「マクタールの収穫夫の碑文」

BSであっていた「古代文明への旅」という番組の「北アフリカのローマ都市」という回の中で、チュニジアのマクタールで発見されたという、古代ローマ帝国の時代の碑文が紹介されていた。

ある収穫夫が、自分の人生を振り返って記したものだそうで、古代ローマ時代の北アフリカの属州の農夫の生活をうかがい知ることができる貴重な資料とのことだった。

もちろん、そうでもあるのだろうけれど、簡潔な文章にある立派な人物の人生がこめられていて、とても感動させられた。

碑文の文章は、番組の紹介によれば、以下のものである。


「私は貧しい家に生まれた。

生まれた時からずっと畑を耕して生きてきた。

私の土地も私も、片時も休むことがなかった。

その後、故郷の村を離れ、灼熱の太陽のもと、農作物の種をまいて、
人のために十二年間働いた。

そして、収穫仲間のリーダーとなり、
十一年間、農園労働者たちの先頭に立った。

私は金を貯め、自分の家と農園を持つまでになった。

これまでの苦労が報われ、今は快適に暮らしている。

行政の仕事に就くほどまでに出世もした。

貧しい小作農から、最高位の行政官まで、のしあがったのだ。

男たちよ、正直に生きることを学べ。

人をあざむくことなく生きる者は、栄光につつまれて、死を迎えるのだ。」


全く装飾のない、簡潔な文章である。

文字にすれば、ほんの数行だけれど、その行間に、どれほどのことがあったのか、想像すると胸を打たれるものである。

いつの世にも、こういう立派な人がいたのだなぁと、感心させられた。

帝政ローマというのも、首都の酒池肉林の馬鹿な貴族や市民たちではなく、地方の属州のこういった人たちが支えていたので、長く続いたのだろうと思う。

『ゼファニヤ書(下) ―神の愛による新生』 資料

『ゼファニヤ書(下) ―神の愛による新生』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、人の罪と神の審判(3:1~3:8)

Ⅲ、残りの者(3:9~3:13)

Ⅳ、新生と救い (3:14~3:20)

Ⅴ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに 

   

 

 

前回のあらすじ ゼファニヤ書の第一章と第二章:

ゼファニヤ書は、おそらく紀元前640-621年頃、ヨシヤ王の治世の初期に活動したゼファニヤの預言をまとめたものである。ヨシヤ王の申命記改革に先立ち、かつおそらくはその改革になんらかの影響を与えたと考えられる。

ゼファニヤ書冒頭には、他の預言書には見られない四代前までの家系図が書かれている。四代前の先祖のヒズキヤはヒゼキヤ王のことと考えられる。一方、ゼファニヤの父の名前であるクシは、エチオピアを指すクシュのことと考えられ、エチオピア人とユダヤ人の混血だったとも推測される。王家に連なる名門出身でかつ異邦人の血も引く複雑な環境にゼファニヤは育ったと推測される。

ゼファニヤ書第一章・第二章では、のちのレクィエムの「怒りの日」の詩のもとともなる、神の審判が描写される。「酒の澱の上に凝り固まっている者」つまり神が自分の人生には関係ないと頑なになっているものには、最終的には裁きが行われると告げられる。

 と同時に、「義と謙遜」の呼びかけがなされ、義と謙遜を求める人は神によって匿われ守られることが述べられる。審判の告知は、なんとか悔い改めさせて、人々を滅亡から免れさせようとするためのものであった。

 

 

※ 「ゼファニヤ書の構成」

 

第一部 神の審判の告知 第一章~第二章(1:1~2:15) ⇒ 前回

第二部 神と共に生きるようになる希望 (3:1~3:20) ⇒ 今回

 

⇒ 今回の第三章では、第一・二章における「義と謙遜」の呼びかけと悔改めを踏まえた上での、新生の喜びが告げられる。神が人の中に働き、「愛によって新たにする」新生と救いが告げられる。

 

・第二部(第三章)の構成 

 

1、人の罪と神の審判(3:1~3:8)

2、残りの者(3:9~3:13)

3、新生と救い (3:14~3:20)

 

ゼファニヤ書後半の第二部は、大きく三つの部分に分かれる。まず、第二章までの前半と同様に、人の罪と主の日の審判が三章冒頭で告げられる。そののち、神への信仰を与えられた「残りの者」の存在が指摘される。さらに、それらの信仰が与えられた残りの人々には、新生と救いが恵まれ、幸福が回復されることが告げられる。

 

 

Ⅱ、人の罪と神の審判(3:1~3:8)

 

◇ 3:1~3:5 人の罪と神の呼びかけ

 

3:1 三つのわざわい

反逆:神に背くこと。神の律法に違反すること。 ⇔回心

汚れ:エゼキエル23:30 聖書では、偶像崇拝が汚れをもたらすと述べる。(偶像=神ではないものを神とすること。価値観の倒錯。ex.金銭、権力)

暴虐:弱者に対する抑圧や人の権利の蹂躙など。

 

3:2 「四つの罪」 

① 神の声・呼びかけを聞かない

② 戒め(律法)を受け入れない。

③ 主を信頼しない。

④ 神に近づこうとしない。

 

⇒ ※ 逆に言えば、「神の呼びかけに耳を傾け、耳を澄まし、神の戒め(新約で言えばお互いに愛し合うことなど)を受け入れて実践し、神を信頼し、神に近づこうとすること」の四つの実践が人には求められており、正しい生き方と言える。

  1.  ミカ6:8「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと」

 

※ ただし、原文は「声」とのみあり、「神の声」と限定していない。さまざまな人や自然の現象などを通じて、多様な形で、神の声や呼びかけがなされていると見るべき。

参照・口語訳の当該箇所:「これはだれの声にも耳を傾けず、懲らしめを受けいれず、主に寄り頼まず、おのれの神に近よらない。」

 

3:3、4  社会の上層部・指導者たちの腐敗

・役人・裁判官・預言者・祭司の不正

・現代で言えば、政治家や官僚、裁判官や警察、知識人たちが、社会正義をおろそかにし、自分たちの保身や利益のために虚偽や偏向を恥じない様子。

 

