私にとっての無教会:無教会の二つの大きな意義

『私にとっての無教会:無教会の二つの大きな意義』  

 

 

 「はじめに」

 

 私は無教会の集会に参加するようになって、まだ三~四年である。信仰も人生経験も浅く、小半世紀あるいは半世紀以上聖書を学び続けてきた方の多いこの場で証をするなど、本当は任に堪えない者である。しかしながら、無教会に感謝の気持ちを伝えたいと思い、今回証をさせていただいた。

 

 

 「私にとっての無教会の意義 ① 聖書の学び」

 

 では、何に感謝しているかと言うと、まず無教会において聖書を深く学ぶことができたということである。「無教会=聖書を深く学ぶことができる場」、聖書を平信徒(layperson、特に専門家でもない普通の人)が深く学ぶことができるかけがえのない場に出会うことができた。そのことを神に感謝している。

日本において、そのような場は、内村鑑三によって切り開かれたと考える。奈良時代には、景教ネストリウス派キリスト教)が到来していたという説もある。しかし、一般民衆にはほとんど関係がなかった。戦国時代には、ザビエルによるキリスト教カトリック)の宣教が行われ、多くの庶民がキリスト教を知った。聖書の部分的な翻訳も行われていた(バレト写本など)。しかし、聖書の翻訳を多くの庶民が読むという状況にはまだ至らなかった。幕末・明治の開国以後、聖書の翻訳が行われ、多くの日本人が聖書を読むことができるようになった。ただし、今も昔も、必ずしも聖書を読むことを大切にしない教会や信者も多い。カトリックにおいては、公教要理(カテキズム)が重視され、ミサなどの儀式に重きが置かれている。また、本来はルターの聖書第一主義から起ったはずのプロテスタントも、ボランティアや組織運営でいそがしい所が多い。もちろん、人によっては深く聖書を学んでいる人が教会にもいることを否定しないが、内村鑑三がすでに指摘したとおり「日本のキリスト教徒の聖書知識の乏しさには驚くばかりだ。」(小舘美彦・小舘知子訳『ジャパン・クリスチャン・インテリジェンサー』燦葉出版社、二〇一七年、五三頁。)という現状は、今日もあまり変わっていない。

その中で、内村鑑三の無教会主義の画期的意義は、ひたすら聖書を深く味わい学ぶことに中心を置く場をつくったことにある。主日ごとに聖書本文に即した学びを重視する無教会の「説教より講話」というありかたは、そのことをよく表している。

 ただし、儀式や典礼や組織よりも御言葉を学ぶことを中心とするという無教会のあり方は、何も内村鑑三に始まったものではなく、初代教会にさかのぼる(参照:高橋三郎『新約聖書の世界』(教文館)一九九四年)。マタイ的理解においては聖餐式や教会という制度が重視されているが、ヨハネ的理解においては御言葉そのものに集うありかたがすでに明記されている。両者の併存が新約聖書であり、したがっていずれかを否定する必要はない。

しかし、教会の教義や儀式が人の救いの妨げになる場合には、塚本虎二の「教会の外に救いあり」という言葉が、本当に救いになる場合もある。それが私の場合だった。

 

 

「私にとっての無教会の意義 ② 個人的な体験・私の妹のこと」

 

十五年前、私が二十五歳の時に二つ年下の妹が、四年間の闘病の末に亡くなった。悪性リンパ腫という病気で、入退院をくりかえし、私から二回骨髄移植を行い、本人も家族も一丸となって病気が治ることを願っていたが、治らなかった。その時は、「神も仏もない」と思った。また、そうであればこそ、強く宗教的な救いを希求するようになった。いくつかの宗教を遍歴し(『季刊無教会』第四十八号にそのことは記させていただいた)、途中を割愛し結論だけ述べると、私はキリストを信じ、聖書を学ぶようになった。

しかし、そうなったらなったで、キリスト教の信仰を持たずに亡くなった私の妹は、死後に救われたのかという疑問が生じるようになった。若き日に矢内原忠雄内村鑑三に対して同様のことを質問したというエピソードがある。ノン・クリスチャンだった父親は死後に救われたのかと問う矢内原に対し、内村は自分にもわからないと答え、その疑問は時が来ればおのずとわかると答えた。これは、杓子定規に結論を出すことはできず、時間の経過の中で神と対話を積み重ねる中で解決が与えられると内村は言いたかったのだと思う。

 私も長くこの疑問を抱いていたが、今年の四月、同じ無教会の集会の方の勧めで『母 小林多喜二の母の物語』という映画を見て、氷解した。

 周知のとおり、小林多喜二特高警察の拷問によって非業の死を遂げた。戦後になり、何年も経っても、母のセキは多喜二の死を思うとはらわたの焼けるような思いがしていた。そんなある日、ある牧師が、セキに、マタイによる福音書の二十五章の四十節を引き、以下の内容のことを述べた。

エス様は、小さい者のために尽くした人は、イエス様のために尽くしたのと同じだと述べている。小林多喜二キリスト教徒ではなかったかもしれないが、本当に弱い人々や貧しい人々のために命をかけて尽くした。そのことはイエス様に本当に尽くしたのと同じだから間違いなく天国にいると思う…。

その映画の中のセリフは、私にとっては啓示のように響いた。そして、私の妹の、生前には知らなかった、あることを思い出した。それは、私の妹の小学校・中学校・高校の時の友人が、それぞれ一人ずつ、妹が亡くなった後に、わが家にやって来て、語ってくれた感謝のことばだった。

妹が小学六年の二学期、わが家は引っ越した。妹は卒業まで、電車で以前の小学校に通学し続けた。私はてっきり、途中で小学校が変わるのが嫌だからそうしていたと当時は思っていた。しかし、小学時代の妹の友人が、妹が亡くなったあと、語ってくれたことは、瞳ちゃん(私の妹のこと)は、自分のために引っ越し後も電車で通学してくれていた、ということだった。その友人は、小学校で私の妹の他に友達がいなかった。とてもおとなしい性格だった。そのため、心配して、瞳ちゃんは電車で通い続けてくれた。そのおかげで、自分も小学校を無事に卒業できた。その後は順調にずっと来ている。瞳ちゃんのおかげだ、と。

中学の時の妹の友人も、ある時うちに来て、生前知らなかったことを語ってくれた。とても明るくかわいらしい方で、今は保育士になっている。その中学時代の妹の友人は、妹のいる中学に途中から転入してきたのだけれど、引っ越してくる前の中学で、大変ないじめに遇ったことがあったそうだ。それでとても心が傷ついた状態で転校してきたところ、すぐにうちの妹が友達になってくれて、それで新しい中学ではいじめられることもなく、無事に卒業できた。そのあとはずっと順調で幸せに過ごしている。瞳ちゃんのおかげです、と語ってくれた。

