֶ֑ם עָדַ֖י שֻׁ֥בוּ נְאֻם־יְהוָ֔ה וְגַם־עַתָּה֙

וְאַל־בִּגְדֵיכֶ֔ם  לְבַבְכֶם֙ וְקִרְע֤וּ

 

ウェガム・アッター・ネウム・アドナイ・シューヴ・アダイ・ベホーッル・レバッヘム・ウベッソウム・ウビッヒィー・ウビミシュペッド・

ヴェキールー・レバブヘム・ヴェアール・ビグデヘム

 

「しかし今でも遅くない、

ヤハウェは言われる、

心をこめてわたしに帰れ、

断食して嘆き悲しめ。

衣でなく心を裂き

君たちの神ヤハウェに帰れよ。」

 

 

 

 

 

 

「参考文献」

 

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・デイヴィッド・アラン・ハバード著、安田吉三郎訳『ティンデル聖書注解 ヨエル書、アモス書』いのちのことば社、2008年

・黒崎幸吉編『𦾔約聖書略註 下』、藤本正高「ヨエル書」

・『新聖書註解 旧約4』いのちのことば社鈴木昌「ヨエル書」、1974年

・レオン・デュフール編『聖書思想事典』三省堂、1999年

矢内原忠雄全集9巻、14巻、岩波書店、1963年

矢内原忠雄キリスト教入門』中公文庫、2012年