3:5  常に呼びかけている神・良心

腐敗した社会や人々の中にあっても、神は常にその中にいて、常に正しく、朝ごとに公正の光を放ち人々を照らしていることが述べられる。

(新共同訳では見出しに「エルサレムの罪と贖い」とあるが、本文中には必ずしもエルサレムと明示されていない。前後の文章から見れば、異邦人も含めて、全人類が対象の箇所と考えられる。)

 

⇒ 人間の良心には、常に神の呼びかけがあり、誰にでも心を澄ませばわかるはずの道理や正義があるはずということ。

⇒ ただし、神の呼びかけに背を向けているうちに、鈍感になり、良心が曇って来ると、「酒の澱の上に凝り固まったもの」(ゼファニヤ1:12)のように頑なになってしまう。

 

参照:箴言1:20、21 

「知恵は巷に呼ばわり/広場に声をあげる。/雑踏の街角で呼びかけ/城門の脇の通路で語りかける。」

 

箴言8:1~3 

「知恵が呼びかけ/英知が声をあげているではないか。/高い所に登り、道のほとり、四つ角に立ち/城門の傍ら、町の入口/城門の通路で呼ばわっている。」

 

⇒ 常に呼びかけている良心の声や神の呼びかけを聞くためには「静かにささやく声」(列王記上19:12)に耳を澄ますこと。ゼファニヤ1:7、ハバクク3:20、イザヤ30:15。

& 日頃から聖書を学び、聖書を読み、講話等を聴くこと。

 

 

◇ 3:6~3:8 神の審判

 

3:6 諸国の民への審判

「諸国の民」つまり、神を信じない人々は歴史の審判を通じて滅びる。

 

3:7 残りの者は断ち切られない

新改訳2017「わたしは言った。/『あなたはただ、わたしを恐れ、/戒めを受け入れよ。/そうすれば、/わたしがこの都をどれほど罰しても、/その住まいは断ち切られない。/確かに彼らは繰り返してあらゆる悪事を行ったが。』」

⇒ 新改訳の解釈だと、諸国の民に対する審判が行われても、神を信じている人々(後述の「残りの者」)は「断ち切られない」つまり生き残り続けるというメッセージになる。この方が新共同訳よりわかりやすい?

 

3:8 証人としての神

新共同訳「獲物」 ⇒ 他の訳「証人」 (七十人訳による)

 

新改訳2017  3:8a 「それゆえ、私を待て。/―主のことば―/わたしが証人として立つ日を待て。」

 

口語訳 3:8 「主は言われる、「それゆえ、あなたがたは、わたしが立って、証言する日を待て。わたしの決意は諸国民をよせ集め、もろもろの国を集めて、わが憤り、わが激しい怒りを/ことごとくその上に注ぐことであって、全地は、ねたむわたしの怒りの火に/焼き滅ぼされるからである。」

 

⇒ 神は「証人」であり、正しい「証言」をし、義に照らした裁きを実行する。

 

 

Ⅲ、残りの者(3:9~3:13) 

 

・前節(3章前半)に続く3章中盤では、「清い唇」が与えられた「残りの者」について述べられる。

 

□ 3:9 「清い唇」と諸国の民

 

・聖書においては、潜在的にはすべての人類は神を知り、讃えている(マラキ1:11、ロマ1:19~20)とされる。かつ、将来的には、すべての人には神の霊がそそがれ(ヨエル3:2)、すべての人が神を讃美することが願われている(詩編117編)。

 

・しかし、と同時に、聖書においては、人は、聖霊がそそがれないと、神への信仰を持つことができず、神の御名を呼ぶことができないとされている。

 

※ 参照

Ⅰコリ12:3b聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」

・ロマ8:15、ガラテヤ4:6 神を父と呼ぶことができるのは、神が送った霊による。

・イザヤ6:4~6:7 汚れた唇 ⇒神の火による清め ⇒「見よこれがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」(イザヤ6:7)

 

「諸国の民」つまり異邦人にも「清い唇」が与えられる、つまり神への信仰が与えられることが、ゼファニヤ書のこの箇所には明示されている。

(cf. 新約における異邦人の救い)

 

※ 3:9冒頭「その後」:十字架の後のことか?異邦人に神の霊がそそがれるのは、キリストの磔刑後。

 

個々の人生で言えば、「その後」とは、人生における苦しみや挫折や試練のことか。3:8で述べられた審判は、個々の人生にもありうる。苦しみを経たのち、やっと人には「清い唇」が与えられ、神の御名を素直に呼ぶ信仰が与えられる。

 

※ 3:9b「一つとなって」:直訳は「一つの肩になって」(新改訳2017脚注)

⇒ すべての人が肩を組み合って一つになる。

 

 

□ 3:10 クシュの川の向こうから

 

前回見たように、ゼファニヤは王族の血を引くとともに、異邦人であるエチオピア人の血も引いていた(ヒゼキヤの子孫であり、クシの子)。

クシュ(エチオピア)の向こうからも神を信じ礼拝する者が来る、という表現は、ゼファニヤにとっては他人ごとではない、自分自身を指し含める意味を持っていたと思われる。

 

余談:1980年代、エチオピアユダヤ人が飢饉や内戦から逃れるためにイスラエルに飛行機で亡命・移住した。小さい頃、たまたま飛行機の中でそのニュースの映像を見て、到着した空港で神にひざまずいて感謝する人々の様子に強い印象を持った思い出がある。

 

□ 3:11 恥とおごりが除かれる

 

新共同訳「勝ち誇る兵士」 ⇒ 他の訳「おごり高ぶる者」

3:11b 新改訳2017 「そのとき、わたしがあなたのただ中から、/おごり高ぶる者どもを取り除くからだ。」

3:11 口語訳「その日には、あなたはわたしにそむいたすべてのわざのゆえに、はずかしめられることはない。その時わたしはあなたのうちから、高ぶって誇る者どもを除くゆえ、あなたは重ねてわが聖なる山で、高ぶることはない。」

 

⇒ 悔改め、神に向き直る回心を果たした人の人生からは、恥とおごりが取り除かれる。(おごりの除去は、一生を通じて行われる)。

 

□ 3:12 「残りの者」

 

