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なぜ私は無教会主義キリスト教なのか

自分はなぜ無教会主義キリスト教なのだろうかと、ふと自問してみた。

これといって、特に理由がなく、たまたま、という気がする。

教会について私はほとんど知らないし、詳しくないので、教会と無教会を比較して、ということは私にはできない。

たまたま、キリスト教に興味を持って、どこかで勉強しようと思った時に、近くに無教会の集会があった、というだけのことである。

つまり、教会に行かず、無教会というのは、たまたま、という気がする。

しかし、その後もずっと無教会の集会に通っていることを考えると、要は自分にとって居心地が良いのだと思う。

私は教会のことはほとんど知らないのだけれど、今現在教会に所属している方や、あるいはかつて教会に所属していた方から、教会の人間関係についての悩みを聞いたことがある。

無教会はその点、私にとっては、人間関係の苦労はゼロであり、ほどほどの距離感で極めて居心地が良い。
私の通っている集会の方々は、皆非常によくできた方ばかりなので、もちろんストレスゼロである。
たぶん、教会の方が濃密な人間関係があるのかもしれないけれど、無教会はその点で程よい気がする。

それと、たぶん、私は無教会の現在いる人々が好きだし、今までの無教会の歴史の人々が好きなんだと思う。
おそらく、教会にも良い人や立派な人はいるだろうし、歴史的にも多くのそうした人がいるだろうから、他の教会に行っていたらそこで同様のことを思っていたのかもしれない。
ただ、たまたま最初に行ったのが無教会だったせいか、私にとっては、そう感じるし、内村鑑三矢内原忠雄などの無教会の歴史を今まで形作ってきた人々が、本当に心から尊敬できる人だというのも大きな理由である。

内村鑑三、藤井武、斉藤宗次郎、塚本虎二、三谷隆正、黒崎幸吉、浅見仙作、南原繁矢内原忠雄、政池仁、鈴木弼美、高橋三郎などの無教会の先達の方々は、もちろん私は直接はお会いしたことがない、すでに昇天した方ばかりなのだけれど、その存在を思うだけで胸が熱くなるものを感じる。
これらの多くの人々が、日露戦争日中戦争第二次世界大戦をリアルタイムに批判し、節義を貫いたというのは、他の宗教宗派にめったに見られない、無教会の栄光の歴史だと思う。

なんといえばいいのか、流れ星銀牙の言葉を借りるならば、私にとってそれらの人々は「奥羽の戦士」であり、伝説の英雄である。

無教会の集会に行っていると、それらの人々にリアルタイムに接したことがあるお年寄りや、あるいはその孫や親族にあたる方がいて、それらの伝説上の人々の在りし日の話を聞けるのも、とてもありがたいことだと思う。

そういえば、内村鑑三については、私は、ずっと以前から、関心はあった。
キリストを信じる気になる前から、何か、内村の言葉だけは、本当のことを言っているという予感がした。
二十代前半の頃、人生に苦しみもがいていた時に、いくたびか、内村の著作を読んだりしたことがあった。
その頃は、キリスト教を信じていたわけではなかったけれど、それらも遠い伏線だったように思う。

他にも何か理由はあるのだろうかと自問してみると、無教会が自分にしっくりくる一つの理由は、たぶん、バタ臭くないところ、つまり、西洋的過ぎないところだと思う。

西洋渡来のキリスト教や教会宗派は、どうしても西洋の文化や歴史を色濃く反映する。
それが良さでもあり、悪さでもあろうと思う。

私の場合、あんまり西洋っぽすぎるのはどうにもニガテなので、シンプルに、欧米を経由せずして直接聖書に触れるという、日本に始まった無教会主義が、肌に受け入れやすかったのだと思う。

西洋の膨大な神学や歴史を経由しなくても、ストレートに聖書に触れることができるというのは、無教会主義の良さだと思う。

日本人の心で、大和魂で、西洋を経由せずに、直接聖書に触れる。
それが私にとって無教会がしっくりくる大きな理由と思う。

もっとも、各自が必要に応じて西洋のキリスト教の歴史の遺産を活用するのは、それはそれで素晴らしいことと思う。

あと、もう一つの理由は、無教会は教会の建物などを持たないために、維持費が安く済むため、経済的な負担がなく、これといって組織として社会事業を行うわけでもないので、その手伝いに駆り出されることもないということである。
教会の話で、けっこう献金が高いという話や、いろんな奉仕やボランティアに駆り出されて大変という話を聞くことがある。
むろん、それが喜びになる場合もあるのだろうけれど、私には、それらの教会であればハードルが高すぎて無理っぽかった気がする。

あとは、他の理由として、これは、教会と無教会を分ける決定的な点なのだけれど、洗礼や聖餐式がないということではないかと思う。
儀礼や儀式で救われるというのが、どうも私はピンとこない。
もちろん、儀礼や儀式で救われるという人はそれで良いと思うのだけれど、私自身に関しては、である。
なので、洗礼や聖餐式を行わず、儀礼や儀式をとっぱらい、聖書に直に学ぶという無教会主義が、教会の教えよりも、自分には納得がいった、ということなのだと思う。

他の理由として、無教会は、儀式的なところは極めてラディカルだけれど、教義的には非常にコンサバティブなところがある気もする。
三位一体や使徒信条などの古くからのキリスト教の根幹の部分には忠実なのも、私の性にあったのだと思う。
あんまり近代的な教義やユニテリアンのようなものでは、私は救われないので、古き福音の、十字架の贖いをしっかりと説き、証する、その点では極めて古風な無教会の風格が、一番しっくりきたのだと思う。

ただ、いろいろ、理由は考えられるし、以上のようなことが考えられるけれど、やっぱり、一番大きな理由は、たまたま、だったような気がする。
たぶん、各人が各自に一番しっくりくる宗派や教会に所属すればそれが一番良いのだと思うし、思うに、それはある種の召命であり、神の導きなのだと思う。

無教会も教会も、見える教会としては別のものであり別の組織であり別の要素もあるが、見えざる教会、つまり目に見えないエクレシアとしては、キリストの体の一部をなすという点で、等しく同じであり、相違点よりも共通点が多いのだと思う。
ただ、若干の歴史や流儀が違うというだけのことであり、仲良く互いの祝福を祈りあえばそれでよいのだと思う。
そして、たまたま、その人が導かれたところに、それぞれ通い、礼拝を守ればそれで良いのだと思う。

思うに、無教会としては、教会からこぼれ落ちた人や、キリスト教と未だに縁のない人たちに向かって、つまり日本の人口の九割以上を占めるノンクリスチャンに向かって、わかりやすく福音の精神を伝えることが、その使命なのだと思う。

もっとも、その方法は、何も声高に伝えることではなく、今までの無教会の先達の方たちがしてきたように、自分自身の日常の生き方を通して、奇をてらわず気負うことなく、淡々と、キリストの雰囲気を言葉ではなく身をもって伝え、広げていくことなのだと思う。

私は無教会にめぐりあえてよかった。
そのことをしみじみ主に感謝する。