ユダヤ教のラビの方の御話

先日、ユダヤ教のラビのマゴネットさんの講演がS大であったので聞きに行ってきた。
テーマはユダヤ教と同性愛についてだった。

一般的に男色の罪で滅ぼされたとされるソドムの物語は、実は聖書の中では必ずしも男色が原因だったかははっきりとせず、そうとも解釈できるが、違うかもしれないこと。

レビ記には男色が死に値する罪と書かれているが、中世のユダヤ教のラビたちは、実際的にはその規定を現実には用いず、事実上死刑を行っていなかったこと。

現代においては、ユダヤ教内部で同性愛についてより寛容な改革的な試みや動きが起こってきたこと。

同性愛に対する偏見や敵意は、しばしば反ユダヤ主義と結託して、ナチスなどのような形で歴史的には生じてきたこと。

神の似姿としていかなる人も造られている以上、同性愛の人もまたそのようにみなすべきであるし、同性愛者とレッテルを貼らず、具体的にひとりの人間としてその人と出会い、その苦労や思いや人生に触れた時に、抽象的なレッテル貼りとは異なる自分の視野が開けること。

などなどの御話だった。

質疑応答の時に、私も拙い英語で、
「なぜユダヤ教のラビたちは中世において、男色に限らずその他のことも含めて、死刑を取り除くように努めたのか、実質的に死刑を廃止するように努め、極めて死刑に対して慎重だったのか。
日本は未だに現代でも死刑制度があるが、中世においてユダヤ教がそのような態度だった理由は何か?」
ということを質問してみた。

それに対するマゴネットさんの答えは、以下のようなものだった。

「大きく二つの理由があると思います。

ひとつは、ユダヤ教のラビたちは中世において、単なる宗教家ではなく、ユダヤ共同体内部の法律や司法の担い手であり、つまり弁護士として自分たちを意識していました。
ですので、弁護士として、具体的な出来事を詳細に検討し、極めて慎重に法を適用するという意識や作法を持っていました。

もう一つの理由は、聖書を全体の精神や他の箇所と照らし合わせて読むというラビの流儀です。
聖書の言葉は神の言葉である以上、極めて問題のあると思われる箇所も、ラビたちは無視することや廃止することはできませんでした。
しかし、ラビたちは、聖書の中にも極めて問題的な箇所があるという意識は強く抱いており、それらの箇所を単に字面だけで受けとめるのではなく、他の聖書の箇所と照らし合わせて解釈することを積み重ねてきました。
つまり、神が慈しみ深い存在である以上、そして神は慈しみ深い存在だとユダヤ教の伝統では受けとめてきたわけですが、そうであるならば、その観点から、あらゆる聖書は読まれるべきだということになります。
したがって、その箇所だけを切り取れば極めて厳しい刑罰や残酷な記述があったとしても、生命を大切にし慈しむという神の精神の観点から、死刑に対して極めて慎重に用心深く対処することになり、実質的にはさまざまな慎重な適用や条件を多数課すということで、実際には全く死刑が行われないという道を開いていきました。
このことについて詳しいことは、また別の機会に御話したいと思います。」

大略、以上のようなものだった。

ディテールを大切にし慎重に法を適用するということと、同時にテキストの全体の主旨や精神を大事にしてその観点から部分を解釈するという中世ユダヤの伝統的な二つの観点は、非常に興味深いし、素晴らしいものと思った。

にしても、もうちょっと英語のリスニングや会話能力を鍛えておかないといけないなぁと今日はあらためて痛感した。
次回はもうちょっと流暢にやりとりができるようにがんばろう。