関根訳3:12~13a「わたしは君の中に/心低くへり下る民を残す。/彼らはヤハウェの御名に頼り/イスラエルの残りの民となろう。」

(この箇所、松村さんによる朱線あり。)

 

※「残りの者」:ミカ5:6-7、ミカ7:18、イザヤ10:20、ヨエル2:32、エレミヤ23:3など。聖書の随所には、「残りの者」が記され、不信の時代や人々の中にあっても、神への誠実な信仰を持ち続ける少数の人々とその救いが記される。(2017年の無教会全国集会で石原艶子さんが「残りの者」と何度かつぶやいていたのが印象的だった。)

 

余談:ユダヤ教のタルムードには「ラメッド・バブニック・ツァデキーム」(三十六人の義人)という伝承がある。いつの時代も三十六人の匿名の義人がいて、世界を支えており、これらの義人なくしては世界は崩壊するという。残りの者は、必ずしもそこまでハードルの高いものではないかもしれないが、残りの者や匿名の義人が、この世界を支えているのだと思われる(cf.地の塩・世の光)。

 

□ 3:13 残りの者は誠実に生き、安全に生きる。

⇒回心した「残りの者」の生き方は誠実。神はその人たちを養い、安全にする。

 

 

Ⅳ、新生と救い (3:14~3:20)

 

□ 3:14 喜べ:参照・フィリピ4:4 Ⅰテサロニケ5:16 聖書全篇の特徴

 

□ 3:15 主は裁きを退け、その人の中にいる。恐れるな。

⇒ キリストの十字架の贖いにより罪が消え、もはや神の怒りによって裁かれないこと。義認。

& 神がその人の心の中に入り、導くこと。聖霊。 

& 恐れることはない、「恐れるな」、というメッセージ。創世記15:1、ヨエル2:21、ダニエル10:19、聖書全篇を貫くメッセージ。

 

◇ 新生の告知 3:16-17 

 

神が信仰を持つ人のただ中にいること。導いて勝利を与えること。愛によって新生を与え、その人の存在そのものを神が愛し喜ぶことが告げられる。

 

フランシスコ会

「その日には、エルサレムに向かって人々は言う、/「シオンよ、恐れるな、力を落とすな。/お前の神、主はお前のただ中におられる、/救いを与える勇者が。/主は、お前の故に喜び楽しみ、/その愛をもってお前を新たにし、/祭りの日のように、お前の故に喜びの声をあげられる」。」

 

口語訳

「その日、人々はエルサレムに向かって言う、/「シオンよ、恐れるな。/あなたの手を弱々しくたれるな。/あなたの神、主はあなたのうちにいまし、/勇士であって、勝利を与えられる。/彼はあなたのために喜び楽しみ、/その愛によってあなたを新にし、/祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」。

 

バルバロ訳

「その日、エルサレムでは、/こういわれるだろう、/「シオンよ、恐れるな、/失望するな。/神、主はお前のうちにおられる。/主は助けを下す勇士であり、/喜びのうちに、おまえのことを楽しみ、/愛のうちにおまえを新しくつくりなおし、/おまえについて、喜び勇まれる。」

 

関根訳 (3:16~18a)

「その日エルサレムに向かって言われる、/シオンよ、恐れるな、/君の手を弱くするな。/君の神ヤハウェは君の只中で/救いを賜う勇者である。/彼は大いなる喜びをもて君を喜び/その愛を新たにする。/大いなる歓喜をもって君を悦び/再会の日のようにされる。」

 

岩波訳

「その日には、エルサレムに対して人は言う、

『シオンよ、恐れるな。/力を落としてはならない。/あなたの神ヤハウェはあなたの只中におられる、/救いをもたらす勇者が。/ヤハウェはあなたのことで大いに喜び、/その愛によって〔あなたを〕新たにし、/あなたのことで歓声を上げ小躍りされる』と。」

 

※ ただし、 「新たにし」の箇所は、マソラ本文の原語は「黙らせる」・「沈黙し」となっている。七十人訳ギリシャ語訳)においては「新たにし」となっており、上記の多くの訳は、七十人訳に従っている。新改訳2017や文語訳では「黙らせ」=「安らぎ」として、以下の訳。

 

新改訳2017

「その日、エルサレムは次のように言われる。/「シオンよ、恐れるな。気力を失うな。/あなたの神、主は、あなたのただ中にあって/救いの勇士だ。/主はあなたのことを大いに喜び、/その愛によってあなたに安らぎを与え、/高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と。」

 

文語訳

「その日にはエルサレムに向いて言うあらん。懼(おそ)るるなかれ、シオンよ。汝の手をしなえ垂るるなかれと。/なんじの神エホバ、なんじの中(うち)にいます。彼は拯救(すくい)を施す勇士(ますらお)なり。彼なんじのために喜び楽しみ、愛の余りに黙し汝のために喜びて呼(よば)わりたまう。」

 

新改訳2017や文語訳だと、信仰のある人が安らかに静かになること、あるいは神がその人に対して一切罪を問わず感無量で抱擁すること、の意味となる。これらも前述イザヤ30:15等と相通じる内容で味わい深い。

 

※ しかし、この箇所は、七十人訳に従って解釈すると、新約聖書における新生をはるかに先取りし告知していることになり、新生と解した方が深く味わわれると思われる。

 

□ 3:18~19

主のもとに再び呼び集められ、「苦しめていたもの」=罪が滅ぼされ、幸福が回復される。

 

口語訳3:18-20

「「わたしはあなたから悩みを取り去る。あなたは恥を受けることはない。/

見よ、その時あなたをしえたげる者を/わたしはことごとく処分し、/足なえを救い、追いやられた者を集め、/彼らの恥を誉にかえ、/全地にほめられるようにする。/

その時、わたしはあなたがたを連れかえる。/わたしがあなたがたを集めるとき、/わたしがあなたがたの目の前に、/あなたがたの幸福を回復するとき、/地のすべての民の中で、/あなたがたに名を得させ、/誉を得させる」と/主は言われる。」

 

Ⅴ、おわりに  

 

・新生について若干の考察

 

ゼファニヤ書第三章十六、十七節では、上記に見たとおり、「愛によって新たに生まれ変わること」が告げられていた。

 

