真理のうちに歩むこと(ヨハネの手紙Ⅲ)とはどういうことだろうか?
ふと考えてみた。
ヨハネの手紙Ⅰによるならば、真理のうちに歩むとは、すなわち、愛のうちに歩むこと、愛をもって生きること、ということなのだろう。
極めてシンプルな、当たり前のことである。
しかし、なんと、しばしば、忘れやすいことだろう。
自分の人生を振り返った時に、しばしば、なんと愛から離れていたことか、愛に背いていたことかと思う。
しかし、それを当然のことと思っていた。
大なり小なり、人を憎んだり、冷淡に見捨てたり、恨むことのなんと多かったことか。
そして、それを真理のうちから離れることとも、あまり意識せずにいた気がする。
思うに、人間というのは、基本的に真理から逸脱するようにできているのだと思う。
愛を忘れ、愛に背いて生きてしまうように生まれながらの性向としてプログラムされているのだと思う。
それを、聖書はアダムの背きやアダムの原罪と表現したのだろう。
で、これは人間にとってあまりにもごく自然な当たり前のことなので、人間の中だけの理屈で生きていると、このことが間違っているとも少しも思えず、問題すらそもそも感じないのだと思う。
人間であれば、敵国や敵対集団を憎み、悪人や敵を憎むことは当然と思うものだし、むしろそれが正しいと思いがちなのだと思う。
もし、これを間違った歩みだと気付くことができたのならば、それは決して人間の内側から出てきたものではなく、何か他からの光によるのだと思う。
キリストは、そうした他からの、外からの、光であり、ヨハネはその光を受けたがゆえに、上記の洞察をすることができたのだろう。
ルカ6章の平地の説教を、何度読んでも、そのたびに、自分はなんとこの心から隔たっていることかと思う。
しかし、そうであるがゆえに、繰り返しこの御言葉に触れて、光を受ける必要があるのだと思う。
もし救いというものがあるとするならば、たえず光を受けて、少しずつこの人間の誤った性向を修正することの中にしかないのだと思う。
その時に、流転輪廻の永劫の繰り返しから、少しずつ解き放たれるのだと思う。
ずっと繰り返し同じ軌道をぐるぐる回っていた衛星が、ある時、彗星がぶつかってはじめて軌道が変更した。
流転輪廻の永劫の人間の生と、キリストの光というものは、そのようなものではないかと思う。
ただ、彗星が一撃で軌道を変えることができるのに対し、そして中にはパウロのようにそのような一撃で一発で変わった人もいるのに対し、私のような凡夫の場合は、繰り返し御言葉の光を受けて、少しずつ軌道を修正する必要があるのだと思う。