雅歌 資料(8)

『雅歌⑧ 何よりも強い愛』 

 

Ⅰ、はじめに 

Ⅱ、受肉した神への愛と信頼

Ⅲ、何よりも強い愛

Ⅳ、再臨の希望とそれまでの生き方

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

    

   

 (左:クリムト「りんごの木」、中央:クリムト「生命の木」、右:ゴッホ「ぶどう園」

 

前回までのまとめ

 

雅歌はおそらく紀元前10~6世紀のソロモンから南北王国分裂時代にかけてつくられた文書。ラビ・アキバが「全世界も雅歌がイスラエルに与えられた日と同じ価値を持たない。すべての諸書は聖なるものであるが、雅歌はその中でも最も聖なるものである。」と述べ、ヤムニア会議で聖書正典に含まれる。

解釈は大きく四つに分かれる。①象徴的解釈(神とエクレシア(教会・集会)の関係)、②戯曲説、③世俗的恋愛詩集説、④婚礼儀式の際に用いられた歌謡説。本講話では①の立場から読む。つまり、雅歌における「おとめ」=集会ないし信仰者、「若者」=神・キリストとして読む。(※ 象徴とは、ことばに表わしにくい事象、心象などに対して、それを想起、連想させるような具体的な事物や感覚的なことばで置きかえて表わすこと(日本国語大辞典))

前回の七章では、神が信仰者をこよなく尊い存在として愛してくださっているということと、信仰者は、神のものであり、神に求められているという自覚のもとに歩む時に、広々とした野原を歩む自由と逞しさを得られるということを学んだ。

 

・ 雅歌八章の構成 

 

雅歌八章は、便宜的に三つの部分に分けて読むことができる。第一部では、受肉した神への自発的な愛と信頼が語られる。第二部では、愛が何よりも強いものであることが語られる。第三部では、愛によって自発的に神や人から求められる以上に働く生き方と、再臨の希望が語られる。

 

  • 受肉した神への愛と信頼  (8:1~8:4)
  • 何よりも強い愛 (8:5~8:10) 
  • 再臨の希望とそれまでの生き方 (8:11~8:14)

 

 

Ⅱ、受肉した神への愛と信頼  (8:1~8:4)  (旧約1043―1044頁)

 

◇ 8:1  兄弟であったなら…

 

・ 文章をそのまま受けとめるのであれば、兄弟ならば人前でも堂々と仲良く振る舞えるのに、そうではない異性同士は当時の文化規範からすればあまり人前で親しくできない、という内容。

 

※ 神と信仰者との関係の象徴的表現と受けとめるのであれば…

 

⇒ 神が受肉した人間であれば、人から蔑まれることもなく、堂々とその信仰を人前で表現できるし、神と親しく交わることができる、という意味に受けとめることができる。

 

⇒ キリストは、完全な人間として受肉した。完全な神であり、完全な人間。

 

⇒ 目に見えず、いるかいかないかわからない神ではなく、人間にはっきり見えて、触れることができた神だった。

 

コロサイ1:15「御子は、見えない神のかたちであり/すべてのものが造られる前に/最初に生まれた方です。」

 

ヨハネ1:1-2「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの、すなわち、命の言について。――この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、告げ知らせるのです。――」

 

ローマ1:16「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。」

 

⇒ 私たちはこの受肉したキリストを通じて、神がいかなる方か、その御心やあり方をはっきり知ることができるし、人々に恥じることなく臆することなく神の御心(福音)を宣べ伝えることができる。神と交わり(コイノニア)を持って生きていくことができる。

 

 

◇ 8:2  

 

母の家:信仰者が神を、心の内奥、自らの民族の文化に受け入れ、血肉化すること(雅歌資料③参照)。日本的キリスト教の必要。

 

香料の入ったぶどう酒:キリストの香りと聖霊に信仰者が満たされること

 

ざくろの飲み物:復活の生命をキリストからいただき、生命力に満ち溢れること。また、その香りや生き生きとした様子を周囲に伝えること。

 

 

◇ 8:3  神は私たちをしっかりと支え、抱いてくださるということ。

(雅歌2:6も同じ表現。雅歌資料②参照。)

 

申命記32:10「主は荒れ野で、獣のほえる不毛の地で彼を見つけ/彼を抱き、いたわり/ご自分の瞳のように守られた。」

 

イザヤ40:11「主は羊飼いのようにその群れを飼い/その腕に小羊を集めて、懐に抱き/乳を飲ませる羊を導く。」

 

イザヤ46:3-4「聞け、ヤコブの家よ/またイスラエルの家のすべての残りの者よ/母の胎を出た時から私に担われている者たちよ/腹を出た時から私に運ばれている者たちよ。あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。」

 

 

◇ 8:4 愛は自発的であるべきこと

(雅歌2:7、同3:5に同じ表現。ここで三回目。雅歌資料②③参照)

 

キリストは、自分への愛や信仰を決して強制せず、あくまで説得や勧告を通じた、その人自身の自発的な愛や決断に委ねる。その人自身の自由意志を尊重し、辛抱強く神への愛をその人自身が気づき自発的に起こすことを待つ。

 

 

Ⅲ、何よりも強い愛 (8:5~8:10) (旧約1044)

 

◇ 8:5  

 

愛する人に寄りかかり:キリスト者は、キリストに寄りかかり、神に寄りかかって、生きていくことができる。

 

マタイ11:29-30「私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである。」

 

・荒れ野から上って来る出エジプトにより奴隷の身から自由なカナンの地へと移ったように、信仰者は死から生へ、罪から自由へ移っている。

 

・それは誰か? ⇒ キリストを信じる者。

 

りんごの木:善悪の知識の木のことか?(後世の図像ではりんごの木として描かれることが多い)あるいは、命の木のことか?(どちらの木も創世記2:9に登場)

 

⇒ ここでは、キリストが受肉して生まれた、人類の歴史のことを「りんごの木」は指しているようにも思われる。この地球の長い生命の歴史(進化系統樹)、その命の木の中に、神は受肉して人間として生まれてくださった。

 

 

◇ 8:6  

 

・印章のように:ハガイ2:23を踏まえれば、神の選びのこと。

 

ハガイ2:23b 「私はあなたを私の印章とする。私があなたを選んだからだ ―万軍の主の仰せ。」

 

⇒ さらに言えば、神の真実の愛の印が心に押されて映ったものが信仰。ギリシャ語のpistis(πίστις)は、「真実」と「信仰」の両方の意味がある。これらは決して別のものではなく、神の真実の愛を疑いなく受け入れた心が、そのまま信仰であり、先に存在するのは神の真実の愛であり、それを受け入れるのが信仰。

 

⇒ 雅歌8:6のこの箇所では、信仰者(おとめ)のほうが、自分の愛や存在を忘れないで欲しいという意味で、印章のたとえを用いている。これは信仰的に言えば、本当は逆であり、上記のとおり、神の真実の愛の印章が信仰者の心に刻印された、そのままのことを信仰というと受けとめるべきだと思われる。

ただし、自分を印章として神の心や腕に記して欲しいとまで願う信仰者の心は、神は聞く前からすでにご存知であり、私が願う前から神の心には信仰者ひとりひとりの存在が刻みつけられていると思われる。

(あるいは、命の書にその名を記されたいという願いと解釈すれば、大切な願いとも思われる(イザヤ4:3、フィリピ4:3、黙示録3:5))

 

イザヤ49:16「見よ、私はあなたを手のひらに刻みつけた。/あなたの城壁は常に私の前にある。」

 

愛は死のように強い:死は誰にとっても最強のものであり、正しい人にも悪人にも、富者も貧者も、権力者も庶民も、皆最後は死に向かう(参照:コヘレト9:2-3)。始皇帝のように不老長寿を求めても、どんな権力者にも死には勝てない。しかし、愛は、この死と同じく強く、さらに言えば、唯一死に打ち克つことができる力である。その証拠が、キリストの十字架と復活。

 

Ⅱテモテ1:10b 「キリストは死を無力にし、福音によって命と不死とを明らかに示してくださいました。」

 

熱情は陰府のように激しい:熱情を意味するヘブライ語のキナーは、「ねたみ」とも訳される。陰府を意味するヘブライ語はシェオル、黄泉の国、地下の死者の世界のこと。死が激しく人をとらえ連れ去るのと同じように、神の熱情や嫉妬は激しい。それほどに神の愛は熱烈で、時には人を打ち砕くほど大変な目に遭わせて、その過程を通じて真実の神の愛への信仰に目覚めさせる。

 

愛の炎は熱く燃える炎:神は燃える炎のような愛と熱情の持ち主。冷え切った心や無関心や冷淡や虚無と闘い、それらに抵抗し、愛と情熱をもって何かを成し遂げるのが、神の御心であり、その御心を実現しようとして生きる人。

 

出エジプト3:2「すると、柴の間で燃え上がる炎の中に、主の使いが現れた。彼が見ると、柴は火で燃えていたが、燃え尽きることはなかった。」

 

 

◇ 8:7  

 

・愛は大水や洪水にもびくともしない:キリストの愛を土台としている者は、世の荒波や自分の心の中の欲望の大水にも打ち克ち、しっかりと生き抜いていくことができる。これは自分の力ではなく、神の支えのおかげである。

神の愛はすべてに打ち克ち、全てから守り、信仰者を導く。

 

マタイ7:24-25「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川が溢れ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」

 

愛は金では買えない:愛を金で買おうとする者は軽蔑を得るだけ。どれだけ金があっても、愛は買えない。金持ちでも家族や配偶者や周囲との関係が冷え冷えしていれば、人は幸せにはなれないと思われる。人生の満足や充足感や幸せを与えるのは愛であるが、愛は金銭や物質では得られないしはかれない。金銭的な富よりも、神の前で豊かであることの大切さ(ルカ12:21)。豊かさとは、神や隣人との愛の交わり(コイノニア)の豊かさ。

 

◇ 8:8  

 

私たちの妹は…:自分より後の世代の信仰者のこと。神との愛の交わりに入るために、後の世の人々のために何ができるか。

 

◇ 8:9

 

銀の胸壁:胸壁は屋上などにめぐらす欄干状の壁、あるいは弾や矢を避けるための城壁の上部の部分。銀は象徴的に受けとめるならば、罪から清められた状態。つまり、後世の信仰者一人一人各自が自分の信仰や人生という城壁を築いていく時に、その助けとなり指針となるような、清められた信仰や生き方や聖書の解説・解釈を遺し伝えること。

 

レバノン杉の扉:神に心を開く時に、最も良い扉となるような、美しい清められた言葉や生き方や指針を後世に遺すこと、伝えること。

 

内村鑑三『後世への最大遺物』=「勇ましき高尚なる生涯」(勇気を持った気高い生き方の人生)

 

 

◇ 8:10  

 

・私は城壁、乳房は塔:自分自身の人生は、ひとつひとつの思いや行いというブロック煉瓦を積み重ねてつくる。聖書を学び、信仰に生きた時間や思いや日々の積み重ねは、美しい城壁となる。その城壁の監督者・設計者は神。また、そのような信仰者の胸や心は、神に向かい、天に向かう高い塔のように、時流を抜きん出て、俗世を高く抜け出たものとなる。

 

・神の目に平和を見出す:信仰者はキリストのまなざしやキリストの魂に平和を見出す。キリストが人々の心に本当に平和・平安をもたらす。キリストによって平安を与えられている人が集まって、はじめて真の平和となる。

 

ヨハネ14:27「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」

 

ヨハネ20:19、21、26「あなたがたに平和があるように」

 

詩編122:7「あなたの城壁の内に平和があるように。/あなたの城郭の内に平安があるように。」

 

 

Ⅳ、再臨の希望とそれまでの生き方(8:11~8:14)(旧約1044―1045頁)

 

◇ 8:11

 

ソロモン:雅歌におけるソロモンと羊飼いの若者は、象徴説に立てばどちらも神・キリストの象徴で同一人物であり、戯曲説に立てば別人。ここでは、ソロモンと羊飼いの若者は別人のようであるが、父なる神と子なるキリストと受けとめれば、象徴説でも意味は通じると思われる。王である神、主権者である父なる神の象徴。

 