新約聖書においては、この愛による新生が極めて重視され、より詳しく明確に告げられていく。

 

※ 参照:新約聖書における新生についての告知

 

ヨハネ3:3 (ニコデモとの問答)

「イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」」  (および同3:6-8)

 

ガラテヤ6:15

「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」

 

Ⅱコリ5:17

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

 

エフェソ4:24

「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」

 

コロサイ3:10

「造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。」

 

テトス3:5

「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。」

 

※ 新生とは、キリストと結びついて、新しく創造されること。

 

※ 第一のアダム(古い人、外なる人)から第二のアダム(キリスト、新しい人、内なる人)へ (矢内原忠雄「創世記研究」『矢内原忠雄全集第十巻』)

 

旧約においては待望や希望だったこと(詩編51:12「神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。」 哀歌5:21「主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。」)が、新約においてはキリストの聖霊がそそがれることで実現したと告げられる。

 

キリストと結びついた霊としての部分、「内なる人」、「新しい人」は、キリストと結びつくことで、日々に新しくなる。

 

Ⅱコリ4:16

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」

 

ガラテヤ2:20 

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」

 

・高橋三郎は、人の新生の基礎は、キリストによる罪の赦しに触れ、神によって義とされた者に対する神の絶対的肯定を絶対的に信頼し、神の大いなる肯定・神の愛に支えられることと述べている。かつ、神の栄光を「見る」ことによって「主と同じ姿に変えられていく」ということを指摘している。

(高橋三郎「新しい生命」『挫折と新生』教文館、1975年、114-133頁)

 

・ルカ6章平地の説教やマタイ5~7章の山上の垂訓やヨハネ15章の訣別遺訓のような教えは、人間の頭からは決して出てこない。天上から来たもの。これらと結びついて、人は日々に新しく生きうる。(参照・ロマ12:2)

 

※ ただし、回心や新生にも、おそらく一気に劇的に変わる場合と、少しずつ変わる場合があると思われる。古い人と新しい人は通常混在・共存。移行も人によってプロセスが異なる。

パウロタイプとペテロタイプ。(頓悟と漸悟)

 

・私の場合を言えば、そんなに一気に何か変わったわけではなく、少しずつ変えられ、それも今のところ大して立派な人間になったことなどはなく、今もゆっくりと継続中のプロセスなのだと思う。

・ただし、かつてはこの世の中の出来事や自分の人生を考えると、悲観的になりやすかったのが、不思議とキリストを信じるようになってから、根底の部分で楽観的になり、希望を持つことができるようになった。

 

・また、ゼファニヤ3:16、17の箇所が、神が信仰を得た人の存在を喜び、「喜びの歌をもって楽しまれる」と記していることは、ルカ15章の見失った羊や無くした銀貨を見つけるたとえや、放蕩息子の帰還と通じる内容。讃美歌を私たちが喜んで歌っている時は、神も喜んで歌っておられるのだと思われる。

 

新共同訳・ゼファニヤ書3:16-17

「その日、人々はエルサレムに向かって言う。

「シオンよ、恐れるな

力なく手を垂れるな。

お前の主なる神はお前のただ中におられ

勇士であって勝利を与えられる。

主はお前のゆえに喜び楽しみ

愛によってお前を新たにし

お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」」

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、新改訳2017、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・デイヴィッド・W・ベーカー著、山口勝政訳『ティンデル聖書注解 ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書』いのちのことば社、2007年

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

フィリップ・ヤンシーさんとの質疑応答のメモ

先日、アメリカのキリスト教についての著名な文筆家のフィリップ・ヤンシーさんの講演会に行き、質問させてもらった。 

講演の内容が、とても素晴らしいものだったので、それに触発されてのことだった。 
極めて私の個人的なことだったが、率直に質問させてもらった。 


私の妹が15年前に亡くなりました。 

幸い私の場合、その後、多くの良い人との出会いや、自然や、素晴らしい物事などに出会い、多くの慰めを受けて来たと思います。 
また、時が経つにつれ、当初の悲しみは、薄れてきたと思います。 

その時、思うのは、悲しみが薄れるということは、愛が薄れることと同じではないか、また、自分は自分の人生を楽しんだり喜んだりすることは、はたして良いのだろうか、ということです。 

いつも思うことではなく、時折、ふとした時に、今も思うことです。 
このことについて、お考えを聞かせていただければ幸いです。 


と。 

それに対する、ヤンシーさんの答えは、以下のようなものだった。 


悲しみというのは、特に誰か家族や愛する人を喪った悲しみというのは、愛情と痛みの両方が襲ってくるものです。 

つまり、愛と痛みの両方が、悲しみにはありますし、その両方を感じるのが、悲しみということです。 

私たちは、当初のあまりの痛みをずっと持ったままでは、生きていけませんし、何か神からの、あるいはさまざまなことを通じて、心に慰めを得て、徐々に痛みが薄まっていくのは、大変素晴らしいことだと思います。 
また、時とともに、痛みが薄らいていくのも、自然なことだと思います。 

ただし、痛みが薄らいだり、訪れる間隔がそう頻繁でなくなっていったからといって、愛情が薄まったわけではありません。 
悲しみには、愛と痛みがありますが、痛みが当初ほどではなくなったとして、愛がなくなったわけではないのです。 
痛みが薄まったから、悲しみは薄まったとしても、愛が薄まったわけではない、これがまず大事なことです。 

また、もう一つの大事なことは、痛みは薄らいだり、間隔が頻繁でなくなったとしても、心からなくなるわけではありませんし、なくならなくても良いということです。 

ふとした瞬間に、どれほど時が経っても、愛する人を失った悲しみが心に噴きだすことは、ありえますし、あっても良いのです。 

聖書は、決して、悲しむなとか、痛みを感じるなとは言っていません。 
悲しんでも、痛みを感じても、そのことを聖書は決して否定していません。 

私は震災の直後、日本を訪れましたが、日本人は、ともすれば、悲しみをあまり表に出さず、誰もが苦しんでいる、あるいは自分以外にもっと苦しんでいる人がいる、と考えて、心の奥の悲しみを抑圧する傾向があると思います。 