もう一人、高校の時の妹の友人が語ってくれたことがある。その友人は十五年経った今でも、妹の命日やお盆には必ずお花を贈ってくれる。県内有数の進学校を卒業し、今は結婚して幸せに過ごしている。その方が話してくれたことには、高校時代はどうも高校がなじめず、やめようと思ったこともあった。しかし、瞳ちゃんがいつもさりげなく側にいて友達でいてくれた。そのおかげで高校を無事に卒業することができた。今の自分があるのは瞳ちゃんのおかげだ、と。

 マタイによる福音書の二十五章四十節には、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と記されている。もし杓子定規な、儀式や典礼を中心とするキリスト教の教理による考え方であれば、洗礼を受けていない人間は天国には行かないのかもしれない。しかし、聖書自体の御言葉によるという無教会のおかげで、私は今は違う考えに至ることができた。

 べつに私の妹が正しい行為をしたから、その功績で天国に行ったということが言いたいわけではない。そういうことが言いたいのではない。そうではなくて、誰かから感謝されるような心で生きた人間を、愛である神がほっておかれるはずがない。見捨てるわけがない。そのような神の愛というものに、私は、この御言葉を通じて触れることができた。小林多喜二についての映画をきっかけに、このマタイによる福音書の二十五章四十節の御言葉にあらためて触れて、神の愛がいかなるものか、決してそのような人を見捨ててはおかぬ神の愛というものに、触れた気がするのである。

 また、仮に信仰によってのみ人が救われるとして、ある人が心の中で信仰に至っていたかどうかについて、たとえ家族であっても本当にわかるのだろうか。妹の生前は、私自身がまだキリストへの信仰に至っておらず、妹とキリストへの信仰について話をしたことはなかった。しかし、母から、私の妹が亡くなる少し前に、「私は神にさからうことをやめた。」と言ったと聞いたことがある。妹がどのような意味でそう言ったのか今となってはわからない。

また、私の妹は、ノン・クリスチャンだったはずなのだけれど、生前なぜか旧約聖書の「ヨナ書」と旧約聖書続編の「トビト記」を愛読していた。好きだったレンブラントの絵や当時読んでいた文学作品の影響だったと思われるが、そのことがきっかけで、現在私は福岡の集会で十二小預言書の講話を担当している。いつかヨナ書をきちんと理解したいと思い、その思いがきっかけとなって、十二小預言書を学ぶようになり、講話担当させていただくことになった。

 また、妹が亡くなった後、絵が好きだったので、遺したスケッチや絵をまとめて自費出版したことがあった。この画集を自費出版する時は、まだ私も母も無教会の集会に通うようにはなっておらず、キリストへの信仰にも至っていなかったが、たまたま母が当時読んでいた本の中から『Sursum Corda(スルスム・コルダ)』というタイトルにした。ずっと後になり、私も母も無教会の集会に通うようになってから、『讃美歌21』の中にこのタイトルの讃美歌があると知って驚いたことがあった。

 これらを思うに、すでに妹が救われているからこそ、その後、その導きで、自分がいま福音の信仰に至ったのだと思う。そして、聖書を学ぶようになり、時間の経過の中で、聖書のことばや、神との対話を積み重ねる中で、少しずつ、すべてに感謝し、神を讃美する心持に、変わっていくことができたのだと思う。

長い間、なぜ人は生きねばならないのか、この人生に何の意味があるのかと問うことも多かったが、今は、神は愛であり、愛をもって創造されたすべての存在や人生に意味があり、きっと私も、妹も、何がしか神の御経綸の中で意味がある存在なのだと思えるようになった。

 

 

 「結論」

 

私にとっての無教会とは、聖書という霊の糧を日々に学ぶことができ、また私のような教会の外の人間にとっても本当に聖書の言葉に即した慰めと救いをもたらしてくれる場である。教会の儀礼や儀式や教理とは縁のない私のような教会の外の人間にとって、真の救いをもたらすことができるかけがえのないエクレシアである。

 霊(プネウマ)の糧は、聖書の御言葉にある。人間は、肉体・こころ・霊の三つの要素から成り立つ(矢内原忠雄全集十五巻、二〇二~二一〇頁)。聖書こそ霊の糧であり、この霊の糧を日々に味わうことを通じて、キリストの愛による喜びの人生が開かれていくのだと考える。

 最後に、詩編の第三〇編二~六節(新共同訳)を読み、神を讃えたい。

 

「主よ、あなたをあがめます。

あなたは敵を喜ばせることなく

わたしを引き上げてくださいました。

わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを

あなたは癒してくださいました。

主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ

墓穴に下ることを免れさせ

わたしに命を得させてくださいました。

 

主の慈しみに生きる人々よ

主に賛美の歌をうたい

聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。

ひととき、お怒りになっても

命を得させることを御旨としてくださる。

泣きながら夜を過ごす人にも

喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」

『ハバクク書(下) ―  神による喜びと讃美 』 

 

ハバクク書(下) ―  神による喜びと讃美 』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、ハバククの詩 ① 導入・嘆願

Ⅲ、ハバククの詩 ② 神の顕現

Ⅳ、ハバククの詩 ③ 結論 

Ⅴ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに 

     

前回のあらすじ ハバクク書の第一章と第二章:

ハバクク書は、紀元前600年頃、アッシリアが滅亡し、新バビロニア王国が急速に台頭する時代を背景としている。第一章・第二章では、ハバククの神に対する問いかけと、神の答えが記されている。その主題は、神議論(神はなぜ悪を放置するのか?)である。

ハバククは、南ユダ王国国内、あるいはアッシリアの悪を見て、なぜ悪が放置されているのかと神に問う。すると、神はそれらの罪の審判として、バビロンを興すと答える。ハバククは、バビロンの暴虐を目の当たりにし、どうしてこのような悪を神が道具として用いるのかと問う。神は、その問いに対し、終りの時が必ず来ること、悪に対しては裁きがあること、「義人は信仰によって生きる」(ハバクク書2章4節)ことを答える。

ハバクク書は、神義論の問題に対して、長い時間をかけて歴史を通して神の意志が必ず実現するという「信実」(エメット)を伝えることで答えている。神の「信実」に基づく「信仰」を持つ時に、人は本当に生きるということが、ハバクク書では述べられている。

人は、信仰により、永遠のいのちを無償でいただき、かつこの宇宙には神の御経綸があり、世界や宇宙は終りの日の完成に向かっていくものであり、その中で自分の存在にも何かしらの創造された意味と目的があると知る時、虚無主義や刹那主義を乗り越え、本当に充実した意味のある人生を生きることができる。そのためには、神の御前に沈黙し、静かにささやく神の声に耳を傾け、神と対話すること(祈り)が大事であり、率直な問いかけとその中での神との対話の深まりの中に信仰の深まりもありうる。

 

