『「ホセア書」を読む ―神と人との関係』
Ⅰ、はじめに
Ⅱ、第一部 ホセアの結婚とその象徴的意味(1-3章)
Ⅳ、第三部 回復と救済(14章2-10節)
Ⅴ、おわりに
Ⅰ、はじめに
ホセア書:十二小預言書のひとつ。記述預言書(まとまった預言の内容が独立した文書となっている預言者の書)としては、アモス書とともに最も古い時期に属する。北イスラエル王国を主な対象としている。全十四章。
・ホセアとは誰か?:祭司説・農夫説などがあるが、正確なことはわからない。BC8世紀中期、北イスラエルの衰退期に活動したと考えられる。
・ホセア書は、ホセアの妻・ゴメルがホセアを裏切り姦淫を行い、娼婦にまで身を落とすというホセア自身の家庭の悲劇と、その苦悩を通じてイスラエルと神との関係、および神の愛をホセアが深く理解するという特異な内容を持つ。ゴメルの不貞については、事実説と象徴説があるが、一般的には具体的体験に基づくものと考えられている。
・ホセアはBC8世紀、南北分断期の北イスラエル王国において、ヤロブアム二世没後の北イスラエル王国の混乱期を生きた。(ヨナ、アモス、ミカ、第一イザヤとほぼ同時代)。
・ホセア書は、北イスラエル王国の滅亡を預言しているが、滅亡の成就は述べられていないため、その前に没したと思われる。しかし、ヒゼキヤ王の時代まで活動したとするホセア書冒頭の記述のとおりとすれば、北イスラエル滅亡を見届けたと考えられる。
・内村鑑三は、ホセアをイザヤ・エレミヤ・エゼキエル・ダニエルと並ぶ大預言者であるとし、ホセア書を「神は儀式よりも愛情を歓び給う」ことを明らかにした「福音書以前の福音書」「旧約の内の新約」とまで言っている。(「何西阿書の研究」)
・私自身のことを言えば、今回まで、あまり突き詰めて読んだことがなかった。調べたところ、それほど解説書や注釈書が多いわけでもなく、絵画や文学でも取り上げられることが少ないようである。
※ 私にとって、ホセア書が今まで読みづらかった理由
1、「姦淫」という言葉の連発。
2、「姦淫」として弾劾される理由が、バアルという特定の時代の「偶像」礼拝であること。(現代人、特に日本人にとってわかりづらい。)
3、文章が一貫した構成ではなく、それ自体がひとつのまとまりである三つの部分から成っており、いきなり読むと構成がわかりにくい。(後世の編集に起因)
4、地名の連発。読者に地名や固有名詞の知識が当然の前提とされているので、予備知識がないとわかりづらい。
5、さらに、ヘブライ語原文が難解で意味がとりにくく、おそらく多数の断片の集成であるとされているため、翻訳を読んでもともすればわかりづらいこと。
→ しかし、以下のことに留意して読むと、本当に素晴らしい内容。
◇ ホセア書を読み解くために
1、「姦淫」の意味=愛を踏みにじること、愛を裏切ること。(内村鑑三)
もともと、十戒においては、ヤハウェ以外を神として礼拝してはならないことと偶像崇拝の禁止が明記され、それとは別に結婚関係を裏切る姦淫が禁止されていた。ホセアは、神に対する不忠実・不信仰を精神的な「姦淫」と表現し、人が神との(契約に基づく)誠実な愛から逸脱することを批判し、誠実な愛に立ち帰ることを主張した。
2、「偶像」=神ではないものを神とすること。神の愛にそむき的外れなものに愛を向けて迷うこと。
バアルや偶像は、現代においては、金銭・国家など、なんらかの神ではないものでありながら神のように崇められているものと考えれば理解しやすい。
3、ホセア書は、1~3章(第一部)、4~14章1節(第二部)、第14章2節~最後(第三部)の三つのまとまりからできている三重構造であることを理解する。
4、地名は、主に北イスラエルの地名が多いことを理解する。(頻繁に登場する「エフライム」は、イスラエルの中の最大勢力を持つ氏族で、ホセア書ではほぼ北イスラエル全体を指して使われている等。)
【ホセア書の構成】三重構造
第一部 ホセアの結婚とその意味(1-3章)
第三部 回復と救済(14章2-10節)
(ホセア書の構成の区分については、さまざまな仕方があり、政池仁は3章までと4章以下の二部構成としている。また、11章で区分する仕方もある。ここではフランシスコ訳の区分の仕方に従う。)
(時間の都合上、今回は第一部と第三部を丹念に取り上げ、第二部は要点のみ取り上げる。)
Ⅱ、 第一部 ホセアの結婚とその象徴的意味(1-3章)