バアル・ハモン: 岩波旧約聖書翻訳委員会の脚注によれば、聖書中このような地名は存在せず、ヘブライ語の意味は「多くの(富の)所有者」という意味。

 

ぶどう園:エクレシア(集会、教会)の象徴。番人は、それぞれの牧者。万人祭司説に立てば、すべての信仰者がなんらかの意味で、それぞれの立場における番人であり、牧者。すべての人が本当はそれぞれ自分の隣人の番人(創世記4:9)。

⇒ ノルマとして、銀一千枚

 

 

◇ 8:12

 

私の前には私のぶどう園:人は各々、自分の目の前にある役割を果たし、自分に与えられている場やエクレシア(集会)を大切にすれば良い。その地道な日々の積み重ねや、そこでの神からの養いやお育てが一番大事なことで、必要があれば神から必要な時に用いられる。派手な役割を果たす人も、地味な目立たない役割を果たす人も、神の前では優劣はない。モーセダビデも、エッセイやヨセフも、同様に神からの大切な使命を果たした重要な人。

 

ソロモンには銀一千、収穫物の番人には銀二百:前節ではノルマは銀一千枚だったが、「私のぶどう園」の番人であるこの若者は、合計で銀千二百枚をソロモンと他の番人に与えている。これは、定められているルールや期待されている以上に、より多くを与える生き方を指していると思われる。神の真実の愛に触れた人は、おのずと自発的に自由な愛から、より多くを与え、より多く無償で愛する人になる。

 

※ タラントンのたとえ(マタイ25:14―30)、ムナのたとえ(ルカ19:11-27)。人は神から与えられた力や愛や能力をできる限り人のために使い、自分に与えられている賜物を活かすことが神から期待されている。

 

マタイ10:8b 「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」

 

 

◇ 8:13

 

あなたの声を聞かせてください:神は、他ならぬ信仰者その人、他ならぬ私の言葉や声を聞きたがっている。各自一人一人についてそうである。ゆえに、自分自身の信仰や証や感想・感話、信仰告白を、恥ずかしがることなく、エクレシアにおいて機会があれば語ることを、エクレシアも神も喜ぶ。

 

◇ 8:14

 

私の愛する人よ、急いでください:象徴的に受けとめるならば、再臨への待望。再臨の主が生命に満ち満ちてやって来ることへの期待と願い。

 

⇒ K.K先生の再臨についてのお話(2024 3/5):再臨信仰は特定の危機的状況だけに関わるのではなく、人は誰しもが日常という終末を生きている。老いや病や死という、各自が日常という終末を生きている。その中で、先立った人に再び会えるという希望や、この世界や人生や歴史が無意味ではなくて完成に向かっているという希望や意味を与えてくれるのが、キリストの再臨という信仰。

 

 

Ⅴ、おわりに 

雅歌八章から考えたこと

 

・愛は死という最もこの世で強いものと同等に強く、もっと言えば死を滅ぼし死に打ち克ち永遠の生命をもたらす最強のものであること。この福音のメッセージと同じことが旧約聖書である雅歌の中にはっきり書かれていて、感銘深かった。

 

・また、神の愛は炎であり、熱情であり、刻印であり、自発的にこの神の愛を知り、受け入れ、信頼する人は、神によりかかり、神の愛を土台とし、安心して何ものにも押し流されず生きていけること。これは自分の力ではなく、神の愛に心を暖められ、神の炎によって自分の心が燃えて、はじめてできること。

 

・このような神の愛に触れた者は、自発的に、期待されている以上に、与えられている以上に、自ら人々に愛を与える者となること。後世の人に、より良いものを、気高い生き方や聖書の学びの道筋を、渡し遺す者となること。

 

 

※ 雅歌全体を通して考えたこと・学んだこと。

 

・神に立ち帰り、神と一つになることを、人は繰り返し繰り返し生涯の中で繰り返していけば良いこと。すぐに神からは離れ見失っても、また立ち返れば良い。

 

・神はあるがままの自分を、尊い美しい存在として愛し讃えてくださること(罪人をキリストの十字架の贖いを通して)。

 

・神と信仰者の交わり(コイノニア)は、かくも生き生きとしたみずみずしいものであること。春の花々が咲くようなものであること。もし、そうではない、硬直した冷え切ったひからびたものであるなら、それは雅歌が示す聖書の信仰とは程遠いものと思われる。

 

・愛は死よりも強いものあるので、私たちは何も恐れず、キリストの再臨を信じ、安心と希望をもって、日々の眼の前の役割を果たし、自分のぶどう畑を大切にし、神や隣人との豊かな愛の交わり(コイノニア)に生きれば、それが一番素晴らしいこととであること。

 

「参考文献」 

聖書:協会共同訳、岩波旧約聖書翻訳委員会訳、他。 

ウォッチマン・ニー『歌の中の歌』日本福音書房、1999年 他。

雅歌 資料(7)

『雅歌⑦ 私を求める神』 

 

Ⅰ、はじめに 

Ⅱ、信仰者に対する世の引き止め

Ⅲ、信仰者に対する神からの愛の言葉

Ⅳ、神に対する信仰者の愛

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

 

     

 (左:ヘシュボンの遺跡、中央:ダマスカスのウマイヤ・モスクのミナレット、右:カルメル山)

 

前回までのまとめ

 

雅歌はおそらく紀元前10~6世紀のソロモンから南北王国分裂時代にかけてつくられた文書。ラビ・アキバが「全世界も雅歌がイスラエルに与えられた日と同じ価値を持たない。すべての諸書は聖なるものであるが、雅歌はその中でも最も聖なるものである。」と述べ、ヤムニア会議で聖書正典に含まれる。

解釈は大きく四つに分かれる。①象徴的解釈(神とエクレシア(教会・集会)の関係)、②戯曲説、③世俗的恋愛詩集説、④婚礼儀式の際に用いられた歌謡説。本講話では①の立場から読む。つまり、雅歌における「おとめ」=集会ないし信仰者、「若者」=神・キリストとして読む。

前回の六章では、神は唯一無二の存在として、信仰者各自を一人子のように愛し、私たち一人一人を、驚嘆するほど感動する存在として愛してくださっていることや、人は神に立ち帰り神と一つになることを人生の中で繰り返していくことや、人は各自知らぬ間に神に導かれていることを学んだ。

 

・ 雅歌七章の構成 

 

雅歌七章は、三つの部分に分けて読むことができる。第一部では、六章の内容を受け、おとめたち(さまざまな人々)がシュラムの女(信仰者・エクレシア)を引き止めようとする。第二部では、若者(神)からシュラムの女(信仰者・エクレシア)への愛の言葉が語られる。第三部では、信仰者の神に対する愛が語られる。

 

  • 信仰者に対する世の引き止め  (7:1)
  • 信仰者に対する神からの愛の言葉 (7:2~7:10) 
  • 神に対する信仰者の愛  (7:11~7:14)

 

 

Ⅱ、信仰者に対する世の引き止め  (7:1)  (旧約1042頁)

 

◇ 7:1 

 

・ 6章の内容を受けて、魂が神のものとなった(高貴なエクレシアの車に乗った)おとめに対し、おとめたち(世俗の人々)が引き戻そうとするかけ声。

 

戻れ:岩波旧約聖書翻訳委員会訳(以下岩波訳と略称)「振り返れ」。

 

シュラムの女ヘブライ語原文ではショロミートשׁוּלַמִּית。

  • シュラムあるいはシュネムという土地の女性という説。
  • ソロモンの女性形の名詞、つまり「ソロモンの女」「ソロモンの配偶者」という意味だという説。

雅歌におけるソロモン王を、王である神の象徴と受け取るのであれば、2説が妥当で、神と結婚したエクレシア・信者の象徴として受けとめることができる。

 

・世俗の人々は、神への愛に生きるようになった人に対し、とかく世俗的な喜びに引き戻したり、誘惑して神以外のものに心を向けさせようとする(ルカ四章の荒野の誘惑など)。イエスのみならず、それぞれの人の人生において、さまざまな誘惑や試みがありうる。

 

⇒ 信仰者の歩みは、各自、世の誘惑や試みに打ち克ち、神に立ち帰り、神とともに歩んでいく。これは自力では無理であり、そのつど聖書を読み、神に聞きながら、神の導きや御加護を仰いで歩む。

 

※ 世の人々も「あなたの姿が見たい」⇒ なぜ? 

⇒ おそらくは、神を愛し、神と共に生きる人の、光や幸せに、世の人々も心惹かれたり、興味を持ったり、妬んだりするから。ただ単に興味や憧れを持つことであれば、必ずしも悪いことではなく、世の光である信仰者の姿を見て、世の人々が信仰に入るきっかけとなれば大変素晴らしいことと思われる。

 

マハナイム:ヤボク川の近く、ヤベシュ・ギルアドの地。ヤコブが天使を見た地(創世記32:2―3)。「神の陣営」という意味でヤコブが名付けた。直訳すると「二つの陣営」という意味の言葉。

 

⇒ マハナイムの舞とは、ヤコブが天使を見た地で、そのことを記念するための何か神楽のような舞だった?

⇒ 美しい舞踊は、天国や天使の似姿のようで、人々の心に喜びや幸せを与える場合もあると思われる。

⇒ その一方で、ヘロデの娘の踊りが洗礼者ヨハネの死をもたらしたように、悪しき誘惑の舞踊もありうる(マタイ14:6)。

⇒ 「マハナイムの舞」は上記創世記箇所を踏まえれば、神の陣営の舞と思われるので、信仰者の生き生きとした様子やいのちに満ちた姿の喩えと思われる。良い美しい舞踊のように、生き生きと美しく世の光として生きていると、おのずと世の人々もその姿を見たいと思うようになる。

 

⇒ ただし、世の人々の評価や誘惑に引っ張られると、往々にして神から離れてしまいがちだと思われる。特に今の世の中は、SNSの評価や書き込みに一喜一憂し、自殺者まで出る世相である。人の引き止めや誘惑に左右されず、神をこそ仰ぎよりどころとして生きていきたい。

 

 

Ⅲ、信仰者に対する神からの愛の言葉 (7:2~7:10) (旧約1042~1043頁)

 

 

 

◇ 7:2  

 

ナディブの娘:高貴な娘、の意味。前回6章に出てきたアミナディブ(高貴な私の民の車)=エクレシアにすでに乗っている信仰者のこと。

 

:象徴的に受けとめるならば、地面と接する箇所、つまり世俗との接触。信仰者は、世の塵に塗れていても、そのつど十字架の贖いにより清くされ、清いものとして神がみなしてくださる(洗足のエピソード(ヨハネ13章))。

 

:すねとももの総称。人が歩んでいく時に体を支える箇所。象徴的に受けとめるのであれば、その人が人生を歩んでいくその力や歩みを、神が喜び強めて、匠の手つまり神の作品としてくださること(エフェソ2:10)。

 

 

◇ 7:3  

 

へそ、丸い杯、ぶどう酒:母親と赤子がへその緒でつながっているように、神と信仰者も信仰によってつながる。杯になみなみとそそがれるように、私達信仰者も神の祝福や愛が注がれている(詩編23:5b「私の頭に油を注ぎ/私の杯を満たされる」)。ぶどう酒は聖霊や神の恵みの象徴。

 

腹、百合、小麦の山:神の恵みや霊が溢れるようにそそがれ、なみなみとそそがれた杯のようにその神の愛を受けとめた人には、神の言葉や命がその腹に、心と体に満ち満ちている。百合(睡蓮)は羊飼いである神が羊を養う糧(雅歌2:16、同4:5、同6:3)つまり神の御言葉、聖書の言葉。麦は神の命、真の命のこと(ヨハネ12:24)。

 

 

◇ 7:4

 

乳房、ガゼル:胸つまり信仰者の心、エクレシアの人々の心が、ガゼルのように飛び跳ねるほど元気の良い生命や活力に溢れていること。

 

◇ 75  

 

首、象牙、塔:雅歌4:4、雅歌四章資料参照首は、脳と心臓、思考と心をつなぐ場所。天から降りてくる神の言葉とその人の心がしっかりと結びつく場所。それがしっかりとして、美しいものであるという意味。

 

:魂の象徴(マタイ6:22)。

 

バト・ラビムの門:ヘシュボンの町にあった門。

 