前回と今回の内容のつながり

ハバクク書の第三章は、第一章・第二章と大きく形式や内容が異なり、ハバククの神に対する讃美が詩の形式で書かれている。

第一章・第二章とどのような関係があるのかは諸説あり、まったく別個に成立したテキストがハバククの手によるものとして特に前後の脈絡もなくハバクク書に入れられたという説も成り立つ。しかし、第一部(第一章・第二章)の中での神との神義論をめぐる対話を経て獲得した信仰による喜びと神への讃美を歌ったものと考えれば、第一部の内容を前提としてはじめて第二部(第三章)の讃美は成り立つと考えられる。

 

※ 「ハバクク書の構成」

第一部 ハバククの疑問と神の答え 第一章~第二章(1:1~2:20)  前回

第二部 ハバククの詩 第三章(3:1~3:19)  今回

 

・第二部(第三章)の構成 

① 導入・嘆願 3:1~2

② 神の顕現  3:3~15

③ 結論  3:16~19

 

Ⅱ、ハバククの詩 ① 導入・嘆願 (3:1~3:2)

 

◇ 3:1 題辞

シグヨノトの調べ:音楽の旋律あるいはリズムのことらしい。詩編第7編にも言及されている(「シガヨン」)。

岩波訳脚注(210頁)によれば、「語源的にヘブライ語のシャーガー(「迷い出る、さまよう、夢中になる」)から転調の激しい挽歌のような調べを想定する場合もあり、またアッカド語シグーから、哀歌の調べだと説明する試みもある。」とあるが、正確なところは不明。

バルバロ訳では「悲しみの歌の調べ」と訳されている。

 

◇ 3:2  神への嘆願

・新共同訳「御業に畏れを抱きます。」(マソラ本文) :

・岩波訳脚注「業を見ました」(七十人訳

 

・新共同訳「数年のうちにも」 : 口語訳「この年のうちに」。

⇒ ハバクク書第二章までの内容を踏まえて、長い年月をかけて神が必ず悪に対して審判を行い、良い方向に歴史を導くと信じているとしても、それをできる限り早く、自分たちが生きている間に見たいという願い・祈り。

 

※ この箇所では、ハバククが神に対して、近い将来に歴史に対する審判としての神の御業を示して欲しいという嘆願と、怒りの中にあっても哀れみを忘れずにいて欲しいという祈りがなされている。

 

文語訳 3:1-2シギヨノテに合せて歌える預言者ハバククの祈り。/エホバよ、われ、汝の宣(のたも)うところを聞きて懼(おそ)る。/エホバよ、このもろもろの年のあいだに汝の運動(わざ)を活発(いきはたら)かせたまえ。/このもろもろの年のあいだにこれを顕現(あらわ)したまえ。/怒る時にも憐れみを忘れたまわざれ。」

 

Ⅲ、ハバククの詩 ② 神の顕現 (3:3~15)

 

◇ 3:3  テマン:エドムの中の地域名。

パランエドムの地域の中にある山の名前。

 

※ なぜエドムの中の地名が出るのか?

 

① 申命記33:2「主はシナイより来り/セイルから人々の上に輝き昇り/パランの山から顕現される。主は千よろずの聖なる者を従えて来られる。その右の手には燃える炎がある。」

  士師記5:4「主よ、あなたがセイルを出で立ち/エドムの野から進み行かれるとき/地は震え/天もまた滴らせた。雲が水を滴らせた。」

⇒ 出エジプトの時に、この地域を通って主に導かれてきた歴史的な経緯の想起。神の御力と御業を思い起こすため。

 

② ケニ人説。ヤハウェ一神教は、エテロ(モーセの舅)をはじめとしたケニ人(ミデアン人の一部)からもともと伝わったという学説。ハバクク書のこの箇所は、もともとヤハウェ一神教イスラエルよりも南のエドムやミデアンの地域から伝わったことを示唆すると考える。

 

⇒ おそらくは①説が妥当か?

 

文語訳3:3~4「神、テマンより来たり、聖者(きよきもの)パラン山より臨みたもう。その栄光、諸天を蔽い、その讃美、世界に徧(あまね)し。その朗耀(かがやき)は日のごとく、光線その手より出づ。彼処(かしこ)はその権能(ちから)の隠るるところなり。」

 

◇ 3:5 病気も神に従うこと: c.f. 十災。あるいは、逆にキリストが多くの人を癒したこと。

⇒ しばしば、病は、人を神に導く先触れとなる。 (本人、あるいは家族の)

 

◇ 3:6 自然も悠久のように見えるが、神の被造物であり、しょせんは無常なもので、本当に永遠なものは神の道のみ、ということ。

ただし、関根訳のみ若干解釈が異なる。

 

関根訳3:6-7「…永遠の軌道も彼によって壊される。」

⇒ この解釈だと、神のみ自由に自然法則に介入して奇跡を起こしたり、人間の決まりきったパターンをくつがえすことができる、という意味になる。

 

◇ 3:7 クシャン=クシュに属するもの。 クシュはエチオピヤ(聖書の指す範囲はエジプト南部から東アフリカ一帯)を指すが、まれにベニヤミン人のことを指すらしい用例もある(詩編第7編)。あるいは、ここでは、ミデアンと関係のある南アラビアの地方あるいは部族を指していると考えられる。

 

※ この箇所は何を述べているのか?

① ミデアンやクシュの人々が神の審判を受けること

② ミデアンやクシュの人々が、バビロンの攻撃を受けて動揺すること。

⇒ おそらく②と考えられる。まず南ユダ王国の周辺の弱小地域や部族がバビロンの攻撃を受けその支配に組み込まれる様子を描いている。

 

 

◇ 3:9 新共同訳「言葉の矢で誓いを果たされる」:  難解な箇所

 

フランシスコ会訳脚注「み言葉と七つの矢」(「誓い」を同じ語源の「七」と読む)

⇒ この訳だと、み言葉と七つの聖霊(イザヤ11:2-3)という意味になり、メシアがみ言葉と七つの聖霊によって人々を救うという意味に受け取れる。

 

・岩波訳「(その)言葉が矢による誓いとなる。」

⇒ サムエル上20:42 ヨナタンが矢によってダビデの命を救う誓い

⇒ この意味だと、御言葉によって人の命を救う、という誓いの意味になる。

 

⇒ 聖霊による御言葉、あるいは人の命を救う御言葉の譬えとして、「矢」という言葉がここでは用いられていると読むべきか。

 

 

◇ 3:11 新共同訳「日と月はその高殿にとどまる。」 :これも難解

 

フランシスコ会訳3:11「日と月とはその住処(すみか)のうちに留まり、/あなたの矢の光と槍の煌めきに従って、/それらは動く。」

 

「日と月とはその住処(すみか)のうちに留まり」

⇒ フランシスコ会訳脚注:「日」を前節の最後と合せて読み、「日は昇るのを忘れる」と読みかえる説もある、と指摘。おそらく日食や、厚い雲が覆っていることを述べていると推測。

⇒ 日がささなくなったこと・日食あるいは暗雲の状況とすれば、キリストの磔刑の時の空の様子?