しかし、聖書は、悲しみや痛みを感じることを、決して否定していない、悲しみや痛みは、人間が感じる自然な感情だとしていることも、大切なことだと思います。 

私は、かつて交通事故で、首の骨が折れて、大変なケガをしたことがありました。 
その時、病院の先生は、針で私の手や足を突き刺して、痛みを感じるかどうか調べました。 
何も感じなかったら、それは非常に症状としては問題なわけで、痛い、痛い、と叫べば、その箇所は正常というわけでした。 
その時、私は、痛みを感じるというのは、健康である証拠で、人間にとって健康な、自然なことだと、覚りました。 

そして、もう一つ、大事なことは、人生に喜びを感じることは、もちろん良いことですし、あなたの妹が望んでいることです。 
なぜ、私たちが愛する人を喪ったとしても、人生に喜びを感じて良いか、また喜びを感じて生きるべきかというと、信仰を持っている者にとっては、この人生や愛する人の喪失はずっと続くものではなく、一時的なものだということです。 
時が来れば、復活し、再会の時があります。 
なので、それまで、しばしの別れの間、この一時的な人生を、こちらの方でもしっかり生き生きと楽しく生きて、再び会った時に良い報告ができるようにしておくべきです。 

妹さんのことをシェアしてくださり、ありがとうございました。 



という答えだった。 

大変ありがたい、質問への答えだった。 

なんというか、相手の質問から、ああいう人ってのは、質問の表面の文意だけでなく、心の奥底にあるものを瞬時に見抜いて、答えるのだろうなぁ。 

『ゼファニヤ書(上) ―神の審判と悔い改めの呼びかけ』 資料

『ゼファニヤ書(上) ―神の審判と悔い改めの呼びかけ』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、神の審判の告知

Ⅲ、悔い改めの呼びかけ

Ⅳ、諸国民への審判 

Ⅴ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに 

    

 

ゼファニヤ書:十二小預言書のひとつ。全三章。南ユダ王国で活動した預言者・ゼファニヤによる預言をまとめたもの。内容は、神の審判を告げる前半と、神が人の内側に入り人に新生を与え救いを告げる後半から成る。十二小預言者中でも、人の心の内側に神が入り導くことと、新生の喜びを告げ知らせる点で、特徴あるメッセージとなっている。また、前半の神の審判の描写は、中世ラテン語の詩「怒りの日」(Dies irae)の元となり、レクィエムなどを通じて後世の最後の審判のイメージに大きな影響を与えた。

 

・ゼファニヤとは誰か?:ゼファニヤ書以外の旧約聖書中の情報がなく、詳しいことは不明。ただし、ゼファニヤ書の冒頭に、四代前までの系図が記されており、おそらく名門の出身。四代前の先祖の「ヒズキヤ」は、ヒゼキヤ王のこととも推測される。預言の内容から、名門出身の神殿に仕える預言者であり、ヨシヤ王の治世初期にヨシヤ王の宗教改革を主導したとも考えられる。

 

ゼファニヤの時代背景:

 ゼファニヤの生きた時代は、ユダの王ヨシヤの時代だとゼファニヤ書の冒頭に記されている。預言内容から、ニネベ陥落の前、かつヨシヤ王の改革が本格的に始まる前の、ヨシヤ王治世初期と考えられる。おそらく紀元前640-621年頃と推定される。ゼファニヤは、ナホムと同じかやや後、ハバククのやや前、エレミヤの活動期の初期と同じ頃に預言活動をしたと考えられる。

 

 

※ 「ゼファニヤ書の構成」

 

第一部 神の審判の告知 第一章~第二章(1:1~2:15) ⇒ 今回

第二部 神と共に生きるようになる希望 (3:1~3:20) ⇒ 次回

 

ゼファニヤ書では、第一章から第二章までにおいて、神の審判の告げ知らせがなされ、人間の側における「義と謙遜」が求められる。そののち、第三章では、神が人の中に働き、人を「愛によって新たにする」新生が告げられ、救いの希望が述べられる。

 

 

・第一部(第一~二章)の構成 

 

1、神の審判の告知    第一章(1:1~1:18)

2、悔い改めの呼びかけ 第二章の冒頭(2:1~2:3) 

3、諸国民への審判   第二章(冒頭以外) (2:4~2:15)

 

第一部は、大きく三つの部分に分かれ、主の日の審判の告知と、悔い改めの呼びかけと、諸国民への審判が告げられる。

全体として、第二部における新生の前提となる、悔い改めが目指されている。

 

 

Ⅱ、神の審判の告知 (1:1~1:18)

 

◇ 1:1 題辞

 

ゼファニヤ:ヤハウェは隠し給うた」の意味。ヒゼキヤ王から悪王であったマナセ王やアモン王とは別の系譜の、ヒゼキヤ王の子孫としてのゼファニヤの系譜自体が、人々から「隠された」ものであり、神の意志に忠実であるもう一つの系譜となっている。また、神の審判が差し迫っていることが人々の目から隠されているということ、さらには、審判の日々において、悔い改めた人々は神の怒りから隠されて安全である(ゼファニヤ2:3)という、本文の内容との関連も見て取れる。

 

クシ:クシュ。ゼファニヤの父の名前。通常は、エチオピアを意味する言葉。おそらくはクシュがその父・ゲダルヤとエチオピア人の母との混血だったことに由来すると考えられる。

 

ヒズキヤ:原文はヒゼキヤと同じ。ユダの王ヒゼキヤと同名であるが、同一人物かは不明。もしヒゼキヤ王だとすれば、ゼファニヤは王家の一族に連なる。わざわざ系譜を四代までさかのぼって記していることを考えれば、そのことを記そうとしたと考えられる。

 

ヨシヤ:南ユダ王国第十六代目の王。在位BC640-609。八歳で即位。父や祖父の偶像崇拝を改め、ヤハウェ唯一神の信仰に立ち帰る「申命記改革」を実行。のちにエジプトとの戦いで志半ばで戦死。ダビデ・ヒゼキヤとともに、列王記の中で珍しく神の前に正しく歩んだ王として記される。

 

⇒ ※ ゼファニヤは、王家の血を引きつつ、かつ異民族の血も引いており、複雑な生育環境や立場にあったと推測される。ヒゼキヤ王の後の王であったマナセとアモンは、偶像崇拝に走った悪王として列王記には記される。おそらくゼファニヤは、アモンの次の王になったヨシヤに対して大きな期待をし、王家の一員としてヨシヤの改革運動に影響力を及ぼし、指導する立場にあったと考えられる。幼少のヨシヤ王の補佐役であったかもしれない。(列王記には、ヨシヤの時代に活躍した人物としては、大祭司ヒルキヤや、女預言者フルダなどの名前が挙げられている(列王記下22章)が、特にゼファニヤの記述はない)。

 

◇ 1:2~1:3 自然界に対する審判の告知

 

地の面から一切が一掃。人も家畜も鳥も魚も除かれる。

 

⇒ ※ なぜ人間の罪で自然界まで一掃されるのか? 