ヘシュボンヨルダン川よりも東、現在のヨルダンの中にあった町。アモリ人の王シホンの町だった(民数記21:26)。モーセが征服し、ダビデやソロモンの頃まではユダヤが支配していたが、南北王国時代にモアブやアンモンの領土となった。のちにマカバイ時代やヘロデ大王の時代は再びユダヤが支配した。巨大な貯水池があったことが遺跡の発掘調査でわかっている。

 

⇒ おそらく、バト・ラビムの門も、ヘシュボンの貯水池も、とても美しいものだったのだと思われる。信仰者の魂がそのように美しい澄んだものであること。また、キリストの十字架の贖いにより、そのように清いものとみなされ、また一生をかけて清くされていくこと。

 

鼻、ダマスコ、レバノンの塔:ダマスカスにあった塔のことか。現在のダマスカスではウマイヤ・モスクのミナレットが有名(冒頭の画像)。ウマイヤ・モスクはモスクとなる前はキリスト教の教会で、洗礼者ヨハネの首が眠る場所だという伝説がある。あるいは、レバノンの塔は、レバノン山脈のことか。

⇒ 鼻は、呼吸する場所。象徴的に受けとめるならば、どのような空気を吸うか、世俗の空気ではなく、神に通じる空気をエクレシアや聖書で吸うこと。

⇒ ダマスカスという大都会においても、世俗の塵に染まらず、高く抜きん出て、神の生命に触れて呼吸する生き方。聖書を日々に読む生き方。

 

◇ 7:6  

 

頭、カルメル山、髪、紫:カルメル山は、イスラエルの北西部のハイファにある山。預言者エリヤがバアルの預言者たちを打ち破った場所(列王記上18章)。頭は思考の象徴なので、エリヤのように神に忠実で悪しき考えを打ち破ることができる強い思考力や信念のことか。髪は生命力の象徴、紫は帝王の象徴であり受難のイエスの象徴(ヨハネ19:2)。考えも生命もキリストの十字架の贖いの信仰に満ちていること。人の思考も生命も神に忠実で神の生命に満ちている様子を、神はとても喜び愛してくださる。

 

 

◇ 7:7  

 

喜びに溢れた愛、美しく麗しい:キリスト者は愛に満ち溢れた人生。それは喜びに満ち溢れた人生。暗い陰鬱な辛気臭いものは、聖書本来のキリスト教ではない。

 

◇ 7:8  

 

なつめやし、乳房:メソポタミアやエジプトで紀元前6000年には栽培されていた。 その実(デーツ)は栄養価が高く、図像が古代メソポタミアの壁画に頻出し生命の象徴とされており、聖書の「生命の木」のモデルとも言われる。乳房、つまり胸に、神の生命が満ち満ちていることの象徴。

 

◇ 7:9

 

なつめやしの木に登る:前節を受けて、神が信仰者ひとりひとりの魂の中に入り、その生命を登って、その心をつかむ様子の象徴か。

 

ぶどうの房:ぶどうはキリストの象徴(ヨハネ15:1)。 私たち一人一人の心が自発的にキリストとつながり、キリストというぶどうの木につながることをキリストは望んでいる。

 

息がりんごの香り:息は生命の象徴。生命が十字架の贖いにより清められ、キリストの香りに香る人生となることを、息がりんごの息となったと象徴的に表現。

 ⇒ 島崎藤村ではりんごは初恋の象徴。信仰者と神は、常に生き生きとした初恋のような恋愛状態にあるとも受けとめることができるか。

 

◇ 7:10  

 

口、ぶどう酒、眠っている唇:口や唇は言葉およびその奥にある心の象徴。ぶどう酒は聖霊や神の言葉の象徴。

 

⇒ 信仰者が神の言葉や聖霊に満たされ、その言葉も神の言葉や聖霊に満たされた言葉を語るようになること。それが表層の意識のみでなく、無意識にまでなっていること。

⇒ それが、他の人々にも流れ出すということか。

 

※ 神の信仰者に対する讃辞。これらは、信仰者をキリストの義を通して見てくださるから。創造は愛にもとづいて行われており、各自は神の作品であり、キリストの義を通して、神はこのように各自をかけがえのない存在として愛してくださる。

 

 

Ⅳ、神に対する信仰者の愛  (7:11~7:14) (旧約1043頁)

 

◇ 7:11

 

「私は愛する人のもの/あの方は私を求めています」:神の所有であることの自覚。神と一つになること。

 そのうえで、神が私を求めていることの自覚。

 

⇒ 聖書の神は、信仰者一人一人を求める神であること。

 

「神は絶対者でいられるので、すべての人を絶対者としておとりあつかいになる。つまり、その人だけを取り出してその人の現在になくてならぬことをしていらっしゃる。それで神の賜物は人の立場から比較を許されない。人に対しても、また自分の過去に対しても、一瞬間一瞬間神はそのようにわたし達に対される。それが分かると、どんな時も神から与えられたかけがえのない時として受けることを学ばされる。苦難の時には特別な神の恩恵がある。それが啓示を与えられる時でここで神との交わりに入ることができる。」

(白井きく「ヨハネ黙示録」『第50回塚本虎二先生記念文集』107頁)

 

⇒ 信仰者は、人とは比較できない、その人にとって固有の道のりによって、神へと導かれ、神を愛する信仰を賜る。神は世俗的な価値である肩書や金銭や能力や成功は求めない。ただ、神を信じ愛することを求める。神と正しい関係に入ることを人に対して求める。

 

⇒ しかし、人の側からは神と正しい関係に入ることが不可能なので、神の一方的な恵みであるキリストの十字架の贖いを信じると、罪が贖われ、神と正しい関係に入る。神がまず求めることは、ただこのことである。そのうえで、各自特有の仕方で神と共に歩みながら、神の経綸・統宰・計画の中でなんらかの役割を果たす。それは、エッサイやイエスの育ての親のヨセフのようにほとんど伝わる事績の残らぬ地味な場合もあるが、それもまた非常に重要な役割である。

 

⇒ 信仰者は、ただ十字架の贖いを信じ、神を愛し神を信頼し、聖書に聞いて生きていけば良い。神のものであり、神に求められている自覚を持って生きていけばいい。

 

◇ 7:12

 

野原、ヘンナ:前節を受けて、人は神とともに歩めば、どのようなところにも自由に歩んでいくことができる。広々とした自由な人生が広がる。ヘンナはバラに似た香りの花(雅歌1:14、雅歌一章資料参照)。神の見えない、あるいは神がどこにいるのか見えづらい試練の時(夜の時)も、キリストの香り・聖書の言葉・歴代のキリスト者の香りに包まれて生きていくことができる。

 

◇ 7:13

 

ぶどう畑、つぼみ、ざくろの花、愛をささげる:ぶどうはキリストの象徴。ぶどう畑はエクレシア。つぼみは、それぞれの人の信仰の芽生えで、それらを見守ること。エクレシアが花盛りとは、人が多いことや建築や宣伝が華やかなことではなくて、一人でも真実の信仰を持った人がいることだと思われる。ざくろの花が咲くとは、キリストの死と復活の象徴で、キリストの復活の生命と希望が信仰者に満ちていること。

⇒ このようなエクレシアで、神に愛を捧げること。無教会はそうした場所であり、そうした歴史を持つエクレシアと思われる。大事なことは、神を愛し、神を知り、神を讃えること。社会活動や社会事業や布教や権力ではなく、「私の愛」を神に差し上げることが一番と思われるし、神がそう思っておられるということを雅歌のこの箇所は示していると思われる。

 

◇ 7:14

 

恋なすび:マンドレイク(マンドラゴラ)。ヘブライ語のドゥダイームは、女性からの愛を意味する「ドード」と関連して愛や性愛や多産の象徴ともされ、芳香があり媚薬にも使われた。幻覚作用や毒性がある。

 

⇒ ここでは、神と信仰者との愛や愛の陶酔を象徴していると思われる。

 

戸口:神の愛に、心の扉を開いて戸口で待っている神にすでに心を開いている状態であること。良き信仰の実を結んでいること。

 

新しい実と古い実:新約聖書旧約聖書のこと。どちらも神の言葉であり、神の御心を知り、神のメッセージを聞くために重要。

 

⇒ また、各民族には、各民族にとっての旧約とも言うべき、それぞれの各民族固有の歴史がある。日本における古典や歴史という「古い実」も、キリストの福音という「新しい実」とともに大切にし、日本的キリスト教の糧とすること(武士道に接ぎ木されたキリスト教)。

 

 

Ⅴ、おわりに 

雅歌七章から考えたこと

 

・世俗的な誘惑や試みがしばしば信仰者を引き戻したり妨げようとすることが

あるが、神を信じ聖書を学んでそれらを各自が乗り越えていくことの大切さ。あまり肩ひじをはらず、「マハナイムの舞」(神の陣営の舞)のように、かろやかにあまり争わず、自分が自分としてしっかりと聖書を読み祈っていけば、神の導きや御加護によって歩み通していけるのではないかとも思われる。

 

・神は十字架の贖いを信じて義とされたものを、こよなく尊い愛すべき存在として讃えて愛してくださる。神の生命に満ちた信仰者やエクレシアを喜び、愛してくださる。このような愛が先にあるから、人はまた立ち上がって、人生やこの世が良いものであると、良いものでありうると信じて、生きていくことができる。

 

・信仰者は、神のものであり、神に求められているという自覚のもとに歩む時に、広々とした野原を歩む自由と逞しさを得られると思われる。神に求められ、神へと至るまでの道のりを、神のものであり神とともに歩むゆえに神に導かれて歩むことができる。新しい実と古い実の両方がその糧となる。

 

「参考文献」 聖書:協会共同訳、岩波旧約聖書翻訳委員会訳。 

雅歌 資料(6)

『雅歌⑥ 唯一の存在としての愛』 

 

Ⅰ、はじめに 

Ⅱ、神と一つであること

Ⅲ、唯一の存在としての愛

Ⅳ、知らぬ間に信仰に導かれること

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

     

(左:エルサレム、中央:嘆きの壁、右:ティルツァ )

 

前回までのまとめ

 

雅歌はおそらく紀元前10~6世紀のソロモンから南北王国分裂時代にかけてつくられた文書。ラビ・アキバが「全世界も雅歌がイスラエルに与えられた日と同じ価値を持たない。すべての諸書は聖なるものであるが、雅歌はその中でも最も聖なるものである。」と述べ、ヤムニア会議で聖書正典に含まれる。

解釈は大きく四つに分かれる。①象徴的解釈(神とエクレシア(教会・集会)の関係)、②戯曲説、③世俗的恋愛詩集説、④婚礼儀式の際に用いられた歌謡説。本講話では①の立場から読む。つまり、雅歌における「おとめ」=集会ないし信仰者、「若者」=神・キリストとして読む。

前回の五章では、再臨を待つ中間の時代においても、神を愛し神を友として生きていくことができることを学んだ。

 

 

・ 雅歌六章の構成 

 

歌六章は、三つの部分に分けて読むことができる。第一部では、五章の内容を受け、おとめたち(さまざまな人々)が神はどこにいるのか?と尋ね、おとめ(信仰者・エクレシア)は若者(神・キリスト)は園で羊を飼っていると答え、その神と一つと述べる。第二部では、神がおとめを唯一無二の存在として愛していることが告げられる。第三部では、信仰者は、知らぬ間に、エクレシアという神の車に乗せられ、神の導きと支えに恵まれていることが告げられる。

 

  • 神と一つであること  (6:1~6:3)
  • 唯一の存在としての愛 (6:4~6:11) 
  • 知らぬ間に信仰に導かれること  (6:12)

 

 

Ⅱ、神と一つであること (6:1~6:3)  (旧約1041頁)

 

◇ 6:1 

 

・5章の内容を受けて、再臨の時まで神を待ち、神を愛するという「おとめ」(信仰者・エクレシア)に対して、その神はどこにいるのか?と「おとめたち」(他宗教の人たち、あるいは世俗的な人たち)が尋ねる。

→岩波旧約聖書翻訳委員会訳(以下、岩波訳と略称)の脚注では、からかいの調子と解釈している。

→必ずしもからかいとのみ受け取らなくても良いと思われる。むしろ、少し興味が出てきた人たち、といったところか。

 