■「第一部の概要」:ホセアとゴメルの結婚。ゴメルの裏切りによるホセアの苦悩。神から伝えられた、生れてきた子どもたちに名づける象徴的な名前。イスラエルの姦淫に対する神の嘆き。神の無条件の愛。神の愛を知ったことによるホセアの赦しと愛。救済の預言。
◆ 時代背景
1章1節:「ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。」
右:オムリの宮殿跡
・ヤロブアム:ヤロブアム二世(BC786~746)、北イスラエルの王。四十年の治世、繁栄。ヨナ書もこの時代。
・書かれていない北イスラエルの王たち:ゼカルヤ、シャルム、メナヘム、ペカフヤ、ペカ、ホシェア。どれも不安定な政権⇒サマリヤの陥落・北イスラエル王国の滅亡(BC722~721)
・ウジヤ(BC783-742)、ヨタム(BC750~735)、アハズ(BC735~715)、ヒゼキヤ(BC715~687):南ユダの王。
・南北の王の時代にずれがあり北イスラエルのヤロブアム二世以降が書かれていない理由。
1、のちに南ユダ王国でホセア書が編集され直した時に、あまり北イスラエル王国の歴史に詳しくない人々が編集した。
2、北イスラエル王国の繁栄時代を築き統治期間も長かったヤロブアム二世の没後、極めて短命な政権ばかりでクーデターが相次いだため、ホセア書はヤロブアム二世以後の王をわざわざ名前をあげるほどの存在でもなく、神の御心にもかなわない存在と考えていたので、名前を記さなかった。→ 第二の説が妥当と思われる。
ホセア:「ヤハウェが救い給うように」、「主は救う」、「主は救い」という意味の名前。ヨシュア記のヨシュアのもともとの名前でもあった(民数記13章16節)。(ちなみにイエスはヨシュアのギリシャ語形)
父の名・ベエリ:井戸に属する者という意味の名前。
◇ ホセアの妻と子 1章2~8節 :
2節:淫行:ヘブライ語:「ナーフ」(naaph(נָאַף))姦淫 adultery
内村鑑三によれば「愛を踏みにじること」
「受けいれよ」→ 「取れ」(関根訳)、「得よ」(フランシスコ訳)
qaḥ (laqach) 英訳:take, accept
3節:デブライム:「二つの干しいちじく」という意味。売春婦の値が二つの干しいちじく菓子の値だったという説もある。しばしば豊饒儀礼で使われたという説も。地名のディブラタイム(民数記33:46、エレミア48:22)という説もある。珍しい名前。
ゴメル:名前の意味は不明。「終わる、完遂する」という動詞の分詞形。男性の名前として、創世記10:2などに出てくる。女性の名前としてはホセアの妻のみ。「完全であって欲しい」と思って親が名づけたかと政池仁は推測している。
■ 最初から淫行の女と知っていて結婚したのか?
→ 内村鑑三は、最初から淫行の女と知ってめとったわけではなく、ゴメルを妻としたことが、後から振り返れば、神の御旨だったとホセアがわかったものだとしている。(内村は、人生の不幸の最たるものは結婚のやり損ないであり、生涯の破滅となる場合もあるとしたうえで、「人生のすべての実験は神を識(し)るために必要である」と述べている。)
4節:イズレエル:「神が種を蒔く」という意味。
・列王記下9~10章、イエフによるアハブの王家に対する流血革命が行われた地。
・イエフはヨラム王を殺害、アハブの后イザベルや、アハブの子ども七十人やアハブに仕える者たちを皆殺しにした。また、バアルの祭司たちを呼び集めて皆殺しにした。
→ 自分の子どもにヒロシマやアウシュビッツと名づけるようなもの?(リンバーグ)
・列王記ではこの流血革命を肯定的に語る(エリシャによるイエフへの油そそぎ)が、ホセア書では一世紀ほど前のこの出来事をはっきり罪として描いている。(もっとも列王記でもイエフ王家は四代に限ると預言されている。)
・ホセアの良心は、エリシャの言葉すら疑った。王家をも恐れず告発した。
左:イズレエルの写真 中央・右:イザベルの死とイエフによるその遺体の確認(ドレ画)
ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)⇔ルハマ 非愛子⇔愛子
ロ・アンミ(わが民でない者)⇔アンミ 非民男⇔民男
※ 姦淫の結果、イスラエルの辿る運命の預言
第一子:王家の滅亡 (ゼカルヤがシャルムに殺され、エヒウ王家は滅亡。)
第二子:主から捨てられること
第三子:選民ではなくなること