⇒ 太陽と月を、キリストとその光を受けて生きる使徒や弟子と考えれば、十字架の死と、その後に復活し、御言葉によって弟子たちも生き始めた様子?

 

◇ 3:13 油注がれた者を救うために神が動く。

⇒ メシアの復活と審判。あるいは、油注がれた者を、メシアではなく、イスラエルの民、あるいは神の民と解釈すると、それらの人々を救うために、キリストが悪や罪を根源から粉砕する様子のことか。

◇ 3:14 新共同訳「あなたは矢で敵の戦士の頭を貫き」

関根訳 3:14「あなたは彼ら自身の矢をもって/荒れ狂うその従者たちの頭を貫く」

⇒ 関根訳だと、自らの行いの報いが審判されるという意味になる。

 

②を通して

※ ひとつの解釈としては、3:8~12(怒りをもって国々を踏みつける)については、バビロンを道具として神の怒りが示され、バビロンの急速な勃興と支配が行われることを述べ、それに対して、3:13~15では、バビロンに対する神の怒りの審判のビジョンが示されていると読むことも可能か。

※ ただし、正確な意味は特定できず、壮大なビジョンの中で、神の圧倒的な力が示されているということと、それが「み言葉の矢」、つまり神の言葉によって遂行されることが述べられている。

 

Ⅳ、ハバククの詩 ③ 結論  (3:16~19)

 

◇ 3:16 「それ」とは何か?

 

 「それ」が指すものは、一見、この第三章の詩のそれまでの部分のように見える。しかし、そうすると、ハバククのこの箇所での苦悩や苦悶の理由がよくわからない。「それ」は、ハバクク書の1:5~1:11において示された預言、つまりバビロンの急速な勃興の預言のことと考えると、意味内容としては理解しやすい。

なお関根訳では3:16後半は「わたしは苦しみの日、われらを襲う/一つの民が起こる日のためにうめく。」となっており、このようにバビロンの台頭の預言と解釈すれば、ハバククの3:16前半での苦悩と苦悶の意味がわかりやすい。

あるいは、ハバククには、バビロンの台頭と、それによる南ユダ王国の滅亡およびバビロン捕囚までの両方が啓示されており、「それ」はその両方だと考えると3:16での苦悩は理解できる。(3:8~12と3:13~15の上記解釈参照)。

 つまり、直近のバビロン捕囚の預言にハバククは苦悩すると同時に、バビロンへの審判と捕囚からの解放も示されているとすると、そのことを「静かに待つ」と述べていることの意味がわかる。

 南ユダの滅亡と捕囚、およびその後の解放も同時に啓示され、すべては神の計画として避けられないことをハバククは知り、このように呻き、かつ「静かに待つ」と述べたと考えられる。

◇ 3:17  全く何も実をつけず、生計の糧もない、絶望的な状況。

⇒ 人生における苦境。何をやってもうまくいかない時期。貧乏や窮乏の時期。

あるいは、いちじく=律法、ぶどう=福音、オリーブ=黙示録(未来の預言)の象徴と考え、そのどれも無力なように感じられる打ちひしがれた様子。

 

◇ 3:18 新共同訳「踊る」:原語は、「よろこぶ」のヘブライ語のもう一つの言葉。

 

◇ 3:19  新共同訳「高台」:口語訳「高い所」 NIV“heights”(高み)

 

偶像に対する崇拝が行われていた「高台」と解するよりも、「高いところ」と一般的に解した方が、信仰の喜びによって、くじけずに、いかなる場合も高い精神性を持って歩み、気高い生涯を生きることができるという意味に受けとることができる。

⇒ 絶望的な状況にあっても、無条件の喜びが信仰によって存在することが述べられている。

 

ハバクク3:18-19 諸訳対照

 

・関根訳3:18-19「わたしはヤハウェにあって喜び/わが救いの神にあって楽しもう。/主ヤハウェはわが力、/彼はわが足を雌鹿のようにされ、/わたしをして地の高みを歩ませ給う。」

 

・口語訳3:18-19「しかし、私は主によって楽しみ、わが救(すくい)の神によって喜ぶ。/主なる神はわたしの力であって、/わたしの足を雌じかの足のようにし、/わたしに高い所を歩ませられる。」

 

・岩波訳3:18―19「しかし、私はヤハウェによって喜び、/わが救いの神に、私は喜び踊ろう。/わが主(なる)ヤハウェはわが力、わが足を雌鹿のようにし、私に高き所を歩ませて下さる。」

 

フランシスコ会訳3:18-19「しかし、わたしは主にあって喜び、/わたしの救いの神にあって歓喜しよう。わたしの主なる神はわたしの力。/わたしの足を雌鹿のようにし、/わたしに高い所を歩ませられる。」

 

・バルバロ訳3:18-19「しかし、私は主において楽しみ、/私の救い主、神において喜ぶ。/神である主は私の力。/主は、私の足を雌じかの足のようにし、/頂を歩ませられる。」

 

・文語訳3:18―19「さりながら、われはエホバによりて楽しみ、わが救いの神によりて喜ばん。/主・エホバは、わが力にして、わが足を鹿のごとくならしめ、われをしてわが高きところを歩ましめたもう。」

 

※ どの訳も一長一短あり、それぞれに素晴らしいが、ハバクク第三章の訳について言えば、冒頭の箇所と末尾は、特に文語訳が素晴らしい?

 

讃美の喜び

ハバククのこの詩は、指揮者によって伴奏付きで歌われた(3:19)。

ユダ王国の末期、バビロンに圧迫され、最終的にはエルサレムが陥落させられ、バビロン捕囚の憂き目にあったユダヤの民にとって、このハバククの詩はことのほか愛唱され、語りつがれ、歌い継がれてきたと考えられる。

 

最初に嘆願によって始まったハバククの詩は、末尾の結論としては、現状をあるがままにすべて感謝し喜ぶことによって結ばれている。

その喜びの背景には、いつかは必ず神によって審判や救いの時が来るという希望があるということもあるかもしれない。

しかし、この箇所は、いかなる状況でも神と共に生き、神との交わりの中で生きること自体が喜びであり、この信仰の喜びは無条件にどのような状況でも与えられるということを述べており、将来というよりも現在の喜びを述べていると考えられる。いかなる状況にあっても、意気阻喪して低みを生きる人生ではなく、信仰を持ち神とともに生きるがゆえに、雌鹿のように元気に生きて高みを歩いていけるということが、確信をもってここには述べられている。

 

※参照 Ⅰテサロニケ5:16~18「いつも喜んでいなさい。/絶えず祈りなさい。/どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

 

Ⅴ、おわりに  

 

※ ハバクク書第三章から考えたこと 

 

1、讃美について

他宗教と比べた時に、キリスト教の大きな特徴は、讃美にあると思われる。たとえば、神道の神社においては、御祓いや祈願が多く、神を讃えることがそれほど多く行われているとは思われない。また仏教の寺院も、一般的に、修行や儀礼が多く行われる場ではあっても、それほど讃美が多いとは思われない。例外として浄土真宗では讃嘆門が一応重視されており、他の仏教に比べれば讃美が多いと言えるが、それでもキリスト教における讃美歌ほど多くの歌曲が歴史的に存在してきたわけではない。修行や祈願や儀礼が多くの宗教において主要形態であるのに対し、キリスト教の場合、すでに救われた喜びによる讃美が大きな比重を占めてきたことは注目に値する特徴と思われる。

讃美はイエスパウロ以降の新約聖書において顕著な特徴ではあるが、旧約聖書においても出エジプト記(15:1)をはじめとし、士師記詩編エズラ、ネヘミヤ、イザヤ、そしてハバククなど、神への賛美は至るところに存在し、聖書を一貫している特徴と言える。

 

2、何を讃美するのか?