◇ 6:2  園、香料:前回5章の資料参照。エクレシア・信仰者の魂と、キリストに薫ぜられた人生の香りのこと。

 

群れ:羊飼いである主(ヨハネ10:11「私は良い羊飼いである」)

百合:岩波訳では「睡蓮」。信仰を集める、救われた魂を集める、清らかな魂を集める、といった意味か。

 

◇ 6:3  「私は愛する人のもの。私の愛する人は私のもの。」

 

→ 信仰者は神のものであり、神は信仰者のもの。神との合一。

 

よく似た箇所、すでにあり。

 

雅歌2:16「愛するあの方は私のもの。私は、百合の中で群れを飼っているあの方のもの。」

 

→ 繰り返し、人は神に立ち返り神と一つになり、しばしばまた迷いや罪のゆえに離れてしまい、また立ち返って一つとなることを繰り返す。ゆえに雅歌は神と一つになることを繰り返し書いている。

 

Ⅰコリ3:23a「あなたがたはキリストのもの」

 

Ⅰコリ6:17「しかし、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。」

 

ガラテヤ2:20a-b「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」

 

「あの方は百合の中で群れを飼っています」

→ 主キリストは信仰のある魂を集め、信仰者を導き率いる。

 

 

Ⅲ、唯一の存在としての愛 (6:4~6:11) (旧約1041~1042頁)

 

※ 神が信仰者・エクレシアを唯一無二の存在として愛する愛の言葉が告げられる。

 

◇ 6:4

 

ティルツァ:イスラエル王国の首都だった町(B.C.900-B.C.870)。北イスラエル王国は、シケム→ティルツァ→サマリアと遷都した。バシャ、エラ、ジムリ、オムリの治世の時代の首都(オムリ王の時に遷都)。

 

ティルツァに言及されるので、ティルツァ首都時代に雅歌の少なくとも一部は遡るのではないかとも推測される。

 

→ その美しさは、今日の遺跡からは想像が難しいが、バシャ朝あるいはオムリ朝における栄華により美しい都市だったと推測される。

 

→ 信仰者・エクレシアは、最も美しい都市のように美しいとされる(今日で言えば、パリやウィーンやヴェネツィアのように美しいといったところか。)

 

エルサレムダビデ王朝(統一王朝および南ユダ王国)の首都。バビロン捕囚中、および帰還後、さらにはディアスポラの後も、ずっとユダヤの民にとって精神的な都であり続けた。

 

→ 神の選民であるユダヤの民の都であり、神の特愛の都市エルサレム。そのように、神の目からは信仰者・エクレシアは愛しいかわいい存在だということ。

 

 

※ 若干の紹介エルサレムについて

 

エルサレムの詩―イェフダ・アミハイ詩集』(思潮社、2004年)

 

現代のエルサレムを風刺やユーモアを散りばめながら謳った詩集。

その中の一節:

 

「ぼくの心のなかに平和がないから

外には戦争。

ぼくの内なる戦争を 心のなかにとどめておけなかった。」

 

→ 重要な言葉と思われる。自らの心を見つめること。

c.f.「平安から平和が生まれる。その反対ではない。」(塚本虎二)

 

イスラエルパレスチナのどうしようもない確執。

(参照・Netflix動画『シモン・ペレス 生涯の軌跡 -夢を信じて-』、同ドラマ『ファウダ ―報復の連鎖』)

 

エルサレムもガザも、聖書に登場する都市。

2023年10月7日以来のイスラエル・ガザ戦争も、かつてない事態。

 

10.7のテロでは、イスラエル人1200人が殺害され、240人以上が人質になった。

今も136人が人質になっている。ガザの市民の死者数は2万4000人以上とされている。

 

人質の解放を願うイスラエルの家族や支援者たちの愛:

 

1000 Israeli musicians sing with one voice, BRING THEM HOME! - Homeland concert (カイザリア円形劇場、2023年12月29日)

https://www.youtube.com/watch?v=1aIyZnFbOu0&list=RD1aIyZnFbOu0&start_radio=1

 

→ 今日、最も重大な問題を抱えているイスラエルエルサレムだが、神は格別の愛をそそぎ、問題を抱えたエルサレムをそれらごと愛し、悲しみ、その痛みを痛みとされていることと思われる。

 

BFPという団体の話:ガザ地区のクリスチャン二百人が避難先で、キリストが現れる同じ夢を見たとの証言。

 

ヒズボラ戦闘員キリストと出会う「憎しみから赦しへ」

https://www.youtube.com/watch?v=psRvkxOYnjQ&list=WL&index=5

 

モサブ・ハッサン・ユーセフ、青木偉作訳『ハマスの息子』(幻冬舎、2011年)

→ ハマス幹部の息子の著者が、キリスト教に改宗した実話。

 

⇒ ティルツァやエルサレムのような、都市のように人を美しいと思い、愛すること。神の目には、一人の命と大都市の多くの命は等価である(ルカ15章、見失った一匹の羊、無くした一枚のドラクメ銀貨、放蕩息子の帰還)。

 

そうであれば、そのように大切な一人一人の命の集まった都市もまた、神の哀れみや慈愛の対象。

 

ヨナ書4:11「それならば、どうして私が、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、おびただしい数の家畜がいるのだから。」

 

マタイ23:37「「エルサレムエルサレム預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」

 

⇒ エルサレムとガザの平和を祈る。キリストのみどうにかできる事柄。

⇒ 私たち自身が平安の人となること。

 

軍旗:ニドガロート。岩波訳「蜃気楼」。

 

雅歌2:4b「私の上にたなびくあの方の旗印は愛です。」

→ キリストの愛の旗印のもとにいる人。

(蜃気楼だとすれば、神の栄光を反射した存在で、かつ儚い存在ということか。)

 

恐ろしい:アヨーム。聖書の中で、雅歌の他にハバクク1:7以外に用例なし。ハバクク1:7では「身の毛もよだつ」と訳されている。

→ 今で言えば、「鳥肌が立つ」といった意味か。

 

キリストの愛の旗のもとにある、十字架の信仰を持つ人は、神にとって鳥肌が立つほど感動し、重要な存在だということ。

 

詩編139:13-14「まことにあなたは私のはらわたを造り/母の胎内で私を編み上げた。あなたに感謝します。/私は畏れ多いほどに/驚くべきものに造り上げられた。/あなたの業は不思議。/私の魂はそれをよく知っている。」

 

◇ 6:5  目をそらしてください:照れる恋人は、相手の視線を恥ずかしがる。それほどに、神は初々しい生き生きとした愛や恋心を信仰者に抱くということか。あるいは、そんなに必死に神を向いて祈らなくても、いつもちゃんと愛して見守っているので安心しろということか。

 

髪は山羊の群れのよう:生命力に満ちている様子。(雅歌4章資料参照)

 

◇ 6:6  歯は洗い場からの羊の群れ:白い歯。罪から清められた言葉。

 

それらが双子を産む:神によって清められた言葉が、実を結ぶこと。

 

※ 参照:

箴言12:14「人は口の言葉が結ぶ実によって/良いもので満たされる。/人の手の働きはその人自身に戻る。」

箴言18:21「死も生も舌の力によっており/舌を愛する者はその実りを食べる。」

 

エフェソ4:29「悪い言葉を一切口にしてはなりません。口にするなら、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるために必要な善い言葉を語りなさい。」

 

◇ 6:7  ざくろ血色の良いたとえ。あるいは、復活の生命力。

 

◇ 6:8  王妃は六十人、側女が八十人云々:多くの人がこの世にはいること。多くの存在があること。

 

◇ 6:9

 

私の鳩、私の汚れなき人:神は信仰者の魂を無垢なもの、純真なものとして愛してくださる(十字架の罪の贖いにより)。

 

ただ一人:神は信仰者一人一人、その人を、かけがえのない唯一の存在として愛してくださること。

 

母の一人娘、輝いている娘:神は、信仰者一人一人を、母が一人子を愛するように慈しんでいる。また、そのように大切な存在であることを認識している。

 

⇒ どのような人も、その親にとっては大切な子どもだと思うと、大切に思えてくる。 (c.f. 遠藤周作の話)

また、エクレシアでは、父・母・兄弟・姉妹と思うことが聖書では勧められている。これも、神の愛に触れて、その感化を受けたらそうなるということだと思われる。

 

Ⅰテモテ5:1-2「年長の男性を叱ってはなりません。むしろ、父親と思って諭しなさい。若い男性は兄弟と思い、年長の女性は母親と思い、若い女性には常に純潔な思いで姉妹と思って諭しなさい。」

 

※ 神が一人子のように慈しんでくださるので、唯一の神を愛する。

申命記6:4-5「聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。」

 

幸せな人:信仰を持ち、神との愛の交わり(コイノニア)に入る人は、幸せな喜びに満ちた人生を送ることができる。

 

ルカ11:28「しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」」

 

◇ 6:10  暁の光:朝の明け方の日の出の光のように、荘厳で美しい生き生きとした生命力に満ちた存在として、信仰者を神は見てくださる。キリストの生命とつながり、キリストの生命に満ちているから。

 

:レバーナー。白というのがもともとの意味。罪の清められた存在であること。義の太陽であるキリストの光を反射する存在であること。

 

太陽のように輝き:義の太陽(マラキ3:20)であるキリストの光を受けて世の光となること。キリストの生き方を学び、キリストのように歩むこと。

 

軍旗のように恐ろしい:雅歌6:4参照。キリストの愛の旗のもとにある信仰者を、感動するほど尊いものとして神は愛してくださる。

 

◇ 6:11  くるみの園:くるみ(egoz)は、聖書中雅歌のこの箇所だけ登場する。実りのある人生、実りのある魂、そのような信仰者の魂ということか。

 

川辺の新芽:信仰者・エクレシアの信仰の、芽が出て、育つことを、神は待ち、見守ってくださる。

詩編1:3「その人は流れのほとりに植えられた木のよう。時に適って実を結び,葉も枯れることがない。その行いはすべて栄える。」

 

ぶどうの木のつぼみ:キリストというぶどうの木につながれば、つぼみとなり、花となり、実を結ぶ人生となる。

ヨハネ15:1「私はまことのぶどうの木」

 

ざくろの花:ざくろは死と復活の生命の象徴(雅歌4章資料参照)。信仰者が、

信仰により永遠の生命を生きること。

 

Ⅳ、知らぬ間に信仰に導かれること  (6:12) (旧約1042頁)

◇ 6:12  アミナディブ:「高貴な私の民の車」という意味。

 

→ 信仰者は、知らぬ間に、エクレシアという高貴な神の車に乗せられていること。

 各自の魂が、神を意識・無意識に愛して、神を求めているので。また、神が、各人を愛し、それぞれに合わせて導くので。

 人は、いつの間にか、神へと導かれ、神の車に乗る、エクレシアに加えられる。

 

映画『バラバ』:神に逆らった道のりのすべても神へと至る道のりだったこと。

遠藤周作『深い河』:人の人生は神の河へと至る。

 

私自身、さまざまな、気づかぬうちの神のはからいにより、いつの間にかキリストへの信仰に導かれたと思われる。神が、私を一人子のように愛し、守り、育み、導いてくださったから。

 

ロマ11:36a「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」

 

イザヤ46:3-4「聞け、ヤコブの家よ/またイスラエルの家のすべての残りの者よ/母の胎を出た時から私に担われている者たちよ/腹を出た時から私に運ばれている者たちよ。あなたがたが年老いるまで、私は神。/あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。/私が造った。私が担おう。/私が背負って、救い出そう。」

 

Ⅴ、おわりに 

歌六章から考えたこと

・神は唯一無二の存在として、信仰者各自を一人子のように愛していること。私たち一人一人を、驚くべきものとして、驚嘆するほど感動する存在として愛してくださっていること。

・人は神に立ち帰り、神と一つになることを、再三再四、人生の中で繰り返していく。迷いや罪のゆえに神と離れてしまっても、また立ち帰れば良い。

・人は各自、知らぬ間に神に導かれている。神の高貴な車=エクレシアに、気づかぬうちに導かれ、乗っている。

 

「参考文献」 聖書:協会共同訳、岩波旧約聖書翻訳委員会訳。 

雅歌 資料(5)