→ このような運命をわがこととして受けとめること。始終、見つめること。預言者の家庭はそれ自体、啓示の場。
◇ 2章1~3節 イスラエルの回復: すぐに救済の預言が述べられる。
海の砂のように数が増える。(創世記32:13、祝福の証)
人びとは、「生ける神の子ら」、アンミ(わが民、民男)、ルハマ(憐れまれる者、愛子)と呼ばれる。 南北分断は統一されて一人の頭が立てられる。 → 同時代においては、ホセアが南北の統一を心から願っていた証ともとれる。
※ ⇒ パウロ、ロマ書9:26でこの箇所を引用。異邦人がキリストへの信仰によって義とされることの預言としている。
(「その地から上って来る」=陰府から生まれる、復活という解釈もある。)
→ 赦し、救済、回復の預言 = ホセア書の通奏低音
→ ホセア書では、この後も、警告と救いの預言が螺旋状に繰り返される。
◆ 2章4~15節 イスラエルの背信: 厳しい言葉の根底にあるのは愛。
4節:「母を告発せよ」: 「母」=イスラエル、国家。国家の間違っている様子をホセアは勇気をもって告発し、弾劾している。
「顔から淫行を、乳房の間から姦淫を取り除かせよ」→ 神殿娼婦は額や乳房にバアルの像や飾りを付けていた。あるいは、娼婦が人の注意を引くための装飾品。
・神が与えてくれた恵みを、他の神ではないものが与えてくれたと勘違いし、的外れなやり方で豊かさを求める倒錯した様子が描かれる。イスラエルは、神ではないものを神として倒錯している。その倒錯を、ホセアを通して、神は厳しく指摘し、叱る。
しかし、言葉は厳しいが、その根底にあるのは、愛。
→道がふさがれ、貧しくなり、飢え渇くのは、神に立ち帰らせるため。 (8、9節)
13節:ヤハウェの宗教とバアル宗教が混交している様子。ホセアは混淆宗教を許容しない。
⇒ ヤハウェこそ力と愛の源泉。ヤハウェが豊饒の主。バアルではないことをホセアは明らかにし、ヤハウェとバアル(偽り、似非)を峻別する。
15節:バアル→単数形ではなく複数形 「諸々のバアル」(岩波訳)
→ 何か特定の民俗宗教というよりも、神ではないものを神と勘違いし、神を忘れて過ごした罪の日々について、ここでは告発されている。(↓ バアルの神殿とバアルの偶像)
◆ 2章16~25節 イスラエルの救いの日(愛による和解)
16節:荒野 → 出エジプトの時のように、最初の出発点に立ち帰ること。
17節:アコルの谷
アコル=苦痛、苦悩という意味。
かつて、ヨシュアがカナンに進む際、アカンは主の命令に従わず征服した土地の財物を着服し、その罪のためにアコルの地で処刑された。カナン入国の入口に当たる地形のため、希望の門という意味でホセア書が用いたという説もある(フランシスコ訳脚注)。しかし、ホセアは、原語の意味を踏まえ、背信によって受けた罰と恥という苦悩のゆえに、シナイの荒野のように最初の出発点に立ち帰って神の言葉に耳を傾けるようになった、そのことこそが希望の門であると述べていると解すべきと思われる。
※政池仁:「私の知る限りに於て不幸が動機となつて神を知り信仰に入った者は沢山あるが、人生の幸福を得て、それが機縁となって真の神を知った者は一人もない。」(36頁)
アコル(苦悩)の谷=希望の門
・「そこで、彼女はわたしにこたえる。」(新共同訳)⇒ 「こたえる」の箇所、文語訳では「歌うたはん」。多数の英訳でも”sing”、エスペラント語訳でも”kantos”. 原語のヘブライ語” anah”(עָנָה) は、「歌う、叫ぶ、証言する、言明する」という意味。
18節:神と冷たい主従の関係ではなく、暖かな夫婦の関係。→ イエス、パウロ。
19節:真の神に立ち帰り、ヤハウェのみを神と知ること。倒錯の払拭。
20節:自然との和解。武器の放棄と平和。
21~22節:神との永遠の契約。新たな契約。新たな婚姻関係。
「契りを結ぶ」→「娶ろう」(関根訳、岩波訳)
「慈しみ」=「ヘセッド」(חָ֫סֶד checed):契約によって生じた絆、変わらぬ誠実な愛、相手の一時的な気まぐれによって挫けることのない熱心さ。
「主を知る」:「人の生き方を左右する知識、すなわち主の意志を認め、その掟に従うことを意味する。」(フランシスコ訳脚注)
・23~25節:神との応答関係の樹立。
25節「彼女」→「彼」(岩波訳、マソラ本文校訂) 23節「天は」=「彼らは」(原文)
