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ヨナ書を読む 資料

『「ヨナ書」を読む』 資料   

 

Ⅰ、ヨナ書の背景      

ヨナ書:十二小預言書のひとつ。特徴は物語であること。知恵文学にも分類される。

・ヨナとは誰か?:「アミタイの子ヨナ」

   

(ヨナについての絵画  左・中央:ドレ 右:ミケランジェロ

 

「ガト・ヘフェル出身の僕、アミタイの子、預言者ヨナ」(列王記下14:25 

ヤロブアム二世の時代の人。ヤロブアム二世がイスラエルの領域をレボ・ハマトからアラバの海まで回復することを預言。ヤロブアム二世はイスラエルで最も統治期間が長く(四十一年間)、繁栄もしたが、社会的不正も著しかった時代。アモスやホセアと同時代。

※ヤロブアム二世:エヒウ王朝三代目の王。B.C.786頃即位。41年間在位。偶像崇拝を行ったためアモスから糾弾されたが、そのためにアモスを罰することはなかったと推測されている。(アモス7:10-17)

ガト・ヘフェルは、ナザレから4km離れた場所。

 

推定執筆年代:物語は前8世紀の時代の話。ヨナ書の成立年代は、従来の通説では捕囚後、前5世紀以後と一般的には言われている(用語にアラム語が混じっていると考えられることから)。前3世紀頃、民族的・排他的な考えに対する訂正として世に出たとも推測されている(※)。前2世紀の作品・旧約聖書続編(第二正典)の「シラ書」に十二人の小預言者の言及があるので、この時期にまでは遅くとも成立。

「12人の預言者の骨が、その墓から再び花を咲かせるように。彼らはヤコブの民を慰め、希望にあふれた信仰をもって救ったのだから。」(シラ書49:10)

※前4~2世紀、ヘレニズム時代(アレクサンドロス~プトレイマオス朝~セレウコス朝

 

ただし、ヨナ書は、前8世紀の情勢を実は正確に反映しており、言語もアラム語ではなくフェニキア方言の影響だと考えれば、原型は前8世紀に遡ると考える近年の研究もある。ヤロブアム二世と同時期のアッシリアはちょうど一時的な衰退期にあり、王権が弱体化し軍司令官のシャムシ・イルが実権を握っていた。したがって、王と大臣が連名で布告を出したというヨナ書の中の記述は、その当時の情勢を正確に現している。前765年と前759年には飢饉が、前763年6月15日は皆既日食があったことが当時の記録からわかっており、世情の不安は深刻だったかもしれない。ヨナ書に描写されるニネベの町の規模が発掘されている規模に比べて大きすぎるという意見もあるが、ニネベ近郊の町を含めて考えればおおむね正確な記述という説もある(ヨナ書には、ニネベの人口は十二万と書かれている)。

 

アッシリア:紀元前1950年頃から、今のイラクの一地方から勃興した国家。特に新アッシリア時代(前934~前609年)には全オリエント世界を支配する初の帝国を樹立。メソポタミア・エジプトを支配し、北イスラエル王国を滅ぼし、南ユダ王国を圧迫した。

 

左・アッシリア帝国の最大版図    右・アッシリアの都の復元図

 

 

Ⅱ、ヨナ書の構成:

 

第一章 「ヨナの逃亡」:神の言葉への不従順、逃亡~海に投げ込まれる

第二章 「ヨナの救助」:魚の腹に呑みこまれる、ヨナの祈り、陸に吐き出される

第三章 「ニネベの悔い改め」:ニネベへの警告、ニネベの悔い改め、神のニネベへの赦し

第四章 「結論」:ヨナの不満、「とうごま」の木の成長と枯死、神の普遍的な慈愛の表明

 

非常に短い文章(新共同訳だと1445~1448頁のわずか四ページ分)

にもかかわらず、多様な錯綜したテーマ。

1、神からの逃亡、神から逃げることができないこと(摂取・救済)。

2、ユダヤ民族に限定されない神の普遍的な愛の表明。普遍主義と排他主義の対立。

3、預言(キリストの死と復活)。

4、決定論への批判、預言を受けた人による警告とそれを受けた側の受け入れによる運命の変化。

5、人間の思いはからいを超えた神のはからいの絶対性と慈愛。などなど。

 

※ パロディかシリアスか?