『雅歌⑤ 中間の時代における神への愛』 

 

Ⅰ、はじめに 

Ⅱ、神が来たこと

Ⅲ、中間の時代

Ⅳ、神の姿

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

   

(左:ウィリアム・ホルマン・ハント「世の光」、中央:ラファエロ「キリストの変容」、右:ティツィアーノ「キリストの変容」 )

 

前回までのまとめ

 

雅歌はおそらく紀元前10~6世紀のソロモンから南北王国分裂時代にかけてつくられた文書。ラビ・アキバが「全世界も雅歌がイスラエルに与えられた日と同じ価値を持たない。すべての諸書は聖なるものであるが、雅歌はその中でも最も聖なるものである。」と述べ、ヤムニア会議で聖書正典に含まれる。

解釈は大きく四つに分かれる。①象徴的解釈(神とエクレシア(教会・集会)の関係)、②戯曲説、③世俗的恋愛詩集説、④婚礼儀式の際に用いられた歌謡説。本講話では①の立場から読む。つまり、雅歌における「おとめ」=集会ないし信仰者、「若者」=神・キリストとして読む。

前回の四章では、神が(信仰を持つ)人の美しさをあるがままに愛して褒め讃え、人もまた神を心に受け入れて人生の順境も逆境も受け入れて生きていくことを学んだ。

 

 

・ 雅歌五章の構成 

 

雅歌五章は、三つの部分に分かれる。若者とおとめを神とエクレシア・信仰を持つ人の比喩ととらえるならば、第一の部分は、その直前の四章を受けて、神が人の魂を愛し楽しむことを記している。第二の部分は、人が神を心に受け入れたことと、しかし神が去ってしまい、再臨を待つ中間の時代において迫害が起こることが記される。第三の部分では、真の神がいかに神々しく美しい愛の対象であるかが歌われる。

 

  • 神が来たこと  (5:1)
  • 中間の時代 (5:2~5:8) 
  • 神の姿  (5:9~5:16)

 

 

Ⅱ、神が来たこと  (5:1)  (旧約1040頁)

 

◇ 5:1 

 

園:心の園、魂のこと。神が、信仰者の魂に来たり至ったこと。

 

没薬と香料:十字架の信仰を持ち、キリストの香りに染まった信仰者の香り。

 

蜜のしたたる蜂の巣:信仰者が聖書や神に学んで得て蓄積してきた知恵。

 

ぶどう酒とミルク聖霊や神の恵み、清め。

 

→ これらの、神の愛や恵みにより人がその魂において得たものを、神は「私の」香りや蜜として、愛して享受してくださる。人の一生は神への捧げ物、神はその捧げを喜んで愛して受け取ってくださる。

 

「友人たちよ、食べなさい。恋人たちよ、飲んで酔いなさい。」

→ 神の到来を共に喜び、祝うこと。エクレシアは喜びの交わりであること。苦行ではなく、イエスは、イエスとともに人々が喜び楽しむことを喜びとされた。

 

 

Ⅲ、中間の時代 (5:2~5:8) (旧約1040~1041頁)

 

あらすじ:神が心の扉を叩く。信仰者は開けるが、神は姿を消してしまう。信仰者は迫害を受ける。神が再びやって来るまでの間、信仰者は神を待つ。

 

◇ 5:2 

 

協会共同訳「私は眠っていたが、心は覚めていました。」

岩波旧約聖書翻訳委員会訳「私は眠っているのに、心は覚めている」

 

→ かつては霊的に鈍くなって眠った状態だったが、神の呼びかけや働きかけに気付くようになった。

 

愛する人が戸を叩いている」:神が人の心の扉を叩くこと。

 

ヨハネの黙示録3:20

「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人と共に食事をし、彼もまた私と共に食事をするであろう。」

 

→ 神は常に、はるか昔から、人の心の扉を叩き、人が扉をあけて神を迎え入れることを待っている。

 

※ パトリシア・セントジョン『雪のたから』(世界名作劇場のアニメ『わたしのアンネット』の原作)。作者は、第二次大戦の直後に、ベルゲンの強制収容所の写真を見てショックを受け、また大戦の後の人々の相互の憎悪を見て、「許し」をテーマにした作品を書きたいと思いこの作品を描いた。誰かを憎むことは神に対して心を閉ざすことであり、心の扉を開いてキリストを迎え入れる時に愛と光が差す。愛は恐れを締め出す。

 

※ 私の人生を振り返っても、なかなか気づかず、随分遠回りをしたように思うが、常にキリストは心の扉を叩き続け、働きかけてくださっていたと今にして思う。

 

:魂が純真なこと。神はそのように信仰者をみなしてくださること(十字架の贖いを通じて)。

 

夜露:神が長い時間、外で寒い中に待たされたことのたとえ。私たちは、どれほど長い間、扉の外で神を待たせてきたことか。

 

 

◇ 5:3 

 

衣を脱ぐ:ゼカリヤ3:3-5「ヨシュアは汚れた衣を着て、御使いの前に立っていた。御使いは自分の前に立っている者たちに言った。「彼の汚れた衣を脱がせなさい。」そして御使いはヨシュアに言った。「見よ、私はあなたの過ちを取り除いた。あなたに晴れ着を着せよう。」また、御使いは言った。「彼の頭に清いターバンを巻きなさい。」そこで彼らは、ヨシュアの頭に清いターバンを巻き、衣を着せた。主の使いは傍らに控えていた。」

 

→ 神は罪の衣を脱がせ、キリストという義の衣を着せてくださる。

イザヤ61:10「私は主にあって大いに喜び/私の魂は私の神にあって喜び躍る。/主が救いの衣を私に着せ/正義の上着をまとわせてくださる。/花婿が頭飾りをかぶり/花嫁が装飾品で飾るように。」

 

→ 罪の衣を脱いだら、再び着たいとは思わないはずということ。

 

足を洗った:神は罪を清めてくださる。ヨハネ13章洗足のエピソード。そしてまた、互いに足を洗い合うべき(ヨハネ13:14)。互いに許し合い、罪を悔い改めて正しく導き合う。

 

→ 罪から足を洗ったならば、再び罪を犯したいと思わないはずということ。

 

 

 5:4  

 

隙間から手を差し伸べる:神は人が固く閉ざした心の扉を、わずかな隙間から光を差し入れ、ときほぐしていく。ほんの少しのきっかけや縁を通じて、人は神に導かれていく。

 

胸が高鳴る:神の愛に触れることが、人の魂に最上の喜びをもたらす。

 

 

 5:5 

 

戸を開けようと起き上がる:神は人が神を求める時に、即座に応えてくださる。扉を開けるとただちに光が差しこむ。(ゼカリヤ1:3、ヨナ2:3)

 

没薬:葬式やミイラに用いた香料。十字架のキリストの贖いが溢れるばかりに恵みとなって信仰者に与えられたこと。

 

 

 5:6  

 

神が去り、捜し求める:受肉したキリストは、十字架による死を迎えた。それは罪の贖いとして定められたことではあったが、キリストは死んで、復活した後に昇天し、この地上に肉体を持った存在としてはいなくなってしまった。

 

→ ずっと一緒にいると思っていた時には、弟子たちはキリストの本当の心がわからなかった。

→ 死んで、去ってしまったあとに、はじめて本当のキリストの心に出会い、キリストを求めた。

 

※ 初臨・十字架・高挙 → 中間の時代 → 再臨・終末

 

中間の時代においては「神の国」と「地の国」がせめぎ合う(アウグスティヌス)。

 

 

 5:7  神は信仰者のあるがままを愛する。が、世間はそうではなく迫害をする。

 

夜警・城壁の見張りが打ち、剥ぎ取る:キリストに従う者は、この世において迫害を受ける。

西暦64年のネロの迫害から303年のディオクレティアヌスによる迫害までの間に、推定で80万人以上のキリスト教徒が殉教。

日本の江戸幕府による迫害にでも、推定20万人が殉教と言われる。

その他、世界中でキリスト者はしばしば迫害に遭ってきた。

 

また、しばしば、教会や精神的な指導者たちから、キリスト者は迫害を受けて弾圧された。異端審問。ルターの宗教改革に対するカトリックの圧迫。その前史としてのフスの焚殺。内村鑑三に対する教会の白眼視etc.

 

キリスト者は、世俗権力からも、先行する教会や精神的指導者たちからも、しばしば迫害を受けてきた。

 

 

◇ 5:8  

 

再臨のキリストを待ち望み、恋い焦がれていること。

 

 

Ⅳ、神に愛された人の生き方 (5:9~5:16) (旧約1041頁)

 

◇ 5:9 

 

おとめたち:諸々の他の宗教という意味。あるいは、エクレシアの中の他の人々から、信仰者に対し、キリストのどこが他に優っているかと尋ねられている。

 

※ キリストをなぜ他に優って愛するのか?

 

→ 私の場合、一言では言いにくいが、やはり格別に優れているので愛する。何が優れているかというと、その愛のあたたかさと麗しさにおいて。

 

ポリュカルポス(2世紀前半)「私は86年間キリストに仕えてきましたが、彼は決して私に対して悪いことをしませんでした。どうして、私を救ってくださった私の主を冒涜することができましょうか」

 

 

□ 5:10~16 あらすじ:主の姿、キリストの姿

 

参照 黙示録1:12~16

「私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の間には人の子のような方がおり、足元まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めていた。その方の頭髪は白い羊毛に似て雪のように白く、目は燃え上がる炎、足は燃えている炉から注ぎ出される青銅のようであり、声は大水のとどろきのようであった。また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が突き出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」

 

→ キリストは「見えない神のかたち」(コロサイ1:15)なので、キリストを見れば神の姿がわかる。

 

 

◇ 5:10  

 

神は輝いている:「義の太陽」(マラキ3:20)

 

赤銅色:岩波旧約聖書翻訳委員会訳「赤く輝き」 

→ 大工だったので、健康的に日焼けしていた?

 

万人に抜きんでている:人類の歴史上、イエスは卓越している(セントヘレナ島のナポレオンが、余に従う者はほとんどもはやいないが、キリストは死後千数百年経っても未だにキリストのために命を捨てる人が何千何万といると羨ましがったという)。

 

 

◇ 5:11

 

頭は金:太陽のように輝いているという意味か。思いや考えが純粋で永遠の愛であること。

 

髪は波打ち:生命力が豊か、いのちに満ちていること。「波打ち」の原語タルタリームは他に用例がなく意味不明の語。岩波旧約聖書翻訳委員会訳では「なつめ椰子の房」。

 

烏のように黒い:ルカ12:24「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりもどれほど優れた者であることか。」

→ いのちを神に委ねきっている。

 

 

◇ 5:12 

 

目が鳩のよう:純真であること。

 

谷川のほとり詩編42:2「鹿が涸れ谷で水をあえぎ求めるように/神よ、私の魂はあなたをあえぎ求める。」 → 神を慕い求めること。

 

→ 神を純真にまっすぐに慕い求める。

 

ミルクで洗われ:神の恵みで洗い清められ、恵みに満たされている。

 

豊かな水辺に止まっている:神の恵みにいつもとどまっている(詩編23)。

 

 

◇ 5:13 

 

香料の頬、百合の唇、没薬の滴:神の香り、キリストの香りに満ちた言葉。純潔の言葉、清らかな言葉。十字架の罪の贖いが滴る。

 

 

◇ 5:14

 

かんらん石:オリーブ色、緑色の美しい宝石。祭司の胸当ての十二の宝石の一つ(出エジプト記28:20)。十二の宝石は十二部族を象徴している。また、神の幻における車輪がかんらん石でできている(エゼキエル1:16)。

 

「手はかんらん石をはめた金の円筒」→ 手のひらにいつも神の民を刻んで神の民のことを思っている。あるいは、神のことを刻んで、いつも神を思っている。純粋に、永遠に。

 

ラピスラズリ:祭司の胸当ての十二の宝石の一つ(出エジプト記12:18)。

また、神の足の下はラピスラズリ

出エジプト24:10「イスラエルの神を仰ぎ見た。その足の下にはラピスラズリの敷石のようなものがあり、澄み渡る天空のようであった。」

 