→ 神は教会(集会)に答え、教会(集会)は人々に答え、人々は御言葉に答え、それらすべてがキリストに答える。キリストの御言葉が地に広まり、異邦人に広がる、の意味か?単に天地自然と人間と神とが和解し、正しい関係に入るともとれる。
なお、この25節の「アンミ」「ルハマの箇所は、パウロがロマ書9章25節で引用。
◆ 3章1~5節 神の愛による回復: 神が無条件にイスラエルを愛するように、再度裏切ったゴメルを愛するホセア
・1節:「主は、再び、わたしに言われた」(新共同訳)
→「そこでヤハウェは私に言った、「もう一度、行って他の男に愛され、姦淫を行う女を愛せよ」」(岩波訳)
もう一度、の意味の言葉を、「言う」にかけるか「行く」にかけるか。意味が若干変わる。
後者の場合、一度戻ってきたゴメルが、もう一度裏切ったことと、その再び裏切っているゴメルのもとに、再度ホセアが行くこととも解釈できる。
→イスラエルの人々が他の神々を愛しているにもかかわらず、それでもヤハウェがイスラエルの人々を愛している。それと同じように、そうであればこそ、ゴメルが他の男たちを愛し裏切っても、ホセアはゴメルを愛する。
→神の愛を知ればこそ、人を赦し、神の愛をもって人を愛することができる。
当時の奴隷一人分の価格に相当する金額(出エジプト21:32)
「その女」(岩波訳「彼女」) ゴメルと名前が記されているわけではない。
ゴメルのこととも解釈できる。再び神を見失い間違った方向にまよいこんだイスラエルを、購うことの象徴的預言ともとれる。
・もともと自分の妻であり、なんら代価を支払う必要のない、ゴメル(女)を救い出すために、わざわざ奴隷一人分の代価を支払い、購入して、自由にする。⇒ 贖い
→ 罪の贖いとしてのキリストの十字架
4節、5節:長い間、神殿も国もないこと。その後に、神に近づくことの預言。
エフォド、テラフィム=一種の偶像
バビロン捕囚とその間に神に立ち帰ることの預言?
あるいは、イスラエルの滅亡とディアスポラ、その後の帰還、イスラエル建国の預言?
あるいは、「終りの日」つまりキリスト後の今の時代において、選民として選ばれた人々が神を求め、神に近づくことの預言?
■ 第一部全体を通しての学び
① イスラエルの人びとの背信にもかかわらず、誠実な変わらぬ愛をそそぐ神の姿を、ゴメルによる苦悩を通じて、ホセアが知ったこと。おそらくそのイスラエルに自分が含まれていることも痛切に思い知ったこと。
② その神の誠実な愛を知ればこそ、ホセアもまたゴメルの再度の裏切りにもかかわらず、ゴメルを赦し、ゴメルを苦境から救いだし、誠実な愛を貫くことができたこと。
③ 壮大な救済の預言。イスラエル、および異邦人を含めた人類全体について。
④ 人生におけるさまざまな苦しみや行き詰まりや魂の飢え渇きは、ヤハウェがその人に対し真の神に立ち帰らせるために与える「茨」や「石垣」であること。
■「第二部の概要」:第二部では、イスラエルの罪が告発され、審判が予告される。繰り返し警告されるにもかかわらず、神に立ち帰らないイスラエルに対する嘆きが記される。神から離れているため、イスラエルの生命力が衰退し、少子化と人口減少が進むことが指摘される。
形式的な儀式よりも神に対する誠実な愛こそが重要であると説かれる。(6章6節)
神はイスラエルの苦しみを見て、「憐れみに胸を焼かれ」、一方的にイスラエルを赦し、救うことを宣言する。(11章8、9節)
そして、そのために、一方的に死から救いだし、購うことを宣言する。(11章14節、特に関根訳参照)。だが、サマリアの壊滅も予告される。(14章1節)
関根訳における第二部の見出し:
イスラエルの罪、淫行の霊、間違った祭儀、シリヤ・エフライム戦争、罪の歴史、王国の罪、北王国と諸外国、イスラエルの不信、契約の破棄、喜びの終わり、罪の歴史、罪と処罰、戦い、愛なる神、いつわり、罪と救い。
◆ 4章1~3節:
誠実さ(エメット)、慈しみ(ヘセッド)、神を知ること(ダアット) (cf. 信仰、愛、希望)
この三つの欠如 → 呪い、欺き、殺人、盗み、姦淫、流血
→ その結果:自然界の衰退、生命の衰退
※ 誠実さは文明や社会の根底、慈しみ(愛情)は誠実さの半面、誠実と慈しみ(愛情)の根底は「神を知ること」
ヘーゲル「一国の運命はその民の神に関する知識によって定まる。」
政池仁「神は誠実と愛情の源泉である。」
4章7~10節: 神を知る知識をおろそかにし、民が罪を犯すことをかえって喜び望むような祭司 → アモス書に出てくる祭司アマツヤ?