ロマ8:22 人間の罪によって、被造物も共に苦しみ、人間が救われれば、被造物も共に救われるというのが聖書の世界観。

c.f. : ノアの洪水(創世記7:23)、ソドムとゴモラの滅亡(創世記19:24,25)

 

ただし、おそらくは、全世界を滅ぼすというよりも、罪人の周辺地域の自然が荒廃し、生産力が衰え、国力が衰退することへの警告とも考えられる。

 

⇒ 主眼は人間への警告にあると見るべきで、実際に以下の箇所はすべて人間への警告となっている。

※ 新共同訳「神に逆らう者をつまずかせ」⇒岩波訳「わたしは悪しき者たちを躓かせる。」

 

◇ 1:4~13 ユダに対する審判の告知

 

1:4「バアルの名残」 ヨシヤ王による改革以前のユダヤには、マナセとアモンの治世において広まった多神教偶像崇拝が深く根を下ろしていた。

 

1:5「天の万象」=被造物である自然界を崇拝対象とする多神教(c.f.日本)

 「マルカム」=ミルコムとも。アンモン人の主神バアルの通称。モレクとも呼ぶ。モアブ人においてはケモシュと呼ばれた。しばしば人身御供も行われた(列王記下3:27)

 

1:6フランシスコ会訳「主から離れ去り、/主を求めず、また主に尋ねない者を絶つ。」

関根訳「またヤハウェからはづれ、ヤハウェを求めず、ヤハウェを尋ねない者を。」

⇒ 主に背を向け、離れ、主と対話しながら生きていくことをやめた時、人の生命は枯渇していく。

 

1:7 ⇒ 神の前の沈黙(c.f.ハバクク2:20、イザヤ30:15) 神の細く静かな声に耳を澄ませること。

 

新共同訳の「呼び集められた者を屠るために聖別された」は誤訳か?

キリストが犠牲として供えられ、キリストを信じる人々(=主に招かれた人々)は義とされた(聖別された)と読む方が、新約の光に照らした時に筋道が通る。ここは一種のメシア預言ととるべきか。

 

フランシスコ会訳「主なる神の前に沈黙せよ。/主の日は近いからだ。/実に主は犠牲(いけにえ)を備え、/主に招かれた人々を聖別された。」

 

文語訳 「汝、主エホバの前に黙せよ。そは、エホバの日近づき、エホバすでに犠牲(いけにえ)を備え、その招くべき者をさだめ給いたればなり。」

 

 

1:8 「高官たちと王の子ら」を罰する。⇒ 王自身は罰の対象となっていない。おそらく、ヨシヤ王が義しい王であったためか。ヨシヤ王の息子のヨヤキムは、エレミヤから再三批判された悪王だった。

 

1:10 「魚の門」:エルサレム北側の主要な門。(歴代誌下33:14)

   「ミシュネ地区」:第二区。神殿の北側、エルサレムの西側の丘にあり、上流階級の人々の住居があった。(列王記下22:14)

⇒ エルサレムの東から西は崖で攻められにくく、北は攻められやすかった。

 

1:11 「マクテシュ地区」:原語は窪地。魚の門と同じ地域。

⇒ 経済にばかりかまけて、魂のことをなおざりにしていた人々は、絶たれる。

 

1:12 フランシスコ会訳:「その時、わたしは、明かりをつけてエルサレムを捜し、/酒の澱の上に凝り固まっている者、/心の中で、『主は善いことも悪いこともしない』と言う者を罰する。」

「酒の澱の上に凝り固まって」⇒ぶどう酒の発酵のプロセスに入らず、かたまって浮いている不純物。役に立たないもの、頑ななもののこと。神に対して無感覚になり、良心が麻痺すること。

 

⇒ 「神は善いことも悪いこともしない、自分に無関係なものだ」と考え、道徳や法を守らずに生きる人々を、神は逐一探し出して罰する。天網恢恢疎にして漏らさず。神は人生に何も関係がないと考えることが、人の罪の源であり、神に背を向け、神からはずれた生き方の原因だと、ゼファニヤは指摘している。そして、そのような状態になると、人生の実りがなくなると指摘する(1:13)。

 

 

◇ 1:14~18  主の日

 

1:14 「主の日」:神が人間の歴史に介入する一定の時間のこと。

c.f.ヨエル1:15、オバデヤ15

 

1:15-16 岩波訳 「その日は、憤りの日、苦しみと苦悩の日、滅びと滅亡の日、暗闇と暗黒の日、密雲と黒雲の日、角笛と鬨(とき)の声の日、堅固な町々の上に、諸々の高い四隅の塔の上に(臨む)。」

 

⇒ 「怒りの日」(Dies irae) セラノのトーマスが13世紀に書いたラテン語の詩。モーツアルトのレクィエム、ヴェルディのレクィエム。

 

Dies iræ, dies illa

solvet sæclum in favilla:

teste David cum Sibylla

 

Quantus tremor est futurus,

quando judex est venturus,

cuncta stricte discussurus

 

怒りの日、その日は

ダビデとシビラの預言のとおり

世界が灰燼に帰す日です。

 

審判者があらわれて

すべてが厳しく裁かれるとき

その恐ろしさはどれほどでしょうか。

 

 

「滅び」原文はショアー

日が六回繰り返されている。天地創造のやり直しか。

 