→ 胸にラピスラズリを散りばめるとは、いつも神のことを思い、また神の民のことを思うこと。神を愛し、隣人を愛する(マルコ12:29-31)。

 

 

◇ 5:15

 

脚が大理石、純金の台座:固くゆるぎない信仰、神の言葉をそのとおりに実践するので確かな土台がある(マタイ7:24-25)。

 

姿はレバノン山、杉の木:日本で言えば、姿が富士山と言うようなものか。いつも真白い美しいゆるぎない姿。杉はまっすぐな様子。

 

「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変わらざりけり」

山岡鉄舟

 

→ キリストは常に変わらず、まっすぐで誠実である。

 

ヘブライ13:8イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。」

 

Ⅱテモテ2:13「私たちが真実でなくても/この方は常に真実であられる。/この方にはご自身を/否むことはできないからである。」

 

 

◇ 5:16

 

神の言葉はすべて甘美で慕わしい

 

「これが私の愛する人、私の友人」:信仰者にとって主イエス愛する人であり、友である。

 

ヨハネ15:14-15「私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。私はもはや、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなたがたを友と呼んだ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

 

出エジプト33:11a「主は、人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」

 

ヨブ記16:19-21「今も天に私の証人がいる。/私のために証言してくれる方が高い所にいる。私の友は私を嘲るが/私の目は神に向かって涙を流す。この方が神に向かって人のために/人の子とその友の間に立って/弁護してくれるように。」

 

神の友となること。神との交わり、コイノニアに生きること。

 

アブラハムモーセダビデらは、神と常に語らい生きた。

エスは、そのように人が神を愛し、神と語らい生きることを求め、喜ぶ。

 

→ 初臨と再臨の間の中間の時代においても、私たちは神を愛し、神を友として生きることができる。そのことを、神もまた喜んでくださる。

 

 

Ⅴ、おわりに 

雅歌五章から考えたこと

 

・神は常に人の心の扉を叩き、隙間から手を差し伸べ、人の心に迎え入れられるのを長い間待ってくださっていること。

・中間の時代において、多くの先人たちが迫害や試練に遭い、それでも福音を信じ、生きのびて伝え続けてきたこと。

・イエスのように神を愛し、人を愛することの大切さ。

・中間の時代においても、キリストを友として生きていくことができること。キリスト教は神を友として生きることができる稀有な道。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、岩波旧約聖書翻訳委員会訳。

雅歌 資料(4)

『雅歌④ 神の愛の言葉』 

 

Ⅰ、はじめに 

Ⅱ、神の人に対する愛のことば

Ⅲ、神に愛された人の生き方

Ⅳ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに    

    

(左:レオナルド・ダヴィンチ「受胎告知」、右:上ライン地方の画家「楽園としての庭に座すマリア」 )

 

前回までのまとめ

 

雅歌はおそらく紀元前10~6世紀のソロモンから南北王国分裂時代にかけてつくられた文書。ラビ・アキバが「全世界も雅歌がイスラエルに与えられた日と同じ価値を持たない。すべての諸書は聖なるものであるが、雅歌はその中でも最も聖なるものである。」と述べ、ヤムニア会議で聖書正典に含まれる。

解釈は大きく四つに分かれる。①象徴的解釈(神とエクレシア(教会・集会)の関係)、②戯曲説、③世俗的恋愛詩集説、④婚礼儀式の際に用いられた歌謡説。本講話では①の立場から読む。つまり、雅歌における「おとめ」=集会ないし信仰者、「若者」=神・キリストとして読む。

前回の三章では、夜(神の見えない時)に神を求めることと、神が人の自発的な愛を喜ぶことを見た。

 

・ 雅歌四章の構成 

雅歌四章は、二つの部分に分かれる。ほとんどの部分を占める前半は、若者がおとめの美しさをさまざまな譬えによって誉め讃える。後半は、おとめが自分という園を風が吹くことを受け入れ、神を呼ぶ言葉が記される。

それぞれ象徴的に読むならば、神が人をあるがままに美しい存在として愛してくださっていることと、人が自らの人生の順境も逆境も受け入れ、神を自分の心に迎え入れることだと受けとめることができる。

 

  • 神の人への愛のことば  (4:1~4:15)
  • 神に愛された人の生き方 (4:16) 

 

 

Ⅱ、神の人に対する愛のことば  (4:1~4:15)  (旧約1038-1039頁)

 

あらすじ:若者(象徴的に受けとめるなら神・キリスト)がおとめ(信仰者、エクレシア)に対し、その美点を誉め、愛の言葉を語る。

 

→ 神が人の美しさをあるがままに褒めたたえる言葉が続く箇所。これらは、創造の本来の姿、つまりアダムとイブの堕罪と失楽園の前の、エデンにおける人への神の愛の言葉と受けとめることもできる。キリスト者にとっては今現在、キリストの十字架の贖い(ロマ3:21-24)の後にはこのような愛が神からそそがれ、神の目からこのように自分は慈しまれていると受けとめることができる。

 

◇ 4:1 恋人の美しさ、目、髪

 

「なんと美しい」:美しさへの感嘆、讃嘆。神は万物を善きものとして本来創造した。その根底には神の愛がある。

参照・創世記1:31「神は、造ったすべてのものを御覧になった。それは極めて良かった。」

 

「ベールの奥の目は鳩のよう」:目は魂のこと、精神のこと(マタイ6:22-23)。つまり、外見や肩書や役割などの奥底にある魂を神は見ること。また、その魂が鳩のように素直で純粋であると見てくださること(マタイ10:16)。

あるいは、イエスに降りそそいだ霊が「鳩のよう」と記されていることを考えれば(マタイ3:16)、魂に神の霊が宿っていることを神は見てくださるという意味。

 

:生命力の象徴。(サムソンの逸話(士師記16章))。生命力が流れていること。

ギルアドの山ヨルダン川東の山地。荒々しい岩山。

 

→ つまり、その人の生命力が生き生きと流れていることを、神が美しく愛しいと思ってくださっているということ。

 

 

◇ 4:2 歯が羊のよう、清い=心、言葉が清められていること

 

=口にあり、言葉の出るところ。つまり、人の言葉、心のこと。

参照・創世記49:12「目はぶどう酒よりも赤く/歯は乳よりも白い。」

 

洗い場から上って来る:罪を洗い清められた。(霊による)洗礼を受けた、の意味か。

 

毛を刈られる羊の群れのよう:主という羊飼いに素直に付き従う信仰者、エクレシア。ぶどうの枝のようにきれいに刈り込まれる(ヨハネ15章)。

 

皆、双子を産み、子を産む:人生において、霊の実を結ぶということ。

 

参照:ガラテヤ5:22-23「これに対し、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。」

 

→ 人生において、神への愛、人への愛の実践という実を結ぶこと(ヨハネ15:2、ルカ13:6-9)

 

◇ 4:3 紅の糸、ざくろ

 

唇は紅の糸、口元は愛らしい:生気に満ちて美しいこと、その様子が神から見て愛の対象であること。

あるいは、その人の口から出る言葉が神の言葉としっかりつながっていること(=糸、結ばれている)、キリストの命としっかり結びつき、愛の言葉に満ちていること。

 

ざくろキリスト教においては、キリストの苦難と復活の象徴(ボッティチェリのザクロの聖母など)。心臓の象徴。

    

「ザクロの聖母」、左:ボッティチェリ、右:フラ・アンジェリコ

 

→ その顔、魂にしっかりと、キリストの命をいただいていること。

 

 

 4:4  首は塔、盾

 

首:脳と心臓をつなぐ場所、思考と心・命をつなぐ場所。あるいは、天から降りてくる神の言葉と、その人の心がしっかりと結びつく場所。

 

→ 首が「何層にも重なったダビデの塔のよう」とは、考えと心が、神の言葉とその人の心が、堅固にしっかりと結びついていて、鉄壁ということ。

 

千の盾、勇士の盾:この世には多くの誘惑や、神の存在や正義や愛を疑わせるものがあるが、上記のとおり、神の言葉と人の心をつなぐ場所が、しっかりと守られているということ。多くの信仰における先人・義人の言葉や事績を知っていて、それらの知恵や勇気や愛に力づけられていること。あるいは、聖書の言葉でしっかりとサタンの誘惑に対して備えられていること。

 

 4:5 乳房は小鹿、百合の間で草を食むガゼル

 

乳房:胸、つまり信仰者の心、エクレシアの人々の心

 

小鹿、ガゼル:飛び跳ねるほど元気の良い生命、活力に溢れた命。

 

百合の間で草を食む:参照・雅歌2:16、岩波旧約聖書翻訳委員会訳では「睡蓮」。神の霊的な言葉によって養われること。

 

二匹、双子:エクレシアには、必ず男女がいることの意味か。あるいは、雅歌4:2を踏まえれば、実を結ぶ生き方をしている人々のこと。もしくは、旧約聖書新約聖書の両方をしっかり心に受けとめて大切にしていること。

 

→ 神は、生き生きとした神の生命に満ちたエクレシアの信仰者たちを愛し、神の言葉という霊的な食べ物で養ってくださっている。

 

 

 4:6  生きている間にキリストの愛に生きること

 

日が息をつき、影が逃げ去るまで:日が暮れるまで、人生の命のある間に。人の一生は過ぎやすく、儚いので、命のある間が重要。

 

没薬の山、乳香の丘

没薬と乳香は、キリストの神性と受難の死の象徴。前回資料の雅歌3:6解説参照。

→ つまり、生きているうちに、キリストの福音に赴き、キリストのもとで生きること。生きているうちに、神を愛し、人を愛する、キリストの愛に生きること。

 

 

 4:7  神は信仰者のあるがままを愛する。

 

「私の恋人よ、あなたのすべては美しく/あなたには何の傷もない。」

 

→ 神は、人のすべてを美しいものとして本来創造した。

 

→ ただし、堕罪により、原罪を抱え、実際は罪と傷の多き者。

 

→ キリストの十字架の贖いにより、再び人は神の愛に抱きとられている。義とされている。包容されている。

ロマ3:21‐24「しかし今や、律法を離れて、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が現されました。神の義は、イエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現されたのです。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。」

 

→ このキリストの福音を、なかなか人は信じることができない。また、この世の中には条件つきの愛や条件つきの承認、人をけなしたり傷つける言葉が溢れている。しかし、繰り返し、この神の愛を聞き、すでに神によって義とされていることを聞くことにより、人は救われ、解放されていく。そして、愛の実を結ぶ人生になっていく。神は、キリストの十字架を信じた者を義とし、全き人とみなし、神の子とし、神の国に入れてくださる。その愛に生かされていく。

 

 

◇ 4:8  花嫁、レバノン、アマナ、セニルとヘルモン

 

花嫁よ:信仰者、エクレシア。(エフェソ5章)

 

レバノン:原語の意味は白。雪を常にいただく山脈で、パレスチナ北部にそびえ、やや低い丘陵が各方面に向かって走っている。低地帯はぶどうの木、山岳はレバノン杉に覆われている。アマナもヘルモンも、レバノン山脈の一つの峰。

 

アマナ:原語の意味は、信頼、信仰、確かさ。レバノン山中の峰。

 

セニルヘルモン山のこと。アモリ人がヘルモン山をそう呼んだ。

 

ヘルモン:海抜2814メートル。たえず雪をいただき、山頂からの眺めは壮麗。イエスの変容の地と言われる。聖なる山。

 

獅子の隠れ家、豹の山:人里離れた山奥という意味か。あるいは、エレミヤ50:17では獅子はアッシリアバビロニアを指すので、異教の強い勢力。Ⅰペトロ5:8では、獅子は悪魔のたとえ。

   

レバノン山脈ヘルモン山の画像)

 

→ 悪魔の誘惑や異教の世俗的な価値観などから離れ、キリストとともに歩むこと。人里離れたところではなく、人々の中で暮らし、隣人を愛し、エクレシアの中で生きること。

→ 単純に、レバノンの山々の雄大な自然の中で、神と人との愛の呼び交わしが行われている様子を想像することも良いと思われる。

 

 

◇ 4:9 ときめかせる

 

→ 神は、人のことを、自らの心をときめかせる存在だとはっきり言っている。

 