 現実的に何か良いことがあった場合(ex.病気平癒や商売繁盛など)に、神を讃美することは、比較的たやすいことであり、諸宗教においてもしばしばありえることと考えられる。しかし、ハバクク書第三章において述べられるのは、絶望的な状況においても、なお神によって喜び神を讃美することである。いかなる状況でも、現実をあるがままに受けいれて神に感謝し、神を讃美する時に、神の力は思わぬ働きをなしとげるのではないか。

(※参照:マーリン・キャロザース著『讃美の力』生ける水の川、1975年)

 

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・デイヴィッド・W・ベーカー著、山口勝政訳『ティンデル聖書注解 ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書』いのちのことば社、2007年

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『矢内原忠雄全集第14巻』、岩波書店、1964年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

雑感・高慢について

 

 聖書には、しばしば人間の「高慢」あるいは「傲慢」について戒めてある。古代ギリシャにおいても、神々の前に一番の罪とされたのは「高慢」(傲慢、ヒュブリス)だったそうである。

 そういえば、以前、箱崎にあるモスクでイスラム神学者の人と話した時も、何度も”arrogant”(アロガント、高慢・傲慢)という言葉を使って、それこそが最も人間にとって罪だということを述べていた。

 では、「高慢」あるいは「傲慢」とはどういうことなのだろうか。

 この前、矢内原忠雄全集を読んでいたら、そのことについてなるほどと思うことが書いてあった。

 矢内原によれば、「高慢」とは、「信仰に基づかない自信」のことだそうである。一方、 「信仰に基づく自信」は、「愛の実行力」をもたらすもので、大切なものだそうである。(矢内原忠雄「自信について」、全集14巻371頁)

 つまり、自分の力だけでなんとでもなると考えて、神に対する信仰に基づかない自信を持つと、人はどんどん神から離れていく。

 一方、神がこの宇宙を経綸している以上、自分も何かしら神の善い目的と計画の中で意味のある存在として創造されたわけであり、したがって自分の命には何かしらの意味があり、神を讃え神の栄光を現すために生きる、自分には意義がある、という自信があることは、より一層信仰を深め、また信仰にもとづく良い実践をもたらすものなのだろう。

 信仰に基づかない自信も、また信仰に基づく自信を持ち合わせない単なる卑屈も、どちらも滅びにつながるものなのかもしれない。

 とすれば、信仰にもとづく自信をしっかり持つことが、人生を意義深く生きるためにも最も枢要なことかもしれない。しかし、そのような、信仰にもとづく自信をしっかり持っている人の、なんと世に少ないことか。

資料:ハバクク書(上) ―  義人は信仰によって生きる

ハバクク書(上) ―  義人は信仰によって生きる 』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、ハバククの疑問① なぜ神は悪を放置するのか?

Ⅲ、神の答え① バビロンを興す 

Ⅳ、ハバククの疑問② 神はなぜ悪しき者を用いるのか? 

Ⅴ、神の答え② 約束と信仰 

Ⅵ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに 

    

 

ハバクク:十二小預言書のひとつ。全三章。紀元前600年頃、南ユダ王国の末期に活動した預言者・ハバククによる預言をまとめたもの。内容は、神義論(なぜこの世の悪を神が放置するのかという疑問)とそれに対する答えである前半と、後半のハバククの信仰の喜びを歌った詩から成る。

 

ハバククとは誰か?:ハバクク書以外の旧約聖書中の情報がなく、詳しいことは不明。父の名も出身地も不明。ただし、十二小預言者中、名前の前に「預言者」と冠して呼ばれている数少ない人物(他にハガイとゼカリヤのみ)なので、職業的預言者ないし神殿に仕える預言者だったと推測される。(なお、旧約聖書続編の「ダニエル書補遺 ベルと竜」には、ダニエルを助ける人物として預言者ハバククが登場するが、これはかなり後世の伝説と考えられる。)

 

ハバククの時代背景:ユダの王ヨシヤ、ヨアハズ、ヨヤキム、ヨヤキン、ゼデキヤの時代(BC640頃-587以前)

 ハバククの生きた時代は、預言内容から考えて、中東でアッシリアが急速に衰退し滅亡し、新バビロニア王国(聖書本文中の「バビロン」)が急速に台頭し、その猛威に南ユダ王国がさらされた頃である。エルサレム陥落とバビロン捕囚を実際に見届けたかどうかは本文中からは明らかではない。預言者のナホムおよびエレミヤとほぼ同時代と考えられる。

 

 

※ 「ハバクク書の構成」

 

第一部 ハバククの疑問と神の答え 第一章~第二章(1:1~2:20)  今回

第二部 ハバククの詩 第三章(3:1~3:19)  次回

 

ハバクク書は、第一、第二章の前半部分と、第三章の後半部分とでかなり内容が異なる。前半部分は、神がなぜ悪を放置するのかというハバククの問いとそれに対する神の答えが、後半部分ではハバククの詩が記される。

 

・第一部(第一~二章)の構成 

 

Ⅰ、ハバククの疑問① なぜ神は悪を放置するのか? (1:1~1:4)

Ⅱ、神の答え① バビロンを興す (1:5~1:11) 

Ⅲ、ハバククの疑問② 神はなぜ悪しき者を用いるのか? (1:12~1:17)

Ⅳ、神の答え② 約束と信仰 (2:1~2:20)

 

ハバクク書の前半部分である第一部は、ハバククの二つの問いと、それぞれに対する神の答えが記される。おそらく、一つ目の問いと、二つ目の問いの間には、かなりの時間の流れがあると想定される。

 

 

Ⅱ、ハバククの疑問① なぜ神は悪を放置するのか? (1:1~1:4)

 

◇ 1:1 題辞

ハバククアッカド語のバジルの木を意味する植物名「ハムバクーク」という説があるがよくわからない。「(神に)抱かれるもの」という意味との説もある。

:啓示。ハーゾーン(hazon)、神からの啓示、語りかけ。Vision。

 

◇ 1:2~4 ハバククの疑問① 「なぜ神は悪を放置するのか?」

 

新共同訳「不法」=「暴虐」(岩波訳)

新共同訳「災い」=「不義」(岩波訳)