1:17 「目が見えない者のように歩かせる。」 

⇒ 苦しみの中で、展望がなく、希望がないことほど、つらいことはない。主に対する罪の結果。

 

1:18 「金も銀も彼らを救い出すことはできない」

⇒ 金銭や財産は、究極的には救いの足しにならない。

c.f. ルカ12:13-21 「愚かな金持ちのたとえ」

 

Ⅲ、悔い改めの呼びかけ (2:1~2:3) 

 

◇ 2:1~2:3 義と謙遜への呼びかけ

 

2:1‐2  判決が出る前に、恥を知り、悔い改めるために集まることの呼びかけ。罪を悔い改めた人々の集い=エクレシアの形成の呼びかけ。

 

※ 2:3 口語訳:

 

「すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、

主を求めよ、

正義を求めよ、

謙遜を求めよ。

そうすればあなたがたは主の怒りの日に、

あるいは隠されることがあろう。」

 

岩波訳「ヤハウェを求めよ、/ヤハウェの公義を行う/すべてこの地のへりくだる者たちよ。/義を求めよ、/謙虚さを求めよ、/あるいは、ヤハウェの怒りの日に、/あなたがたは匿(かくま)われることになろう。」

 

関根訳「ヤハウェを求めよ。/[地のすべてのへり下れる者よ、/彼の定めを行う者。]/義を求めよ、/へり下りを求めよ。/君たちはあるいはかくまわれるであろう、ヤハウェの怒りの日に。」

 

新改訳「主の定めを行う/この国のすべてのへりくだる者よ。/主を尋ね求めよ。/義を求めよ。柔和を求めよ。/そうすれば、/主の怒りの日にかくまわれるかもしれない。」

 

フランシスコ会訳「主を求めよ。/地のすべての謙虚な者たち、/主の掟を守る者たちよ、/正義を求め、謙遜を求めよ。/主の怒りの日に、匿ってもらえるかもしれない。」

 

バルバロ訳「主をさがし求め、主の定めを踏み行う、/地のしいたげられた者よ、/正義を求め、謙遜をさがせば、/主の怒りの日を免れるかもしれない。」

 

文語訳「すべてエホバの律法(おきて)を行うこの地の遜(へりくだ)るものよ、汝らエホバを求め、公義を求め、謙遜を求めよ。さすれば、汝ら、エホバの怒りの日に、あるいは匿(かく)さるることあらん。」

 

※ 新共同訳「苦しみに耐えてきたこの地のすべての人々よ」=フランシスコ会訳「地のすべての謙虚な者たち」=アナウィーム

= 福音書における「貧しい人々」(「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6:20)

 

※ 「謙遜」=「柔和」 「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)

 

⇒ 「義」と「謙遜」を神は人に求めている。悔い改めて、義と謙遜を取り戻せば、神の怒りから守られ、安全となる。

 

義や罪に鈍感になること=傲慢

義や罪に敏感になること=謙遜 (神の細く静かな声に耳を澄ますこと)

 

 

Ⅳ、諸国民への審判 (2:4~2:15) 

 

◇ ペリシテに対する審判  2:4-7

 

ガザ、アシュケロン、アシュドド、エクロン:ペリシテの都市の名前。ガテと合せて、ペリシテの五都市と呼ばれていた(ヨシュア13:3)。ペリシテはこの五つの都市の同盟連合だった。ここでガテが挙げられていないのは、アシュドドにすでに久しく従属していたため(関根訳・註四、131頁)。

 

クレタペリシテ人クレタ島から来たとされる。

 

「海沿いの民」 アモス8:11-12(主の言葉を聞くことができぬ飢えと渇き)を踏まえて考えれば、神の言葉を聞くことができない民のことか。

 

2:6―7  ペリシテの地も、羊飼いのものとなり、繁栄が回復する。

⇒ 異邦人も悔い改め、神の言葉を聞くようになれば、救われる。

 

◇ モアブとアンモンに対する審判  2:8-11

 

モアブ、アンモンユダ王国の東に隣接する国々。アブラハムの甥のロトの子孫とされる。

 

嘲り・おごり⇒ ソドムとゴモラのようになる。

 

2:11 偶像の神々を滅ぼし、島々の人々まで主にひれ伏すようになる。

⇒ 異邦人も、全滅ではなく、審判ののちの悔い改めと神への立ち帰りに力点が置かれている。神が滅ぼすのは、人間が自己中心のためにつくりだした本当は神ではないものに対する倒錯した崇拝対象である偶像。

 

◇ クシュ人への審判 2:12

クシュ:エチオピアのこと。ゼファニヤの父の名前もクシュであり、ゼファニヤの父方の祖母がエチオピア人の可能性が高い。ただし、ここでのクシュは、エチオピアというより、エジプトへの審判のことを指すとも考えられる。当時エジプトは、第二十六王朝であったが、その初代王はエチオピア人アンメリスとも伝わる。ただし、第二十六王朝自体は、二十四王朝と同じくリビア系と考えられる。直前の第二十五王朝は、ヌビア人の王朝であり、ヌビア人はクシュ人ともしばしば呼ばれていた。第二十五王朝の滅亡はBC656年だが、その残存勢力であるメロエ朝への変動に関する事柄を指すのかもしれない。

 

 

◇ アッシリアへの審判 2:13-15

 

アッシリアとその首都ニネベの破滅が告知される。(c.f.ナホム)

 

2:15a 関根訳「これがかの安居しつつ、/笑いさざめいていた都であるか。」

 

フランシスコ会訳 「これが、安心しきって生活し、心の中で「わたしのほかに誰もいない」と言い、/たいした勢いだったあの町だろうか。」

 

バルバロ訳「安らかに君臨し、/心の中で、「私だ、私のほかにはない」/といっていたあの勝利の町が、これか。」

 

新改訳「これが、安らかに過ごし、/心の中で、「私だけは特別だ。」と言った/あのおごった町なのか。」

⇒ 自分は特別だと考え(「~ファースト」といった考え方)、神の審判を少しも恐れず、正義に鈍感になり、謙遜を忘れて驕っている勢力は、いかに力の強い存在であろうと、最後は荒廃に帰す。

(c.f. アッシリア、バビロン、ペルシア、マケドニア、ローマ、ナチスetc.)