→ この広大な宇宙の中で、格別な存在として、ひとりひとりを特別に愛している。 (参照・イザヤ49:5、49:15-16)

 

一瞬のまなざし:日頃神を忘れている人間が、一瞬でも神に向き直って神を愛することを、神はこの上なく喜んでくださる。

 

首飾りの玉の一つ:私たちが持っている徳の一つであっても、神は喜ぶ。愛や忍耐や寛大さや親切や知恵や穏和さなどの、何か一つでも徳を発揮した人生を、神は喜ぶ。

 

 

◇ 4:10  ぶどう酒、香油

 

再び、「なんと美しいことか」と神による愛の言葉。神は愛の言葉を繰り返してくださる。

 

ぶどう酒:聖餐のぶどう酒とすれば、儀式よりも愛が神にとって喜ばしいという意味。

 

あなたの香油:ナルドの香油(ヨハネ12:3)。神は、それぞれの人が真心から神に捧げたものを、何よりも喜んでくださる。決して他と比べたり、金銭に換算したりせず、そのまま最も素晴らしい捧げ物だと喜んでくださる。

 

 

◇ 4:11 蜂蜜、蜜、ミルク、レバノンの香り

 

→ これらは、神の愛や豊かさの象徴であり、神の愛によって香り高い生涯となっていることを指すと思われる。愛の言葉の人となること。

 

→ なお、箴言においては、蜜は知恵の象徴(箴言24:13-14)なので、神の言葉を学び、神の知恵と愛に満ちている人は、香り高い生涯となるということ。

 

 

◇ 4:12~15 聖別されたエクレシア、信仰者

 

閉じたれた園、池、封じられた泉:ヨーロッパの中世の絵画では、この箇所から、聖母マリアの背後に園が描かれた(本資料冒頭の参照絵画)。

 

→ エクレシアおよびそれぞれの信仰者は、神が特別に世の中とは分けて、聖別して、大事に育てる。

 

ざくろ、ヘンナ、ナルドざくろについては本資料4:3参照。キリストの受難の死と再生の象徴、神の心臓の象徴。ヘンナは香りと色が愛された植物。ナルドは植物の根からとれる最高級の香油。

→ キリストにより、良い実をたくさん結ぶ、香り高い人だと、エクレシアと信仰者を神が誉めてくださっている。

 

ナルド、サフラン、菖蒲、シナモン、乳香、没薬、沈香:いずれも最高の香りのこと。

→ キリストを知る知識の香り、キリストのかぐわしい香り(Ⅱコリ2:14~16)。信仰者はそれぞれの個性ある、香り高い人生を歩むことができる。また、その香りを、神はとても喜び、愛してくださる。  (※個人的な余談:菖蒲のこと)

 

園の泉、命の水の井戸、レバノンから流れ出る川

ヨハネ4:14「しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」

 

→ キリストといういのちの水の泉につながった人は、常にキリストから流れ出す命の水にうるおい、自ら自身もいのちの水の湧き出る泉となる。

 

→ そのような人が、地の塩・世の光、ぶどうの枝、世を潤す。

 

Ⅲ、神に愛された人の生き方 (4:16) (旧約1039頁)

北風、南風:風は聖書においては霊を意味する(ヨハネ3:8)。ゆえに、神からいろんな方向から送られてくる霊、神のメッセージとも受けとめることができる。 → あるいは、人生の逆境と順境(イソップ童話『北風と太陽』)。神は、厳しい人生の逆境と、あたたかい人生の順境の恵みの、両方をもって人を導き、義化と聖化を成し遂げていく。 → それを受け入れる。それによって目覚める。

 

園を吹き抜け、香りを振りまく:エクレシアや信仰者は、聖別されて大事に育てられるが、と同時に、神の霊に吹かれ、動かされて、その香りを世の中に広げるように促されているし、信仰者は自らそう願って生きるべきこと。

キリストの香りを世にもたらすこと。キリストから世への手紙となること。

 

愛する人が園に来て、実を食べる:信仰者は、キリストを自らの心の園に迎え入れ、自らの人生が愛の実を結ぶものとなり、それらを神に捧げることを願って生きること。

 

Ⅳ、おわりに 

 

雅歌四章から考えたこと

 

・神は、あるがままの人を愛し、慈しんでくださっている。雅歌四章は、神の愛を率直に示す言葉が綴られている。現代社会は、条件付きの承認や条件付きの愛ばかりであり、自分は愛されていないと思い自己肯定感の乏しい人が大勢いる。競争社会の中、あるがままに人を愛することが乏しい。しかし、神はそれぞれの人を、あるがままに「なんと美しい」と讃嘆し、格別の愛をそそいでいる。

・戦争や悲惨さが溢れている世界においては、雅歌のような美しいみやびな愛の言葉は、一見のどかすぎるものに見えるかもしれない。しかし、このような愛と

みやびさこそが、人間にとって最も貴重なものではないかと思われる。

・繰り返し、神の愛の言葉を聞き生きていきたい。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新改訳2017、フランシスコ会訳、岩波訳(旧約聖書翻訳委員会訳)など。

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年。

・マンフレート・ルルカー、池田紘一訳『聖書象徴事典』人文書院、1988年

・Bible Hub (http://biblehub.com/

雅歌 資料(3)

『雅歌③ 夜に神を求めること』 

 

Ⅰ、はじめに 

Ⅱ、夜に神を求めること

Ⅲ、神の到来

Ⅳ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに    

 

(左:レンブラント「夜警」 右:古代の神輿or 王の輿)

 

前回までのまとめ

 

雅歌はおそらく紀元前10~6世紀のソロモンから南北王国分裂時代にかけてつくられた文書。ラビ・アキバが「全世界も雅歌がイスラエルに与えられた日と同じ価値を持たない。すべての諸書は聖なるものであるが、雅歌はその中でも最も聖なるものである。」と述べ、ヤムニア会議で聖書正典に含まれる。

解釈は大きく四つに分かれる。①象徴的解釈(神とエクレシア(教会・集会)の関係)、②戯曲説、③世俗的恋愛詩集説、④婚礼儀式の際に用いられた歌謡説。本講話では①の立場から読む。つまり、雅歌における「おとめ」=集会ないし信仰者、「愛する人」=神・キリストとして読む。

前回の二章では明るい美しい神との愛の応答を見た。

 

 

・ 雅歌三章の構成 

 

雅歌三章は、大きく二つの部分に分かれる。前半はおとめが夜に愛する人を探し求めることが描かれる。後半はソロモンの輿が描かれる。

それぞれ象徴的に読むならば、夜に神を求めることと、神の到来が描かれていると読むことができる。

 

1、夜に神を求めること  (3:1~3:5)

2、神の到来 (3:6~3:11) 

 

 

Ⅱ、夜に神を求めること  (3:1~3:5) (旧約1037-1038頁)

 

□ 3:1 ~ 3:4

 

あらすじ:おとめが、夜に「魂の愛する人」を探すが見つからず、町中を歩いて探す。夜警に出会い、愛する人の行方を尋ねる。その後、愛する人を見つけ、抱きしめる。

 

・当時の女性が、夜中に一人で町をうろついて歩き回ることはありえなかったということから、この箇所をおとめの空想上の話とする解釈もある。

 

→ ただし、雅歌そのものを象徴的な内容だと受けとめるならば、この箇所も実際の話か空想かという問い自体があまり意味はなく、何を象徴しているかを読み解くことが重要と思われる。

 

「夜」とは?

 

→ ルルカー『聖書象徴事典』によれば、夜は「恐怖と災厄と死の象徴」(たとえば、エジプトで初子が撃たれたのも夜(出エジプト12;29))である。

 聖書においては、しばしば昼と夜は「光と闇」を象徴する。光は神がいる時、闇は神が見えない時、神が姿を隠した時である(ヨハネ9:4など)。

 

 神を見出だせない時、絶望や死の縁にいる時、いわば「夜」の時にこそ、人はしばしば真剣に神を求める。

 

イザヤ26:9「私の魂は夜にあなたを慕い/私の中で霊があなたを捜し求めます。/あなたの裁きが地上で行われるとき/世界に住む人々は義を学びます。」

 

◇ 3:2a 起きて、町・通り・広場に愛する人(=神)を探す

 

箴言1:20「知恵は巷で喜び歌い/広場で声を上げる」

 

→ 神は巷・町中で人を通して語りかけてくださる。孤独にひとり閉じこもっていても、必ずしも神を見いだせるとは限らない。神は人を通して働く(預言者、士師など。風と麦畑のたとえ)。人に会いに行き、人の言葉に耳を傾けることが大切。

(現在(2022年度推計)ひきこもりの数:日本全国で146万人)

 

ただし…。

 

◇ 3:2b 「愛する人」(神)は見つからなかった。

 

おとめは夜の町中を神を求めてさまよったが、神は見つからなかった。

 

人は往々にして、救いを求め、神を求めても、見つからない時がある。

 

 

◇ 3:3a 夜警に「愛する人」の居場所を尋ねる

 

夜警とは、夜の町の警備をする人々。防犯パトロール&外敵の襲来に備えていた。

ここでは、夜警は何を象徴しているのか?二つの説がありうると思われる。

 

  • 世俗的な価値・秩序・知識の象徴。
  • 宗教的な知恵や知識に富んだ精神的な人々、霊的な指導者。 

参照:マルコ13:33「気をつけて、目を覚ましていなさい。」など。

 

→ 4節の解釈に関わる。

 

  • 説:協会共同訳3:4a「彼らに別れを告げるとすぐ」愛する人は見つかった。

→ 世俗的な価値観や知識の人々にいったんは神について尋ねるが、彼らからは聞けないとあきらめ、世俗的な価値観や知識を捨てて、神そのものを尋ねた時に、すぐに神が見つかった、という意味に読み取れる。

 

  • 説:岩波訳(旧約聖書翻訳委員会訳)3:4a「私は彼らの所から行き過ぎるとすぐに」愛する人を見つけた。

→ 「別れる」「行き過ぎる」と訳されているヘブライ語原文の言葉の原形の “abar” は「行き過ぎる」「通り過ぎる」といった意味。

→ この場合は、夜警を「精神的な指導者・先達」として神について尋ね、その導きのおかげで、「愛する人」つまり神が見つかったということ。

 

※ 人は巷・町に出て、霊的に優れた人や先達に神を見たかどうか、神はどこに見いだせるのか尋ねるほうが、速やかに神を見いだせる。(ex.徒然草の先達の話)

 

→ 内村鑑三、塚本虎二、矢内原忠雄など。今生きている無教会の伝道者の方々。その他、教会や他宗教の優れた人々の言葉も、参考になりうる。(NHK『こころの時代』など)。

 

 

 3:4a-b 「愛する人」を見つけた

 

・「愛する人」を見つけ、抱きしめ、もう離さない。

 

→ 人はしばしば、しばしの別離のあとの方が、また乗り越える障害がある方が、その人の大切さがよくわかり、もう二度と離れまいと決意する。

(数多くの恋愛もののドラマや映画など。ex.『君の名は』、『冬のソナタ』、『はいからさんが通る』、『愛の不時着』etc.)。

 

・神も、一度見失い、一生懸命探した体験は、真の神を知ることにつながり、そのかけがえのなさやありがたさの認識につながると思われる。

 

・人はあまりにも簡単に与えられたものだと、ありがたみがわからず、感謝の心を知らない。かけがえのなさがわかりにくい。

→ 本当にそのかけがえのなさやありがたみがわかれば、二度と見失わず、手放すことがないように、大事にする。拳拳服膺する。

 

 3:4c 母の家に迎える

 

・「母の家」に迎えるとは?

