先日、Aさんという方の御話を聞いた。
とても感銘深い話だった。
忘れないように、以下に簡単にメモを記したい。
不正確なところや十分に記せていないこともあるかと思うが、それはひとえにAさんではなく、私の責任である。
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自分は、小さい頃、たまたま父に連れられてアウシュヴィッツに関する展示を見に行き、そこに「120センチバー」というものがあったのを見て、とても衝撃を受けた。
それは、収容所に到着した人たちの中で、子どもは労働力にならないので、まず120センチ以下の身長の子どもを選別し、すぐにガス室送りにするためのものだった。
それ以来、生とは何か、死とは何か、いのちとは何か、ずっと考えてきた。
その後、ある時、たまたま、ある方のことを知るようになった。
その方とめぐりあったのは、実はその方の生前ではなかった。
生前は一度も会ったことはなかったのだけれど、その方の御葬式ではじめて知った。
たまたま、他の方が連れて行ってくれて、ある死刑囚の方の御葬式に参列した。
今までは一度もその御名前を他の場所で言ったことはないけれど、ここでは挙げたいと思う。
長谷川敏彦さんという、保険金殺人事件等で、三人の方を殺害し、死刑判決を受けた方で、2001年、死刑が執行された方だった。
その長谷川さんの御葬式に、殺された側の、被害者の方の御兄さんにあたる方が来ておられて、死刑制度の廃止を訴えていた。
それを見て、被害者の御遺族の方が、加害者の葬式に参加し、しかも死刑制度の廃止を訴えるということに、大きな衝撃を受けた。
その後、いろんな方の御話を聞き(ということで、その御話の中ではそのことも述べられていたが、割愛させていただく)、先日、十数年ぶりに、長谷川さんのお墓詣りにも行ってきた。
それで、その中で、自分が思うようになったのは、
“死とは、誰かの心に残り、そして伝わっていって、
主に立ち帰らせてくれる。“
ということだった。
死とは、単なる滅びや消えてなくなるものではなく、誰かの心にのこり、そしてそこから伝わっていって、私たちを、神様に立ち帰らせてくれる、
そういうものだと今は思うようになった。
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大略、以上のような御話をされて(本当はもっと胸を打つ深い内容のものだったが、私のまとめる力が不十分なので大略だけになってしまったが)、そして、「花彩る春を」という讃美歌を紹介されていた。
その讃美歌は、私ははじめて知ったのだけれど、本当に胸を打つ内容のものだった。
「讃美歌21」 385番 「花彩る春を」
1 花彩る春を この友は生きた、
いのち満たす愛を 歌いつつ。
悩みつまずくとき、この友の歌が
私をつれもどす 主の道へ。
2 緑もえる夏を この友は生きた、
いのち活かす道を 求めつつ。
悩みつまずくとき、この友のすがた
私をふりかえる 主の道で。
3 色づきゆく秋を この友は生きた、
いのち 他人のために 燃やしつつ。
悩みつまずくとき、この友は示す
歩みつづけてきた 主の道を。
4 雪かがやく冬を この友は生きた、
いのちあたためつつ やすらかに。
この日、目を閉じれば 思いうかぶのは
この友を包んだ 主の光。
(コヘレト12:1~2 ルカ2:25~38
詩71:18~19,119:9)
その御話を聞いたあと、私も、長谷川敏彦さんについて書かれた本を読んでみた。
大塚公子著『「その日」はいつなのか。―死刑囚長谷川敏彦の叫び』(角川文庫)という本で、長谷川さんが死刑執行になる以前に書かれた本だが、獄中でキリスト教に深く帰依されたことや、事件に至るまでの過程、またその後のことが書かれて、深く考えさせられた。
もう一冊、その御遺族の方、被害者の御兄さんにあたる方が書いた本があるという。
今度読んでみようと思う。