→ 列王記に登場するアミタイの子・ヨナを戯画化?二章の詩は詩篇のパロディ?ナホム書などに見られるアッシリアへの呪い・敵意を戯画化? 

→ ヘブライ語原文には、かなり言葉遊びの要素もある。(マゴネット先生によれば)

→ 人の思惑を超えた神のおおらかさ。信仰に至る、また信仰に至った後の道のりが、真摯に語られた物語・詩。価値の転換。

 

 

Ⅲ、第一章について 神からの逃亡

 

タルシシュ:スペイン南西部説が有力。他にも、地中海東部の小アジアにあるタルソ、あるいはキプロス島やロドス島を指すという説や、海そのものを指すという説もある。

ヨッファ:現在のテルアビブ市の中のヤッファ地区。

 

・「主から逃れようとして」(1章3節)→「ヤハウェの前を避けて」(関根訳)

→「エホバの面(かほ)を避けて」(文語訳) (cf.丸谷才一エホバの顔を避けて』)

 

※ヨナはなぜ神から逃げたのか?

① 使命の重さに躊躇し、怖れをなしたから。(内村鑑三説)

② アッシリアは敵国であり、イスラエルを将来滅亡させると予見していたため。

③ 人間は神から逃げる傾向があるため。(原罪との関連)

 

・「ぐっすりと寝込んでいた。」(1章5節) 霊的に鈍感になってしまっている。

・船長の言葉:異邦人にもかかわらずあたかも神がその人を通じて語っているような響き。

・「あなたは何の仕事で行くのか?」(1章8節)→ヨナは答えることができず、答えず。

→ 本当は神の仕事や義務を務めるべきだった。 

 

・しかし、ヨナは自己犠牲的精神を発揮。→ 船員たちに海に投げ込んでもらったのは、自殺がユダヤ教では禁じられているから?

・ヨナは、自分の責任だとしっかり認識し責任を負い、自己犠牲的に海に投げられた。

 

 

Ⅳ、第二章 「海」と「魚」とは何か?

 

ヨナを呑みこんだ魚:①クジラ説=実は喉が小さ過ぎて人を呑みこめない。

②サメの大きい種類説=無傷の上に三日の間消化しなかったということは考えにくい。

何か未発見の大きな魚か?あるいは何かを象徴的に表していると考えるべき?

   

・象徴的に理解した場合 → 二章でヨナが述べる詩の部分に、魚が全然登場しないことが理解可能。

この詩に魚やその状況が述べられないために、二章における詩は後世の追加と考える説がある。しかし、魚が象徴的なものだと考えれば、二章の詩は後世の追加ではなく、整合的な内容だと考えられる。

 

※魚は何を象徴しているのか?

→ ヨナよりもずっと後の時代、ローマ帝国時代には魚がキリスト教のシンボル。

(イクトゥス(魚)、ΙΧΘΥΣ) (写真は大刀洗町のハタモン場)

 

→ 人は通常、特に日本においては顕著であるが、よほどなことがない限り、神を求めることはないし、信仰を持つには至らず、聖書を読むようになることはない。

ヨナ書にあるように、海の中に深く沈むほど、人生の苦しみや悩みの淵に沈むことがないと、神に真剣に祈ることはないのではないか?

逆に言えば、人は海の深みに沈むような体験をすることによって、神に立ち帰り、真剣に神に祈ることになる。

その時、そのような「立ち帰り」に至る経緯は、不思議な運命の導きやはからいが働いていると言えると思われる。

「魚」とは、そのような苦難と導きを通じて現れる、神の「救済意志」とその働きの象徴ではないか?また、「海」とは、人生の苦しみの淵やどん底の思いや経験のことではないか?