 

→ 母国、母国語、という言葉があるように、自分の国の文化にキリスト教をしっかり迎え入れるという意味に受けとめることができると思われる。

また、そのことと結びつくが、自分の生まれたときからの、もっともくつろげるしっくりした場所が母の家とすれば、自分の心や身体の生活の内奥に神を心から迎え入れることと思われる。

 

・無教会の内村鑑三や塚本虎二らは、日本人の精神文化にキリストを接ぎ木し、受け入れることをめざした。

また、戦後の日本においては、カトリック遠藤周作や井上洋治らも、日本人に合った、日本文化に本当に受けいれられるキリスト教をめざした。

 

→ 各自の民族・各自の文化が、キリストを深く受けとめて、真に自分のものとして受けとめる。

→ また、個人においても、各自の人生において、自分の人生の物語において、キリストを真に生きた神として受けとめ、受け入れる。

 

 

 3:5 雅歌 2:7 と同じ。愛は自発的なものであるべきこと。

 

→ 愛は自発的である。愛は各人の自発性や各自の自由を尊重する。強制はしない。

→ イエス・キリストは、決して武器や暴力で自分の意志を人に強制せず、恐怖で縛ることも、強圧的に命令することもなかった。生涯を通じて、勧告と訓戒を愛によって行っただけだった。常に人の自由と自発性を尊重した。

(c.x. H.MさんがT.Mさんから聞いたという話に感動したこと。真実の宗教とは何か?)。

 

 

Ⅲ、神の到来 (3:6~3:11) (旧約1038頁)

 

□ 3:6~11 あらすじ:ソロモン王が輿に乗ってやってくること。

王の輿=神の到来、喜びの冠。

 

 3:6a 煙の柱とは?

 

ヨエル書3章1~5節:「その後/私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。/あなたがたの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、男女の奴隷にもわが霊を注ぐ。私は、天と地にしるしを示す。/血と火と煙の柱が、それだ。主の大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の名を呼び求める者は皆、救われる。/主が言われたように/シオンの山、エルサレムに/また、主が呼ばれる生き残りの者のうちに/逃れる者がある。」

 

→ ヨエル書上記の箇所は、新約の光に照らせば、キリストの十字架の贖いによりすべての人に聖霊がそそがれる預言と読める箇所。

→ とすれば、雅歌のこの箇所の「煙の柱」も、ヨエル書と同様に、十字架の預言であり、神の聖霊が行き来する場所である十字架、さらには十字架の贖いを通して聖霊が降るようになった人を象徴していると読むことができる。

 

 3:6b 没薬、乳香、あらゆる香料

 

→ 雅歌1:13 1章資料参照 没薬

没薬:香料の一種だが、葬式の際に用いられることが多かった。防腐作用があるためミイラづくりにおいても使用された。

乳香:樹脂からつくられる香料。古代エジプトユダヤにおいて神に捧げる香とされた。(出エジプト30:34、レビ記2:2など)。

東方の三博士がイエスの生誕において黄金・乳香・没薬を贈った(マタイ2:11)、それぞれ王であること・神性を持つこと・受難の死を象徴する。

 

あらゆる香料:没薬や乳香以外のさまざまな香り、香料。

→ キリスト者は「キリストのかぐわしい香り」(第二コリント2:15)。キリスト者の存在そのものが香りとなって多くの人に良い影響を与える。存在そのものが贈り物となる。(Y.Mさんのこと。M.Tさん、T.Mさん、等々)。

それぞれの人生や経験や生き方により、さまざまな香りや香り方がある。キリストの香りは、キリスト者を通じて香る。

 

 3:7a  ソロモンの輿、イスラエルの勇士、六十人

 

・雅歌はソロモンの書とされる。箴言、伝道の書もソロモンの書とされる。ゆえに、知恵文学の一つと考えられる。

・ここでは、ソロモンは王の象徴であり、王である神、王であるキリストの象徴と受けとめる。

 

輿:7節の輿と訳される言葉の原語はミッター。通常は寝台と訳される。

 

六十人とは何を意味するのか?

 

1,エジプト脱出の時の男性の数がおよそ六十万人(出エジプト12:37)

2,幕屋に捧げるいけにえの動物の数が、十二と六十。

 

民数記7:87~88「焼き尽くすいけにえの動物の総数は、雄牛十二頭、雄羊十二匹、一歳の雄の小羊十二匹、そのほかに穀物の供え物。清めのいけにえの総数は、雄山羊十二匹。会食のいけにえの動物の総数は、雄牛二十四頭、雄羊六十匹、雄山羊六十匹、一歳の雄の小羊六十匹。以上が、祭壇に油が注がれた後に、祭壇奉献のために献げられた献げ物である。」

 

・1説に立てば、神に従う民のすべてを象徴する。(のちの時代のキリスト者等々

すべてを含めて考えることができる。)

 

・2説に立てば、神の前に捧げられた人、あるいは神の命により犠牲となる覚悟のできている伝道者・信仰者と見ることができる。

エスは七十二人の弟子を任命して派遣した(ルカ10:1)。これは十二と六十を意味していたと考えられる。とすれば、民数記上記箇所は十二弟子と、十二弟子を除くキリストの主要な弟子を予表すると考えることができる。雅歌のこの箇所では、後者を意味し、かつ十二弟子に続くのちの時代のすべてのキリスト者を象徴しているとも考えられる。

 

◇ 3:8  剣

 

エフェソ6:17「また、救いの兜をかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」

 

→ キリスト者にとっては、神の言葉が「霊の剣」。現実の武器は捨てて非暴力と愛をめざすが、霊の剣は常に磨き、装着する。いつも目覚めていて、サタンの攻撃に備える。

 

◇ 3:9 レバノンの木材の輿

 

・9節の輿と訳される言葉は、7節と異なり、「アッピルヨーン」という言葉で、旧約聖書中この箇所一箇所に出てくるので、正確な意味は不明。四方輿のことだとすれば、日本のお神輿のような、王や神像を載せる道具。

 

レバノンの木材:レバノン杉、香柏。マツ科。高さは40メートルほど。丈夫で腐りにくく、永遠の象徴。最高級の木材。

 

 

◇ 3:10a 銀、金、紫の布

 

銀:贖罪の象徴。月の象徴。

金:王権の象徴。太陽の象徴。

 

→ 夜にも照らし、昼にも照らすこと。神は闇の時も、光の時も、祈り求める者を照らす。

 

ゼカリヤ14:7「それはただ一日であり、主に知られている。/昼もなければ、夜もない。/夕暮れ時になっても、光がある。」

 

→ 神を見出した人には、昼も夜もなく、黄昏の時代にも、燦々とそそぐ神の愛の光が見える。

 

玉座は紫の布:紫色は皇帝の色、貴人の色だった。シリアツブリガイという貝から微量にとれる染料を用いた。

 

エスは受難の時に、紫の衣を着せられた(マルコ15:17)。

 

ソロモンの輿の玉座が紫色だというのは、上記のことを考えれば、十字架の受難と贖いそのものを象徴しているとも考えられる。

 

◇ 3:10b 輿の内側はエルサレムの娘たちの手で愛をこめて仕上げられている

 

・ エクレシア(集会、教会)は、多くの女性の方々の愛によって仕上げられている。もちろん、男性もであるが、歴史上にあまり記録に残らない多くの清らかなあたたかい優しい女性たちが、神の家であるエクレシア・集会を愛をこめて仕上げてきたことを指していると私には思われる。

 

◇ 3:11a シオンの娘たちよ、王を見よ。

 

エクレシアは、キリストをこそ見る。キリストの十字架をこそまっすぐ見よということ。

内村鑑三の若き日、シーリー総長に教えられたこと。自分の心の中や内部を見るのではなく、救いは神を見ること、外なる神を仰ぐこと。我と汝。)

 

 

◇ 3:11b 婚礼の日、母がかぶせる喜びの冠

 

ウォッチマン・ニーは、この箇所を以下のように解釈する。:

「母」は人類を象徴する(イエスは父なる神と母なる人との子だった)。婚礼の日とは、神と信仰者である人とが一つになること。肉なる人類が、神と結合し、神のものとなること、そのことを、神はこの上なく喜ぶ。冠は、聖書においては栄光を象徴する場合と、喜びを象徴する場合と二つあるが、雅歌のこの箇所では後者を意味する。

 

第一テサロニケ2:19「私たちの主イエスが来られるとき、その御前であなたがた以外の誰が、私たちの希望、喜び、また誇りの冠となるでしょうか。」

 

→ 神は一人一人を、その愛がめざめるまで待ち、自由と自発性をあくまで尊重して働きかける。一人一人がそれぞれの仕方で神を受け入れ、神を愛する時、そのことを神は何よりも喜び、喜びの冠とする。それは一人一人ごとに行われる。

 

第一コリント6:17「しかし、主と交わる者は、主と一つの霊となるのです。」

 

☆ 聖書を学び、神の言葉を常に得て、神の霊と交わることで、人は神の霊と一つになっていく。 → 神にとっての喜び、喜びの日、喜びの冠。

Ⅳ、おわりに 

 

雅歌三章から考えたこと

 

・夜の時、闇の時、人は神を切実に求める。それはしばしば、個人の人生にとっては、誰か愛する人を亡くした時、愛する人の死に直面したときである。しかし、その時こそ、最も切実に神を求める時であり、その時に本当に神を見出すのではないか。

(ex. イエスの十字架の死ののちに、弟子たちが本当に復活のイエスに出会ったこと。ダンテとベアトリーチェ内村鑑三、塚本虎二、藤井武『羔の婚姻』 etc.)

 

・夜の時、闇の時。ロシア・ウクライナ戦争や、イスラエルパレスチナの戦争などを見ていると、また日本の長引く不況や政治の低迷を見ると、私たちの心が暗くなることはありうると思われる。しかし、そのような時も、私たちは「魂の愛する人」つまりイエスを仰ぎ、その言葉を愛して受けとめて、生きていきたい。そこに必ず喜びや感謝の人生の歩みがあり、光がそれぞれにある。

 

・イエスを尋ね求め、神の言葉をより深く味わおうとする道において、「夜警」つまり精神的・霊的な先達や目覚めている人は、道中の参考になりうる。内村鑑三や塚本虎二や矢内原忠雄などを、個人崇拝ではなく、きちんと言葉を受けとめて継承していくことは、神を見つけ、神への道をたどる上において、とても参考になる有益なことと思われる。もちろん、それらによらずに聖書だけでも救いはあるし、神は見つかりうると思うが、「すぐ」つまり速さが違うのではないかと思われる。

 

 

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新改訳2017、フランシスコ会訳、岩波訳(旧約聖書翻訳委員会訳)など。

・ウォッチマン・ニー『歌の中の歌』日本福音書房、1999年

・マンフレート・ルルカー、池田紘一訳『聖書象徴事典』人文書院、1988年

・Bible Hub (http://biblehub.com/

Y.M.さんのお別れの会

今日は、Y.M.さんのお別れの会に行ってきた。
91歳だった。
七年前にご主人が先立たれて、そのあと御本人も脳梗塞で倒れられてその後言葉が不自由になられて、寂しいことや大変なこともあったろうけれど、敬虔なクリスチャンだったYさんをそう形容するのはなんだか的はずれな気もするし、うまく表現できない気がするのだけれど、いつもお会いすると生き仏にお会いしたような気持ちがしていた。
今の北朝鮮の羅南というところで戦前は暮らしておられたそうで、敗戦の時は女学校の一年生だったそうだが、引き揚げのつらい道のりの途中で母親を亡くし、二歳の弟さんを背負って北緯三十八度線を歩いて越えて日本に帰ったそうである。
戦後は、戦災孤児などの孤児を集めた施設で若い時は働かれていたそうで、その孤児だった方の中のひとりの方が、もう八十ぐらいのおじいさんだったけれど、本当に優しかった、いつも姉さんと呼んでいた、そのおかげで社会に出てからもぐれずに歩んでこれた、と今日感謝のスピーチをされていた。
ご主人と一緒に山登りが好きで、九重や富士などを登られたそうである。
一度、遭難して地元の消防隊が救助してくれたそうだが、そのおかげで、たまたま近くで遭難して救助の連絡もできなかった人々が一緒に助かったそうである。
Yさんの娘さんご夫婦やお孫さんがまた本当に素晴らしい方たちで、いつもご家族の仲睦まじい様子に胸打たれていたが、今日の式を見ていても、素晴らしいご家族や友人たちに恵まれた、本当に素晴らしい人生だったのだろうと思われた。
遺影のお写真も、いつも良いお顔をされていたけれど、あらためてなかなかこんな素晴らしい笑顔はないと思われるような、良いお写真だった。
内村鑑三は気高い生涯こそが後世への最大の贈り物だと述べたが、Yさんの存在そのものが、本当に香り高い、周囲の人々への最良の贈り物だったと思う。