→ 特定の人物に限らず、宗教や政治や法律を、人を助けるために誠実に取り組むのではなく、食い物にしている聖職者や政治家や法律家に対する警告と考えられる。
4章14節:
娘や嫁の姦淫はとがめない。親のせい。→ 若者を責めるのではなく、社会の大人の責任。
4章16節:「強情な牝牛」=「かたくなな雌牛のようにかたくなだ」(新改訳)
→ 「しかし、今、主は、彼らを広い所にいる子羊のように養う。」(新改訳)
5章4節:悪行のゆえに神に帰ることができない。淫行の霊。→ 救済の不可能性、絶望性。
5章5節:しかし、救われないのは「高慢」が理由である。
5章15節:罪を認め、神を求めるようになるまで、神は姿を隠す。
◆ 6章1~3節、4~6節:
とても美しい箇所。新共同訳は「偽りの悔い改め」としているが、必ずしもそうとばかりは言えないと思われる。
2節の「三日目に、立ち上がらせてくださる」は、キリストの三日後の復活を預言していると二世紀頃のテルトゥリアヌスは解釈し、ルターもその解釈を継承(岩波訳脚注)。
ただし、4節から6節で、この箇所を打ち消し、朝の霧や露のように儚い神への愛は裁かれることが述べられている。
これは、1~3節の内容そのものが問題というより、復活などの神学的な事柄を、ただ単に知的な信条として受けとめれば救われると考える、形式的な字面の知識やそれに胡坐をかくことを問題にしていると思われる。
◇ 6章6節:
「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。」
→ 原文冒頭には「キー=~からである」。愛=ヘセッド、神を知ること=ダアット。
→ キリストが二回引用。(マタイ9:13、同12:7)
→ 表面的な儀式や儀礼ではなく、内面的な神への愛と認識理解こそが重要であるという、内面性重視の宣言。神の御心を知ることが愛の湧き上がる源泉。「愛」と「知」。
→ 宗教改革の源流・源泉。ホセア→エレミヤ→イエス→ルター→内村鑑三→…
◇ 6章7節:「アダムで」→原文「アダムのように契約を破り」(岩波訳脚注参照)
通例、地名のアダムとして受け取られている。しかし、アダムが地名であるとしても、そこで何の契約違反が行われたかは全く不明(フランシスコ訳脚注)。
→ ここは、原文どおり、「アダムのように契約を破り」、つまり、失楽園以来、アダムが神の命令に背いたのと同じように、人間が神から背くことを繰り返してきた、原罪のことが指摘されているととるべきと思われる。(新改訳も「アダムのように」としている。)
7章16節:「ねじれた弓」 罪=ハマルティア=的外れ (新改訳「たるんだ弓」)
8章9節:「野ろば」 (エレミヤ2:24 「荒れ野に慣れた雌ろば」) さまよう。
◇ 8章12節:
「わたしが多くの教えを書いて与えても、彼らには縁のないものと思われた。」(岩波訳)
「教え」=トーラー 「縁のないもの」=原語は「よそ者」(岩波訳脚注)
「御言葉」を「よそ者」「無縁なもの」としてしまうこと。→ 罪、滅亡。
8章14節:「造り主を忘れた」
9章10節:
「荒野にあるブドウのように、かつてわたしはイスラエルを見いだした。いちじくの木の初なりの実のように、わたしはあなたがたの先祖たちを見たのだ。」(岩波訳)
→ 9章11~14節 少子化、人口減少
10章1節:「イスラエルは伸びほうだいのぶどうの木」(新共同訳)
偽りの実をつけ、公義も毒草のように繁る。
※ きちんと剪定されたぶどうの木(ヨハネ15章)と対照的。
→ 10章8節:滅ぼされ、茨とあざみが生い茂る。
◇ 10章11~13節: ⇒新約Ⅱコリ9:10もおそらく影響、引用。
「君たちは義によって種をまき/憐れみに従ってかりとり/知識の新地をひらき/ヤハウェを求めよ。彼はついに来り/君たちに義を雨のように降らせてくださる。」(関根訳)
ヤハウェと人との共同作業・耕作。しかし、人が自分の力を頼みとし、悪を行ったため、この麗しい共同作業が壊れてしまった。
◇ 11章1~4節:「慈悲の紐や愛の絆で、わたしは彼らを導いた。わたしは彼らに対しては、赤子を抱え上げて頬ずりする者のようであった。わたしは身をかがめて彼に食べさせた。」(フランシスコ訳)
→ 幼子に歩くことを教えるたとえ。実感がこもっているので、ここから、ホセアは妻・ゴメルからだけでなく、子どもからまで背かれ裏切られたとする推測もある。(リンバーグ)