 

詩編:130、142、18、22、120、86、88、65、42、69、30、142、77、143、65、50、116、3などが、ヨナ書の第二章の詩とそれぞれ似た文言があると指摘されている。(新改訳の脚注) 哀歌などの文言にも似たものがある。

→ ヨナ書の第二章の詩を、こうした詩編の言葉を仰々しく寄せ集めたパロディという説があるが、極めて真摯な詩であり、そのようには考えにくいと思われる。

 

・「わたしが息も絶え絶えに、主に祈ると(※)、/ 私の祈りはあなたのもとに届き、/  あなたの聖なる神殿に至りました。」(2章8節、フランシスコ訳)

→「主に祈ると」の箇所の直訳は「主を思い出した」。主は思い出すと、ただちに応じてくださる。

 

・「偽りの空しいものに心を寄せる人は / おのれの真の恵みをすてる。」(2章9節、関根訳)

新共同訳は「忠節を捨て去ろうとも」。 → 内省的にとるならば、関根訳が妥当か。

 

・「いけにえ」(2章10節) → 神殿への供物というより、自分自身が神に奉仕の生き方をすること=「(自己)犠牲」的な生き方?

 

※ 第二章の詩=苦難を通じた神への立ち帰りと、神の即応。 

→ 場所・時を選ばない神との人格的な交わり・応答関係。どこででも神に救いを求めることができ、どこにおいても神は祈りを聞き、答えてくださる。

 

 

Ⅴ、第三章 ニネベの悔い改めて

 

・「一日中歩き回って」(3章4節、新改訳) → ヨナは必死に警告・宣教?

 

・「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」(3章4節)

→ 「滅びる」の原語neh·pā·ḵeṯ (haphak)=「ひっくり返す」 (ある意味、成就)

 

・「王と大臣たちの名によって布告」(3章7節)→ 当時の政治情勢を正確に反映。

 

・「不法」(3章8節、新共同訳)→「暴虐」(新改訳)、英訳(NIV)”violence”(暴力)

 

・「神は彼らの行いを御覧になった、彼らがその悪い道から立ち帰ったのを。それで神は彼らに下そうと言われた災いを悔いて、それをとりやめにされた。」(3章10節)

→「立ち帰る」・「とりやめる」(「思い直す」)どちらも原語は同じ「シューヴ」。

 

・文中に書かれてはいないが、想像力を逞しくすれば、四十日の間に相当にいろんな出来事や、警告・宣教の困難や大変さや苦労があったと考えられる。(cf. 丸谷の小説)

 

 

Ⅵ、第四章 ヨナは何に怒ったのか?「トウゴマの木」とは何か?

 

「怒る」→落胆する、悲しむ、という訳の例。

 

※ ヨナは何に「怒った」(あるいは落胆・悲しんだ)のか?

① 自らの労苦が無駄になった、こんな労苦をする必要はなかったと思ったから。

② 自分が嘘つきになってしまったと考え、偽預言者の汚名を追い、人々の信用をなくしたと考えたから。(文中にはなし)

③ アッシリアがやがてイスラエルを滅ぼすと予見していたから。

④ 神が何もしないこと、神の裁きや義の不在に落胆した。

⑤ 神の存在への疑問、不在への不安や反発から。

⑥ 神の言葉が実現されないことへの落胆、怒り。(原語を「ひっくり返る」と理解すれば、ある意味、ニネベはヨナによって「ひっくり返った」のだが)。

 

・小屋を建て、なおもニネベを観察した意図。

→ 「四十日」の起点がわからなかったから?神の言葉は絶対に実現すると信じていたから?ニネベの滅亡を願っていたから?すぐに人々が堕落し、また神が怒ると考えたから?

→ いずれにしろ、ニネベの人々の救済やそのいのちへの慈しみからは程遠かった。

 

※ 「トウゴマ」の木とは何か?

ヘブライ語の原語「キカヨン」(Kikayon (קיקיון))は、聖書の中では他の箇所に登場せず、同時代の資料も存在しないため、正確な意味は不明。英訳聖書では、ただ単に「植物」(plant)と訳すものが多い。NIVは「ぶどう」(vine)と訳している。

  

(左・トウゴマ 右・植物の下のヨナ)

蔦の類の植物とも言われている。その場合、小屋の柱に巻きついて成長し、葉っぱが日陰をつくったと考えられる(ぶどうの場合も)。

① 「トウゴマ」と考えた場合:儚さの象徴。人間が快適な環境を頼みとすることと、それがいかに儚いか、また一本のトウゴマさえ惜しみながらニネベの滅亡を願うヨナと分け隔てない神の愛の対比を描いていることになる(一般的な受けとめ方)。

② 「ぶどう」と考えた場合:キリストの象徴と考えられる?

