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沖縄の戦争の語り部の方の御話

沖縄の戦争の語り部の石原絹子さんの貴重な御話をお聞きする機会があった。

 

石原さんは当時小学一年生で、父・母・兄・妹二人の幸せな家族だったそうである。

しかし、父は兵隊に召集され、のちに戦死したとわかったそうだ。

 

沖縄が戦場になり、具合の悪い母と兄妹たちと一緒に壕の中に逃れて隠れていたところ、日本兵がやって来て、この場で子どもを殺すか壕から出て行くかどちらかにしろと迫られ、子どもを殺されたら生きてはいけないと言って母が子どもたちと壕から出て行くことを決断した。

 

その時、食べ物をすべて置いて行けと言われて、かろうじて持っていた水と塩も置いていった。

 

人の肉片が飛び散る戦場を逃げ惑ううちに、母と兄とはぐれ、やっとの思いで探し出すと、すでに二人とも死んでいた。

 

そして、背中におぶっていた一才の妹も冷たくなって死んでいたことに気付いた。

 

そのあと、すぐ下の妹も、砲弾の破片が胸に刺さって失血が続き、水が欲しいと言いながら亡くなった。

 

もう死にたいと思い倒れていたところを、米軍の衛生兵に救助され、祖母に再会した。

 

祖母は、生きなければならない、私たちがみんなを弔わなければならない、と言った。

 

母は戦争が終わったら幸せな家をまたつくることを、兄は本が好きで医者になることを、すぐ下の妹はお菓子屋さんになることを夢見ていた。

 

といった御話で、聞きながら、涙を禁じ得なかった。

十五年戦争の総決算が沖縄戦だったとおっしゃっていたが、あまりにも悲惨な戦争だったとあらためて思わざるをえなかった。

 

石原さんは、戦争を作り出すのも人間だが、平和を作り出すのも人間であり、戦争をやめるのも人間だとおっしゃっていた。

平和の実現は、すでにできあがっているものではなく、人間の意志や忍耐や叡智でつくりあげていくものだともおっしゃっていた。

正しく伝えることが生き残った者の責務で、過去を学ぶことが将来を見据えることにつながるともおっしゃっていた。

 

そして、伊丹万作の、以下の言葉を引用されていた。

 

「いくらだますものがいても、だれ一人だまされるものがなかったとしたら、今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまり、だますものだけでは戦争は起らない。

だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そして、だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた、国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。
 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。」

 

本当に、重い、忘れてはならぬ思いや言葉の数々と思う。

 

石原さんは最後に、小さな善意の輪を広げて大きくしていくこと、どんな小さなことでも隣人に愛を行うことを、御話されていた。

本当に、今日は貴重な御話を聞くことができて、感謝だった。

御著書も今日手に入れたので、あとでしっかり読もうと思う。