信仰と行為について ミカ書を通じて

旧約聖書の中のミカ書の中に、こんな一節がある。

 

ヤハウェの怒りをわたしは負う。

彼に罪を犯したから。

彼がわが訴えを裁き

わが義をつくり

わたしを光のもとに引き出し

彼の義をわたしが見るまで。」

(ミカ書 第七章 九節 関根正雄訳)

 

ヘブライ語における「義」は、「救い」と訳されたり、新共同訳では「恵みの御業」と訳されたりして、なかなか翻訳するのが難しいようだが、この箇所は関根訳が原文をよく踏まえてシンプルで良いと思う。

 

ここで驚くべきことは、キリストの七百年ぐらい前の時代の、旧約聖書のミカがすでに、信仰義認論を明確に述べていることである。

 

一般的に、キリスト教の歴史でよく言われるのは、パウロが人が救われるのは信仰によってであり行為によってではないという信仰義認論を主張し、ユダヤ教パリサイ派の行為義認論とは異なる思想を打ち出したということと、そしてそれが長く理解されず受け継がれていなかったのを、ルターがもう一度明確につかみ出し、宗教改革の時代に信仰のみによって救われる信仰義認論を明確に打ち出した、ということである。

 

たしかにそのとおりなのではあるが、このミカ書の箇所を読むと、神の側が「わが義をつくり」つまり私の「義」をつくってくれ、光に導いてくれる、それは「彼の義」、つまりあくまで「神の側の義」によってである、ということが言われているわけで、その時にはじめて私の罪が救われるということを述べているわけで、明らかに信仰義認論が述べられている。

 

もっとも、パウロが述べているように、それは創世記のアブラハムの箇所についても読み取れることかもしれないし、ミカに限らず聖書を一貫して実は述べられていることなのかもしれないが、ミカ書において人が救われるのは自分がつくった義ではなく、神の側がつくる「彼の義」つまり神の義によって人が救われる、ということが明確に述べられているのは、いろんな訳を参照にしてミカ書を学んでいて、私にとってはとても新鮮な驚きと感動をもたらされるものだった。

 

ただ、それと同時に、ミカ書では、以下のことも述べられる。

 

「人よ、何が善であるかはあなたに告げ知らされている。

ヤハウェは何をあなたに求めておられるのか。

公義を行い、

慈しみを愛し、

心してあなたの神と共に歩むことである。」

(ミカ書 第六章 八節 岩波訳)

 

ここでは、明確に、実際の生き方において、義と愛と熟慮が求められている。

 

この「心して」という箇所は、従来の多くの訳では「へりくだって」と訳されることが多いが、近年の研究では、謙遜という意味より熟慮の意味ととる方が正確ではないかということが提起されている。

仮に謙遜の意味にとっても、義と愛と謙遜(あるいは熟慮)という具体的な生き方が説かれている。

 

この箇所に先行する箇所では、ミカは明確に儀式によって人が救われないことを指摘し、儀式ではなく、上述の生き方をこそ神が求めていることが説かれている。

 

では、先に挙げた信仰義認説の箇所と、この箇所とは、どう受けとめるべきだろうか。

 

ここで重要なのは、義と愛と熟慮(謙遜)は、あくまで神が人間に生き方として求めていることであり、救いの要件ではないということだと思う。

 

つまり、救いに関しては、私がつくる義ではなく、神の側がつくる義によって救われる。

しかし、神が人に求めているのは、義と愛と熟慮(謙遜)の生き方である。

人が自分で義と愛と熟慮(謙遜)の生き方を積み上げても、それが救いに至るとは限らない。

しかし、神の義によって救われたことを信じる人は、当然神が求める生き方を自分も心がけるようになる。

そして、神が求める生き方に少しでも沿って生きようと心がけることを、神も当然喜ぶであろうし、そのことこそ救われた人が示すことができる神への感謝の現れとなる。

 

信仰と生き方というものは、そのような関係にあるのではないかと思う。

 

しかしながら、ともすれば、人類の歴史においては、信仰よりも行為で救われるかのように錯覚し行為を積み上げようしたり、あるいはその行為に関しても、何か具体的な義や愛や熟慮(謙遜)の実践ではなく、儀式が救いにつながると勘違いすることがあまりにも多かった。

これは今でも多くの場合に見受けられることだと思う。

あるいは、信仰や信心ひとつで救われるというのを誤解して、具体的な生き方における義や愛や熟慮(謙遜)を放棄してしまう場合もしばしばあるように思われる。

 

信仰と行為の正しいあり方というのは、上記のような非常にあやういバランスの上の、いわばか細い道をいくようなものだと思うけれど、その正しいあり方をずばっと明確に述べているミカ書は、聖書の中でも本当に珠玉の箇所だとあらためて思わざるを得ない。