③ その他の植物。ひょうたん(瓢)。何かツル科の植物。

 

→ いずれの「植物」であったとして、それは何を象徴しているのか?あるいは、自分に引きつけて考えた場合、どう考えればいいのか?

A,快適な環境、金銭・衣食住に恵まれた状態。

B,誰か愛する人。(その人に先立たれた場合。)

 

→ トウゴマの木をヨナは「大いに喜んだ」が、神に感謝し、自らの生き方を見つめ、正そうとはしなかった。せっかくの恵みが「回心」につながっていなかった。

 

・「東風」→ エゼキエル19章12節、ホセア13章15節。神の怒り。

 

・太陽の暑さは、我々の想像を絶するもので、命の危険があり、意識も朦朧とするものだったと考えるべき? → 日頃、自分の人生を快適に支え、守ってくれているものの恵みに私たちはともすれば無頓着?

 

・「君が怒るのはよくないよ。」(4章4節、4章9節 関根訳) ← 友達のよう?

 

ヨナ書末尾:神が異邦人や動物たちをも愛していることを表明。

→ 「トウゴマの木」をもし誰か自分の身内や愛する人と受け取った場合、その人を惜しむほどの愛で、他の人々やすべての命をいとおしみ、愛するべきこと。

→ 神が、神のひとり子を世のために送り、犠牲とされたこと。

→ 旧約と新約をつなぐもの。選民のみでなく異邦人も含めた万民の救済、無差別の愛。

 

・「右も左もわきまえぬ」=善悪の判断がついていない人々。および、動物たちのいのちも、神は惜しみ、愛し、その滅びるのを望まれていない。慈しみ育もうとしている。

 

・ヨナ自身が死を望んでも、常に守り、生かし、ただ生きているだけで善く導こうとしている神の御手の働き。決して見捨てない、神のまなざし。→神は、ヨナの将来の可能性や、良いところをよく見て慈しんでいた?

 

※ もしヨナ書は、ヨナ自身が述べ伝えたもの、あるいは書いたものだとすれば、自分の若き日の不信や神からの逃走や自民族中心主義を、狭い愚かなものだったと観察しながら回想していたはず。 → 対話し、反省していく無限のプロセスとその中での内省と成長。

 

 

Ⅶ、おわりに 

 

※ 「ヨナのしるし」とは何か? マタイ12章39~41、16章4節、ルカ11章30節

→ 三日後の復活。義と愛を伝えるヨナの存在そのもの。洗礼。

→ ヨナがニネベにとって、キリストが人類にとって、最初の洗礼を受けた・「立ち帰った」、義と愛を伝える、初穂。

 

※ ヨナ書から学ぶこと

 

・どん底に落ち込んで、そこで真剣に神に祈るようになり、信仰に立ち帰ったとしても、一度に全ての問題が解決するわけではなく、神の御心にともすれば背く状態は続くこと。ゆえに、神と率直に対話し続け、神の意図を祈りの中で聞くこと。(cf.バルヨナ)

 

・神は分け隔てなく、人および動物を愛していること。人種・国境・宗教に関係ない愛。

 

・人間の悔い改めや行動の変化により、神の意思が変わり、運命が変わる場合もあること。

 

・「わかっている」つもりにならないこと。(神のはからいは人間の枠組みを超えている)

 

・「トウゴマの木」のような、ささやかな幸せに敏感に気づき、喜ぶだけでなく、感謝し、その根に水をやり続け、他の生命にも同様な愛や慈しみをそそぎ育み、謙虚に生きること。

 

・神の愛、いのちを生かそう生かそうとする働きに、立ち帰ること。

 

※ ヨナ書からの問い

・私たちは、今の日本という、異教のニネベにおいて、本当にヨナのように、神の義や愛を述べ伝えることができているのか? タルシシュに逃げてはいないか?

 

 

 

「参考文献」

聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、文語訳、口語訳、新改訳

土岐健治『ヨナのしるし 旧約聖書新約聖書を結ぶもの』一麦出版社、2015年

ベーカーほか著・清水武夫訳『ティンデル聖書注解 オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書』いのちのことば社、2006年

丸谷才一エホバの顔を避けて」、『丸谷才一全集 第一巻』文芸春秋、2013年