 

ここで言われている「悪」とは何か:

① 南ユダ王国内部の悪:ヨヤキム、ヨヤキンなどの王、その大臣たちの悪、不信仰など。

② アッシリアのこと。

 

 

Ⅲ、神の答え① バビロンを興す (1:5~1:11) 

 

カルデア人新バビロニア王国(バビロン)をつくった人々のこと。五つの部族から構成されていた。主神はマルドゥクカルデア人は、かつてはアッシリア支配下にあったが、紀元前625年に独立し新バビロニア王国を建国。メディアと同盟を結びアッシリアを滅ぼし、紀元前605年のカルケミシュの戦いでエジプトを撃破し、中東一円を支配した。紀元前587年にはエルサレムを陥落させバビロン捕囚を行う。しかし、のちにペルシア帝国に倒され、紀元前539年に新バビロニア王国は滅亡。

 

神は、バビロンを興す。 ⇒ アッシリアの滅亡、南ユダ王国の罪の審判。

 

バビロン(カルデア人)の圧倒的な軍事力、猛威。(c.f.モンゴル、ナチスetc.)

 

◇ 1:11 バビロンは「自分の力を神とした」=罪に定められる。

 

 

Ⅳ、ハバククの疑問② 神はなぜ悪しき者を用いるのか? (1:12~1:17)

 

◇ 1:12前半 フランシスコ会訳:「主よ、あなたは永遠の昔からわたしの神、/わたしの聖なる方、不死なる方ではありませんか。」

(新共同訳「我々は死ぬことはありません」⇒ 神が「不死なる方」?)

 

◇ 1:17 新共同訳「剣を抜いても」 フランシスコ会訳脚注「網を使う」

岩波訳「その網を空にして」

 ⇒ 網を使って人々を捕まえ、網を使って殺し、その網に対してバビロンが香を焚いて供物を捧げている。

 ⇒ 「網」は、武器のたとえか? あるいは人を生かすのがキリストの網で、人の魂を悪しきものによってとらえて殺してしまうのがバビロンの網?

 

※ バビロンが、アッシリアや南ユダの悪を罰するための神の道具として用いられているとしても、なぜ清いはずの神が、神に逆らうものであるバビロンを用いるのか?なぜ神はバビロンの悪を放置するのか?

 

⇒ 我々も直面する問題。

仮に戦時中の日本の罪があったとして、原爆が用いられて良いのか?

ナチスに罪があったとして、ソビエトによるドイツの甚大な被害は何なのか?ナチスが去った後の東欧は、なぜソビエトに抑圧されねばならなかったのか?

イラクサダム・フセイン⇒ アメリカ・ブッシュ政権による戦争⇒ IS

 

⇒ もっと言えば、なぜこの世に「悪」は存在するのか?なぜ神は悪を放置するのか? ⇒ 神議論(theodicy)

 

 

Ⅳ、神の答え② 約束と信仰 (2:1~2:20)

 

◇ 2:1 答えを待ち望み意識して神のことばに耳を澄ます。職業預言者としてのハバククの態度、あるいは神との対話に関して万人に望まれる「沈黙」(2:20)。

⇒ 神の答えが与えられる。啓示。

 

◇ 2:2~4 フランシスコ会訳:「啓示を書き記せ。/それを読む者が容易に読めるように、/板の上にはっきりと書きつけよ。/この啓示は定められた時までのもの、/終わりの時について告げるもので、偽りはない。/もし、遅れるとしても、それを待ちなさい。/それは必ず来る。/それは遅れることはない。/見よ、心がまっすぐでない者は崩れ去る、/しかし、正しい人はその誠実さによって生きる。」

 

2:4 岩波訳:「見よ、増長している者を。/その魂はまっすぐではない。/義しい者は、その信仰によって生きる。」

 

2:4 関根訳:「見よ、不遜な者はその魂その中に留まらぬ。/しかし義人はその信実によって生きる。」

 

 

※ のちに、パウロが信仰義認説の根拠として引用。

 

「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ロマ1:17)

 

「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。」(ガラテヤ3:11)

 

※ ハバクク書の文脈で言えば、「定められた時」「終わりの時」(=「主の日」・「再臨」)が来るという神の約束を信じることによって義しい者は生きること。

 

2:4 「高慢」 =信仰に基づかない自信のこと ⇔ 信仰に基づく自信=愛の実行力 (矢内原忠雄「自信について」、全集14巻371頁)

 

信仰:キリストを信じること=①内在(聖霊)・②超越(父=宇宙経綸の神)

① キリストを信じることによって、人は永遠の生命を生きてゆくことができる。十字架の贖いを信じるだけで、罪の赦しと復活の希望が与えられる。

② キリストの再臨の時(終わりの日・主の日)に、宇宙や自然が完成される。新しい天と新しい地が与えられる。万物が救われる。

 

⇒ ①の信仰から導かれる生き方:死後、神の審判において義とされ、永遠の生命によみがえることを人生の目的とし、この目的にふさわしい生き方をする。肉体とともに朽ちるのではない生命=永遠の生命が自分に与えられていると信じ、その観点から生きること。 

(⇔ この世だけ、物質や富や食べ物だけを目的とする生き方。)

 

⇒ ②の信仰から導かれる生き方:神は宇宙と歴史を経綸する神(計画をもって主宰する神)だと信じ、自分もまた神の宇宙経綸の一部・計画の一部だと理解して生きる。神は人とともに生きる歴史的存在であり、歴史の指導者であり、歴史を通して働くことを知る。ゆえに、神の意志を重んじ、神の栄光を現すことを心がける。自分を中心とするのではなく、神およびエクレシアや他の人のために生き、神の御心・御計画が実現するように願って生きる。

 

※ 「その信実」(エメット)は、人間の側の信仰なのか、それとも神の側の「誠実さ」なのか?

 

⇒ 神の「信実」(誠実さ)を知り、それに触れて、疑いがない状態が自分の側の「信仰」。

キリストの真実の生き方や御心に触れた時に、①の信仰も②の信仰も得られる。(旧新約聖書を通じて)。      

 

①と②の信仰がなければ、人は死ねば終わりという刹那主義や虚無主義に陥ったり、この人生や歴史に意味を見いだせなくなってしまう。①と②の信仰を得た時に、人は再びよみがえって、元気に活力にあふれ喜びをもって生きることができる。         (ハバクク2:3の「それ」=キリスト?)

