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イフタールの夕食会

今日は、イフタールの夕食会のお誘いのメールをNさんよりいただいていたので、行ってきた。

イフタールというのは、イスラムの断食明けのことで、その時の夕食会はムスリムにとってとても大切な喜びだそうである。

今日のイフタールは一般の人向けに、大きな会場で行われていた。

 

記念の講演として、Oさんという日本人でムスリムの方がラマダーンについて御話してくださり、それも興味深かった。

ラマダーンは第九の月という意味で、断食に相当する言葉はサウムというそうである。

また、サウムは正確に言えば、断食のみでなく、断水や争いをやめることや性行為の禁欲も含めるそうで、「斎戒」と訳す方が適切だそうだ。

サウムによって、イスラムは、食べなければお腹が減るし、日没の後に食事する時にはとてもよろこびを感じるという、人間の原点にラマダーンの時期に立ち帰り、人種や民族を超えてその点で深い連帯や絆を実感するそうである。

 

質疑応答の時間もあり、ある方がOさんに、「なぜ神はシリアの難民問題などを放置するのか、この世に神がいるならばあの難民問題どう受けとめれば良いのか?」というなかなかヘビーな質問をされて、それに対するOさんの答えは、とても興味深かった。

大略、以下のような御話だった。

 

「ある何冊かの著作もあるキリスト教徒の人は、同様の疑問を持ち、結局、世界の不条理な問題に対して神は何をしているのかということに絶望し、キリスト教の信仰を捨ててしまったという話を聞いたことがあります。

この問題に対して、イスラムでは、このように考えます。

イスラムでは、ラマダーンの断食(サウム)も、収入の2.5%を必ず共同体や貧しい人のために用いるというザカート(喜捨)も、どちらも人間はお互いに助け合うべきだという理念に基づいて行われています。

つまり、人間は自分のためだけでなく、お互いに助け合うべく創造されており、そして本来は、この世界は十分豊かなすばらしいものとして神に創造されており、人間が正しくお互いのために助け合えば、充分にやっていけるものだとイスラムでは考えます。

したがって、もし難民問題や困っている人々がいるならば、それは、人間の側が十分に神に対して忠実ではなく、お互いに助け合っていないからそのような問題が生じていると考えます。

もし、本当に難民問題が大変な問題だと認識しているのであれば、抽象的に考えて神がどこにいるのかという問いを持って無力感に陥り信仰を捨てるのではなく、自分に何ができるのか、自分が何をできているのか、ということをイスラムでは問うべきと考えます。

自分が本当に神に忠実に生きているか、自分がこの問題に対して何ができるか、そして何ができているか。

神は自分にそのような問いを持つだけの力と、何かができるための力を自分に与えてくれています。

そうであるならば、その力を正しく人を助けるために用いることが大切です。

もしそうしていないならば、それは、神ではなく自分たち人間の側の問題です。

イスラムではこのように、この問題に対して、ご質問や先にあげた例とは、問いの立て方が違ってきます。

このように違う問いの立て方をすることにより、先の問いの仕方とは異なる行動や生き方が導かれ、信仰を失うのではなく、より信仰が正しく強まっていく方向に進むことができると考えます。」

 

と、大略、以上のような御答えで、なるほどと思った。

イスラムは本当に明晰な知恵があるなぁと、今回もあらためて感心した。

 

そのあと、食事のおごちそうが振る舞われて、混ぜご飯やカレーが出て、とてもおいしかった。

また、思いもかけず、知人も来ていて、食事しながらいろいろ話して楽しかった。

ウズベキスタンからの留学生のS君にも会って、メッカに行ったことがあるかと尋ねると、まだないけれど、いつかお金を貯めて両親を連れて巡礼に行きたいと言っていて、親孝行だなぁと感心した。

 Nさんにもひさしぶりに御挨拶できて良かった。

 

イスラムも、なかなか面白いなぁと思う。

以前、いただいてまだきちんと読めてないイスラム教関連の書籍も、またあらためてきちんと読んでみたいと思った。