・「人間の綱、愛のきずな」=子に対する父としての神の愛。また、人間にわかるように、具体的に人間を通して(預言者を通して)、人間の言葉で神の御心や愛が伝えられてきたことと思われる。
◆ 11章8~9節:
アドマとツェボイム:ソドムとゴモラと共に滅ぼされて廃墟となった町(申命記29:22)
「エフライムよ、わたしはどうして/君を棄てることが出来よう。/イスラエルよ、どうして/君をわたすことが出来よう。/どうして君をアダマのように棄て/ゼボイムのように滅ぼすことが出来よう。/わが心はわがうちで向(むき)を変え/わが憐れみは一時に燃え上った。/わたしはわが怒りによって事を行わない。わたしはエフライムを滅ぼして元に戻すことをしない。/何故ならわたしは神で、人ではなく/君の只中にいる聖なる者だから。滅ぼすために臨むことはない。」(関根訳)
→ 神の一方的な方向転換の宣言。怒りの放棄、滅ぼさないこと、人の苦しみに共に悶え苦しむ神の心。
→ 11章11節 ディアスポラからの帰還の預言。救済の預言。
12章7節:「それ故君の神に帰り/愛と義しきをまもり/常に君の神を待ち望め。」(関根訳)
◆ 13章12~14節:関根訳が最も意味がわかりやすくて明晰(文語訳も同様の解釈):
「エフライムの咎はたばねられ/その罪はつかねらる。/子を生む者の苦しみが彼を襲う。/彼は愚かな子、/その時になってもまだ産門に達しない。/陰府(よみ)の手からわたしは彼らを贖い出そう。/彼らを死より解き放そう。/死よ、お前の棘はいずこにある。/陰府よ、お前の刺(はり)はいずこにある、/悔い改めは隠れてわが眼にみえないが。」(関根訳) パウロは、この箇所を第一コリント15:55で引用。復活のいのちが死に勝利。
→ 死・罪から、神の側の働きによって、人々を贖い出すことを、神が宣言している。
→ 13章15節、14章1節 水源が渇き、泉が枯れ、ヤハウェの風が吹き、サマリヤは罪を償わねばならぬこと、その滅亡が告げられる。 → 第三部の救済へ
■「第二部のまとめ」:イスラエルの罪とそれに対する神の嘆きと裁きが繰り返し書かれるのと同時に、神の深い愛が述べられる。螺旋状に交互に審判と救済の預言が繰り返されるが、その基層低音はあくまで愛であり、最終的には、人間の側からの救いの不可能性・絶望性が記され、その理由から神の側の一方的な贖いと救いが宣言される。
Ⅳ、 第三部 神との関係の回復と全き救済・祝福(14章2-10節)
■「第三部の概要」:「立ち帰り」と神による救いと祝福が述べられ、ホセア書の最終的な結末となっている。非常に美しい象徴的な希望に満ちた聖句が印象的。
3節:「誓いの言葉を携え」(新共同訳)→ ただ単に「言葉」を携えて(フランシスコ訳、関根訳、岩波訳)
「すべての悪を取り去り/恵みをお与えください。」(新共同訳)→ 「あなたは咎を赦し給う。/その度に言葉を受け入れられる。」(関根訳)(「悪」=「不正」(フランシスコ訳))
「この唇をもって誓ったことを果たします」(新共同訳)→
※ 「唇の実」を「ささげる」(フランシスコ訳、関根訳、岩波訳)
→ 「唇の実」は、誓いというよりも、「苦難の末に主へ立ち帰ったことを告白する誠実な言葉」といった意味?実のある言葉=誠実な言葉。人格的関係の回復は儀式ではなく言葉。
(「果実」の箇所「牛(パーリーム)の如く」(原文、文語訳)、七十人訳=果実(ペリー)
→ 「ささげる」に相当する原文の動詞shalam(שָׁלַם)は、「回復する、完成する、償う、果たす」などの意味(岩波訳脚注)。
唇の実(神に対する正しい言葉・生き方)を回復し、果たし、完成するといった意味かと思われる。⇒新約・ヘブル13:15にも「唇の実」は引用。
4節:外国を含めた世俗的な力をもはや頼りとせず、戦争を放棄し、神ならぬ人がつくったものを二度と神としない。本当の親はヤハウェであると知る。
→ 捕囚後のイスラエルは、のちにヘロデ王家の時代にローマを頼りとしてしまった。二十世紀の建国後のイスラエルは、軍事大国化した。これらの理想を実現せず。
→ 敗戦直後の日本:戦争放棄と天皇を現人神とする偶像崇拝の放棄。アメリカやソビエトを含めた外国の力を頼りとしない自主独立・中立を目指す人々もいた。矢内原忠雄のように神への立ち帰りを主張する人もいた。しかし、今の日本に、この「言葉」や「唇の実」はあるのか?