⇒ キリストの真実・キリストの十字架の贖いによる「新生」。

 

 

※ 2:5~2:20 神の審判 

 

◇ 2:5 新共同訳「富は人を欺く」(クムラン写本) 岩波訳「葡萄酒は人を欺き」(マソラ本文) ⇒ この世の物質主義、あるいは間違った酔わせる考えにあざむかれること。

 

◇ 2:6後半 岩波訳「禍(わざわ)いだ、〔いつまでなのか、〕自分のものでないものを増やし続け、/担保で自分を重くする者よ」。

⇒ 自分のものでないものを不当にむさぼる者は、目に見えない負債・担保を自分で増やしていること。いつか審判が下る。

 

◇ 2:9 「高いところに巣をかまえる」 オバデヤ3節 参照 傲慢

 

◇ 2:10 新共同訳「自分をも傷つけた」 岩波訳「あなたの魂は罪を犯した。」(同脚注、死海写本「あなたはあなたのいのちの糸を切断した」

⇒他に対する暴虐は、自分自身の魂やいのちの糸を破壊し、必ず審判を受ける。

 

◇ 2:11 石が叫び、梁が答える。 下積みになっている人々・庶民から怨嗟の声が出れば、必ず国という建物全体がきしみ、壊れて再建を余儀なくされる。

 

◇ 2:14 審判 ⇒ 神の栄光の知識

 

◇ 2:15~16 他人に加えた侮辱、他者の尊厳を無視して辱めた場合、必ず自分自身も辱められることになる。 恥辱の因果応報。 (c.f. ヘイトスピーチ

 

◇ 2:17 レバノンにある森林の法外な伐採?(イザヤ14:8) 自然破壊により動物が姿を消したこと。そうした自然破壊の罪もしかるべき時に審判を受けること。

 

◇ 2:18~19 偶像崇拝のむなしさ。神でないものを神としても、そこに「命の息」は何もないこと。(現代における金銭や国家を崇拝する倒錯のむなしさ)

 

◇ 2:20 「御前に沈黙」 ⇒ 神の静かな声に耳を傾けること。

 

「まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。」

(イザヤ30:15)

 

地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」

(列王記上19:12)

 

Ⅴ、おわりに  

ハバクク書から考えたこと

 

・悪が何の裁きも受けずにいると、はたしてこの世に道理はあるのか、神はいるのかと疑いを持つ時が人にはあると思われる。(参照:詩編73編)

 しかし、神は必ず義の審判を下し、終わりの時までに良い方向に歴史を導き、この宇宙や自然や人間の世界を完成させると、聖書では啓示されている。

 この信仰を持った時に、人は疑いから無気力になるのではない、気力のある人生を生きていくことができるのではないか。

※ 矢内原忠雄「信仰と努力」、全集14巻379-384頁

・フィリピ1:6とフィリピ3:12-14

終わりの日には完成する、終わりの日までには間に合う、ということと、そうであればこそ、前に向かって励んでいくこと。

矛盾ではなく、希望や見通しがあるからこそ、安心して励み努力できる。

 

・神に対する率直な問い(ハバクク、ヨブ、ダビデ、ナオミetc.)。「沈黙」し、神の静かな声に耳を傾け、神と対話することこそが大切。神に対する信仰があるからこそ問いや対話(祈り)が成立し、応答の中で信仰は深められる。

 

 

※ ハバクク書 第二章四節 (義人は信仰によって生きる)

הִנֵּ֣ה עֻפְּלָ֔ה לֹא־יָשְׁרָ֥ה נַפְשֹׁ֖ו בֹּ֑ו וְצַדִּ֖יק בֶּאֱמוּנָתֹ֥ו יִחְיֶֽה׃

 

ヒネー・ウッペラー・ロー・ヤーシャラー・ナッショー・ボウ・

ヴェツァディーク・ベエムナトー・イェーヒイェー

 

「見よ、不遜な者はその魂その中に留まらぬ。

しかし義人はその信実によって生きる。」

 

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・デイヴィッド・W・ベーカー著、山口勝政訳『ティンデル聖書注解 ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書』いのちのことば社、2007年

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『矢内原忠雄全集第14巻』、岩波書店、1964年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

コーリー・テン・ブーム 「わたしの隠れ場」を読んで

今日、コーリー・テン・ブーム『わたしの隠れ場』を読み終わった。

 

著者はオランダ人の女性で、第二次世界大戦中、ユダヤ人をかくまったため、自分自身も家族も強制収容所に入れられた。

 

本の前半では、楽しかった日々や、だんだんとナチスの脅威が近づいてきた様子、そして、著者の家族たちをはじめとしたごく普通の市井の人々が、ユダヤ人を助けるために大変な勇気と優しさを発揮したことが、リアルに描かれていた。

 

そのうえで、本の後半では、ユダヤ人をかくまっていたことが原因で、著者と家族たちが強制収容所に送り込まれてからの日々の貴重な記録がしるされている。

 

著者のコーリーの父は、実直な時計工で聖書を愛読する心優しい人物だったが、逮捕直後に亡くなった。

コーリーとその姉のベッツィーは、はじめはオランダの、そして戦局が悪化してからはドイツの収容所に連れていかれ、過酷な日々を過ごす。

 

しかし、姉のベッツィ―とコーリーは、看守に見つからないようにいつも聖書を愛読し、人々にも読んで聞かせ、祈りと信仰の中で過ごした。

 

ナチスの人々や、多くの人が荒んだ心を持っている中、いつも愛に生きていたベッツィーの姿は、本当に奇跡としか思えない。

しかし、ベッツィーも、収容所の過酷な日々の中で、ついに病気で死んでしまう。

 

その後、コーリーは、なぜか突然釈放されることになり、そのあともすんなりとはいかず、なかなか大変なのだが、オランダに生きて帰ることができた。

それは事務上の単なるミスであったことがずいぶん後にわかり、しかも同じ収容所の人々はその直後にガス室送りになっていたことがあとでわかったそうである。

 

生前、ベッツィーは、「コーリー、もし人に憎むことを教えることができるとしたら、愛することも教えることができるのじゃないかしら。あなたも私も、たといどれだけ時間が掛かろうと、そのための方法を見つけ出さなくちゃ…」(267頁)と述べていた。

 

また、亡くなる直前には、ベッツィーが、ことこまかにのちに自分たちが心傷つく人々のための施設をつくることになる広い大きな屋敷の様子を語っていたという。

 

コーリーは、生きて帰ったあと、オランダで、たまたまその言葉とぴったり符号する大きな屋敷と庭に、戦争で心傷ついた人々のための施設をつくることになった。

 

それらのことは奇跡としか思えないが、何より一番の奇跡は、収容所の日々においてもベッツィーが感謝や愛を持ち続けていたことと、戦後になってコーリーが収容所の関係者の人に会って赦すことができたことだったと思う。

 

また、収容所の中で、知的障害者には何の価値もないと言うナチスの将校に対して、コーリーが言った以下の言葉も印象的だった。

 

「聖書を読みますと、神は、私たちの力や頭脳によって評価されるのではなく、神が私たちを造られたという理由だけで、私たちを価値あるものと認めておられることがわかります。神の目の前では、薄馬鹿が一介の時計工より、または中尉さんより価値があるかも知れないことなど、だれにわかるというのでしょう。」(244頁)

 

また、

 

「神の時間どりは完全です。」(340頁)

 

という言葉も深く胸打たれた。

 

誤った教育で誤った価値観を持ってしまった当時のドイツの人々のこともリアルに描かれていた。

二度とあのような時代や空気になってはならないと思う。

 

ある方から長く借りていて、返さねばと思い読んだのだけれど、読後は深い感動に包まれた。

この本を読むことができて本当に良かったと思う。

 

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diary

Yesterday, I sang hymns with my brethren.
In all 22 hymns, “Gariraya no Kaze” , “Still still with thee” and so on.
My gf played the piano accompaniment.
It was nice day.

 

This morning, I had a dream.

In the dream, I heard the words:

 

“One lives in the love of God.

And he/she lives in the love of people.

But one’s eyes can’t see that,

So he/she usually forgets it.

This is the reason why one reads the Bible,

which reminds him/her of that love.”

人(イッシュ)について およびマゴネット先生との質疑応答メモ

ユダヤ教のラビのマゴネットさんの講演があったので、聴きに行ってきた。

 

出エジプト記の二章についての話だった。

 

モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。」(出エジプト 2:12)

 

という箇所は、「誰もいない」というのは、すぐそのあとに他のヘブライ人が目撃していたことがわかるので、その場に多くの人がいたことがわかる、

つまり、ここで「誰か人がいないか見回した」というのは、不正義を黙って見ておらず、不正義に抗議するような、そういう「人」がいないか探し、いないことを見いだしたので、やむなくモーセが奴隷を虐待しているそのエジプト人を倒した、ということだ、という解説をしてくださった。

 

この箇所、原文だと、「「人」がいないか」、という文章になっており、「人」は「イッシュ」というヘブライ語だそうである。

そして、ヘブライ語では、ただの人間は「アダム」だけれど、「イッシュ」はインテグリティを持ったひとかどの立派な人、というニュアンスがあるそうである。

日本語で言うと、「漢(おとこ)」を探したがいなかった、といった感じだろうか。

歴代のレビの解釈として、ここは特に「イッシュ」に着目し、上記のような意味に受け取る解釈がなされ、深められてきたそうである。

ラビの伝統はやっぱすごいなぁと感銘。

 

結論では、モーセ出エジプトを果たすには、エジプトの王子として育てられ、かつミディアンの野で羊飼いをしていた、という二つの経験が不可欠だったということが述べられていた。

奴隷根性ではなく独立した誇り高い精神や幅広い教養や知性と、羊の群れの様子を繊細に感じ取って世話をしていく精神や能力と、これらをモーセが持っていたから出エジプトができた、また、モーセアイデンティティは多義的だった、ということの指摘がなされていた。

 

質疑応答の時に、私も三つ質問させてもらった。

 

1、世の中にある不正を黙視しない、義を見てせざるは勇なきなりの心を持った「人(イッシュ)」ということに関する御話は感銘深かった、世の中はなかなかそういう人が少なく、ユダヤ人虐殺もごく少数は黙視しなかったものの多数が見て見ぬふりをしたためあのような事態になったと思う、もし聖書やユダヤ教の中に人が「イッシュ」であるための何かもっとあれば教えていただきたい。

 

2、申命記(23章)には、エドム人とエジプト人は嫌ってはならないし、三代目はイスラエルの会衆に加わることができる、とある。これは、モーセがエジプト人として生まれ育った経験と関係があるのか。

 

3、イザヤ書19章には、エジプト人とアッシリア人イスラエル人の三つが、神の祝福を受け、世界の祝福の源になる、という箇所がある。しばしば通俗的な見方ではキリスト教は普遍的なのに対しユダヤ教は偏狭な自民族中心主義と言われるが、イザヤ書のこの箇所を見るとそんなことはなく、もともと旧約聖書の時から普遍主義的な要素があったと思われるし、今日の「イッシュ」の御話を聞いても、モーセの時からそうだったとも思われるが、その点はどうか。

 

これに対して、マゴネットさんは、以下のような答えをしてくださった。

 

1、ユダヤ人はマイノリティだったため、歴史の中でしばしば迫害やジェノサイドの対象となってきました。そのような経験から、ユダヤ人は歴史的に、正義ということを非常に重視し、正義の観念を希求するようになりました。

しかし、自分が権力を持つ側になった時に、それまでこれほど求めてきた正義の観念とどう向い合っていくかということは、長い間マイノリティだったユダヤ人には不慣れな問題であり、イスラエル建国後今に至るまでパレスチナ問題が生じています。

しかし、希望となることを言えば、イスラエル国内にも、また世界中のユダヤ人にも、パレスチナ問題におけるイスラエル国家のありかたを正義に照らして批判する大勢の人がいます。

 

2、奴隷として扱われたことがあったにもかかわらず、聖書の中には、律法の中には、おっしゃるとおり、エジプト人に対する優しい気持ちを示す箇所が存在しています。これは、モーセのエジプト人として育てられた経験や、エジプトへの理解によるのかもしれませんが、推測以上のことは申せません。

 

3、そのとおりで、イザヤ書には、おっしゃるとおり、イスラエルが世界の光となるという、普遍性を志向した内容があります。民族や宗教団体や、あらゆるなんらかの組織や団体は、常にみずからのアイデンティティを探し求め問う傾向があります。そして、多くの場合は、自分が何でないか、外との関係によって、アイデンティティを決めようとします。その一方で、それとは別に、他とうまくやっていこうとし、その中でのアイデンティティを求める場合もあります。実は、出エジプト記の中にも、イスラエルアイデンティティについての、注目すべき箇所があります。

出エジプト記19章6節に「あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。」とあります。

この「祭司の王国」というのは、祭祀というのは民を代表して神と向かい合う存在ですが、イスラエルの民全体が祭司とここではされていて、つまり世界の他の民族を代表し、イスラエルの民全体が祭司とならねばならない、ということです。

ですから、代表するためには、他の民のこともよく理解し、代表できるように仲良くやっていく必要がある、ということになります。

一方で、「聖なる国民」の「聖なる」は、「分けられた」とも訳せる言葉であり、区別された民ということです。ここでは、他の民族とは異なった独自の特徴や風習を持つことということになります。

ユダヤ人にとって、外の他の民族をよく理解し仲良くやっていくことと、その一方で他の民族とは区別された独自性を保持することは、常にどちらも重要な課題であり、そしてこの二つの葛藤を常にも続けてきたわけですが、この出エジプト記の箇所がすでにこの二つの要素と葛藤が書き込まれていると見ることができます。

これは、おそらく、ユダヤ人に限らず、どの民族にも多かれ少なかれ該当する葛藤ではないかとも思います。

 

という返答で、とても興味深く、ためになった。

 

1についての返答を敷衍すると、苦しみの体験からこそ本当の正義感は生じるし、仮に今現在がマイノリティではないとすれば、マイノリティの声に耳を傾けたり、かつて自分がそうであったことを忘れないことが大事、ということだろうか。

 

にしても、やっぱりユダヤ教はすごいなぁとあらためて思った。