5節: 「背きを医(いや)す」「心から彼らを愛する」(関根訳)
・神の怒りは離れ去る。
→ 背きの癒しと、神の愛の回復と、神の怒りの消滅。
→ これらはただ単に、神に「立ち帰って」、悪(不正)を取り去り恵みを与えてくれるように願い、戦争を放棄し、偶像崇拝を捨てることだけで実現する。
6節:露:砂漠地帯では、露が水分補給の重要な役割を果たす。布を外に干しておくと、露がしみこんで、それを絞ると水分が補給できる。そのように、優しく、イスラエルを潤してくれる、との意味のたとえ。 (イザヤ26:19 では、露は死者をよみがえらせる聖霊)
・彼は「ゆりのように花咲き」(新共同訳)→ 「百合のように芽を出させる」(岩波訳)
ヘブライ語:ショシャナ(おそらくユリ)
7節:
若枝は繁り → 主の教えを愛する人は、流れのほとりに植えられた木。繁栄。(詩編1:3)
・レバノンの杉の香り:さわやかな良い香りがするとのこと。
・オリーブ:「わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。」(詩編52:10)
8節:「その陰に宿る人」 →「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ/全能の神の陰に宿る人よ」(詩編第九十一編)
「麦のように育ち」
→ 中沢啓介『はだしのゲン』ゲンの父のセリフ:
「麦はのう、麦は、寒い厳しい冬に芽を出して、何回も踏まれ、それでも大地にがっしりと根を張り、霜や風雪がおそいかかってきても、負けんで真っすぐ伸び、立派な穂を実らせる。おまえたちも麦のように逞しくなれ。」
ぶどうの花・実
9節:
「私は答え、彼を見守る。」(岩波訳)→「わたしは彼をへり下らせた。そしてわたしは彼を強くする」(岩波訳脚注、七十人訳)
命に満ちた糸杉: 命に満ちた=raanan(רַעֲנָן)=green, luxuriant, fresh 青々とした、繁茂
ゴッホは、糸杉の木をいのちの象徴、いのちの木として描いた。糸杉は、伝説ではキリストの十字架の木材として使われた。 糸杉=berosh(בְּרוֹשׁ)、英訳cypress モミの木、松
命に満ちた糸杉=命の木(?) (創世記2:9、3:24、黙示録2:7、黙示録22:2,14,19)
創世記~黙示録 十字架のキリスト ヨハネ15章・ぶどうの木
アダム以来神から離れてきた(ホセア書6章7節)人類が、キリストの十字架(命に満ちた糸杉)につながり、神との関係を回復する。
命の木につながることで、人は本当に良い実を結ぶことができる。
10節:結句
このホセア書の内容を理解し、神に立ち帰って生きることが知恵である。しかし、多くの人はこの道を見失い、つまずく。(狭き門 マタイ7:13-14、ルカ13:24)
Ⅴ、おわりに
◇ ホセア書の聖書全体の中での重要性
1、アダム以来の人間の背きと最終的な神の愛による救済を描いた、いわば創世記から黙示録までの、旧新約聖書全体を通じた内容の要約であること。
2、エレミヤ書に預言される「二つの契約」(エレミヤ31章)が、すでにホセア書で預言され、古い契約の破棄と新しい契約の預言が記されている。「贖い」についても言及。
3、神と人との関係を、契約という法律的な言葉で形式的に語るのではなく、結婚関係として相互の愛の問題としてとらえている。儀式よりも愛が大切であることが明言されている(→ エレミヤ、エゼキエル、雅歌、イエス)。旧約と新約をつなぐ内容。
4、しかもそれらが、妻・ゴメルによる苦悩という実体験を通じた生々しいものであること。家庭生活や実人生の体験を通じて神の御心を理解する道が鮮明に示されている。
※ ホセア書の後世への影響、またホセア書から受け継ぐべきこと:
預言者の中でも特にエレミヤに対し、ホセアは大きな影響を与えたことが近年の研究では指摘されている。二つの契約や神と人との関係を愛情の問題として語ること、さまざまな表現やテーマにおいて共通性が存在している。ホセアとエレミヤの間には、百二十年ほど活動期間の違いがあり、場所も北イスラエル王国と南ユダ王国で異なっているが、考古学上、南ユダ王国の人口が北イスラエル王国滅亡後に急に増えていることが裏付けられており、そのことから大量の亡命者が北イスラエル王国滅亡後、南ユダに流入したと考えられる。おそらくそれらの人々によりホセアの預言が伝えられ、エレミヤもテキストとしてのホセア書や口伝を通じて、ホセアの影響を強く受けたと推測される。
※ イエスやパウロもホセア書を引用。
・宗教改革の源流:ホセア→エレミヤ→イエス→ルター→内村鑑三→・・・
(ホセア=無教会主義の源流)
・軍国主義批判、平和主義の源流:ホセア→ミカ→第二イザヤ→イエス→内村鑑三→…
■ ホセア書から学んだこと
・神からこの自分が購われ、赦され、愛されていることを思えば、自分も人を愛し、なるべく寛容に生きること。
・儀式や表面的な教義の知識や形式ではなく、生ける神との交わり、誠実な愛の絆こそが大切ということ。
・歴史の罪は消えるものではなく、何世紀経っても清算されない限り残っていくことと、ホセアのようにきちんとそのことを告げること、しっかりした克服が必要ということ。
・神に救われることは難しいことではなく、ただ神に立ち帰り、誠実な愛をささげれば良いということ。(神に「立ち帰る」(return) 、シューヴ(שׁוּב)、ホセア14:1、14:2)
・ゴメルとは他人のことではなく、罪人の自分自身であること。
「ゴメルとは 人のことかと思ひきや われのこととぞ 思ひ知らさる」
・神はさまざまな手段を通じて、アコル(苦難)の谷(=希望の門)をくぐらせ、再び神との関係を回復させ、いのちに満ちた糸杉(=十字架)に私をつないでくださったこと。
※ 「ホセア書 第六章六節」 (マタイ9:13、12:7):イエスの口ぐせ?
kî ḥe·seḏ ḥā·p̄aṣ·tî wə·lō- zā·ḇaḥ; wə·ḏa·‘aṯ ’ĕ·lō·hîm mê·‘ō·lō·wṯ.
׃מֵעֹלֹֽות אֱלֹהִ֖ים וְדַ֥עַת וְלֹא־זָ֑בַח חָפַ֖צְתִּי חֶ֥סֶד כִּ֛י
キー・ヘセッド・ハパースティ・ヴェロー・ザーバフ、ヴェダアット・エロヒーム・メオローウット
キー=なぜならば |ヘセッド=愛(誠実な愛)|ハパースティ=私が欲するのは|
ヴェロー=そして、~ではない |ザーバフ=犠牲| ヴェダアット=そして~知識|
エロヒーム=神の| メオローウット=燔祭(焼き尽くす捧げもの)よりも|
「なぜならば、私が欲するのは、愛であって犠牲ではなく、
燔祭よりも神についての知識だからである。」
「参考文献」
聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、文語訳、口語訳、新改訳、英訳(主にNIV)、エスペラント語訳(La Sankta Biblio)
ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/)
内村鑑三「何西阿書の研究」、『聖書之研究第三十一巻』聖書之研究復刻版刊行会、1972年
政池仁『アモス書・ホセア書講義』聖書の日本社、1970年
矢内原忠雄「ホセア書研究」、『矢内原忠雄全集 第13巻』岩波書店、1964年
アラン・ハバード著、千代崎備道訳『ティンデル聖書注解 ホセア書』いのちのことば社、2010年
J.リンバーグ著、有沢僚悦訳『ホセア書・ミカ書』日本基督教団出版局、1992年
『ATD旧約聖書註解25巻 十二小預言書上 ホセア・ミカ』ATD・NTD聖書註解刊行会、1982年
江本真理「ホセア書とエレミヤ書の関連に関する研究史の概観」、小友聡ほか編『テレビンの木陰で』所収、教文館、2002年