 

 

Ⅴ、おわりに  

 

ゼファニヤ書から考えたこと

 

・次回とりあげるゼファニヤ書第三章では、神の愛による新生が述べられているが、その前提には、今回読んだ箇所に説かれる、悔い改めと義と謙遜が存在している。

今回、ゼファニヤ書の第一章・第二章を丹念に読むことで、いかに日頃自分が「酒の澱の上に凝り固まっている」ようなもので、神の審判をさほど真剣に考えることもめったになく、鈍感になっていることかと反省させられた。

この世の中に本来は行われるべき正義に鈍感で、虐げられている人々(アナウィーム)にも無関心でさほど連帯もせず、「主から離れ去り、/主を求めず、また主に尋ねない者」というのは、わがことと反省させられた。

 

・と同時に、今回丹念に読んでいて気づかされたのは、「神の怒り」「主の審判」の警告は、滅ぼすためではなく、なんとか悔い改めさせて、それらの滅亡から免れさせようとするためのものであることが、行間ににじみ出ていることに初めて気づいた。

かつては、ゼファニヤ書、およびゼファニヤ書から書かれた「怒りの日」(Dies irae)の詩や音楽は、人を恫喝し脅かすもののように感じることもあったが、そうではなく、人間が自分自身の罪で滅亡の事態に至ることを、事前になんとか回避させようとする神の衷心からの警告であり、愛があればこそなのだとわかった。(このまま歩くと穴に落ちることを警告する案内人、あるいは非行少年を叱る親のようなものと思われる)。

 

・義に鈍感になることが傲慢であり、義に敏感になることが謙遜だということを、ゼファニヤ書を読んで考えさせられた。

・また、ゼファニヤ書の言う「義を求める」ということは、新約の光に照らすならば、自分の義ではなく、キリストの十字架の義であり、ゼファニヤ1:7ですでにキリストの犠牲が預言されていることに今回読んでいて気づかされた。

・次回は、これらの内容を踏まえた上で、ゼファニヤ書三章に説かれる「愛によって新たにされること」(=新生)について、新約を参照しながら考えたい。

 

 

※ ゼファニヤ書 第二章三節 (義と謙遜の呼びかけ)

 

 

 בַּקְּשׁ֤וּ אֶת־יְהוָה֙ כָּל־עַנְוֵ֣י הָאָ֔רֶץ אֲשֶׁ֥ר מִשְׁפָּטֹ֖ו פָּעָ֑לוּ בַּקְּשׁוּ־צֶ֙דֶק֙ בַּקְּשׁ֣וּ עֲנָוָ֔ה אוּלַי֙ תִּסָּ֣תְר֔וּ בְּיֹ֖ום אַף־יְהוָֽה׃

バッケシュー・エット・ヤハウェ・コール・アンヴェー・ハアーレツ・

アシェール・ミシュパトー・パアールー・

バッケシュー・ツェーデク・バッケシュー・アナヴァー・

ウーウラーイ・ティッサッテルー・ベヨウム・アプ・ヤハウェ

 

 

「すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、

主を求めよ、

正義を求めよ、

謙遜を求めよ。

そうすればあなたがたは主の怒りの日に、

あるいは隠されることがあろう。」」

 

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・デイヴィッド・W・ベーカー著、山口勝政訳『ティンデル聖書注解 ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書』いのちのことば社、2007年

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

私にとっての無教会:無教会の二つの大きな意義

『私にとっての無教会:無教会の二つの大きな意義』  

 

 

 「はじめに」

 

 私は無教会の集会に参加するようになって、まだ三~四年である。信仰も人生経験も浅く、小半世紀あるいは半世紀以上聖書を学び続けてきた方の多いこの場で証をするなど、本当は任に堪えない者である。しかしながら、無教会に感謝の気持ちを伝えたいと思い、今回証をさせていただいた。

 

 

 「私にとっての無教会の意義 ① 聖書の学び」

 

 では、何に感謝しているかと言うと、まず無教会において聖書を深く学ぶことができたということである。「無教会=聖書を深く学ぶことができる場」、聖書を平信徒(layperson、特に専門家でもない普通の人)が深く学ぶことができるかけがえのない場に出会うことができた。そのことを神に感謝している。

日本において、そのような場は、内村鑑三によって切り開かれたと考える。奈良時代には、景教ネストリウス派キリスト教)が到来していたという説もある。しかし、一般民衆にはほとんど関係がなかった。戦国時代には、ザビエルによるキリスト教カトリック)の宣教が行われ、多くの庶民がキリスト教を知った。聖書の部分的な翻訳も行われていた(バレト写本など)。しかし、聖書の翻訳を多くの庶民が読むという状況にはまだ至らなかった。幕末・明治の開国以後、聖書の翻訳が行われ、多くの日本人が聖書を読むことができるようになった。ただし、今も昔も、必ずしも聖書を読むことを大切にしない教会や信者も多い。カトリックにおいては、公教要理(カテキズム)が重視され、ミサなどの儀式に重きが置かれている。また、本来はルターの聖書第一主義から起ったはずのプロテスタントも、ボランティアや組織運営でいそがしい所が多い。もちろん、人によっては深く聖書を学んでいる人が教会にもいることを否定しないが、内村鑑三がすでに指摘したとおり「日本のキリスト教徒の聖書知識の乏しさには驚くばかりだ。」(小舘美彦・小舘知子訳『ジャパン・クリスチャン・インテリジェンサー』燦葉出版社、二〇一七年、五三頁。)という現状は、今日もあまり変わっていない。

その中で、内村鑑三の無教会主義の画期的意義は、ひたすら聖書を深く味わい学ぶことに中心を置く場をつくったことにある。主日ごとに聖書本文に即した学びを重視する無教会の「説教より講話」というありかたは、そのことをよく表している。

 ただし、儀式や典礼や組織よりも御言葉を学ぶことを中心とするという無教会のあり方は、何も内村鑑三に始まったものではなく、初代教会にさかのぼる(参照:高橋三郎『新約聖書の世界』(教文館)一九九四年)。マタイ的理解においては聖餐式や教会という制度が重視されているが、ヨハネ的理解においては御言葉そのものに集うありかたがすでに明記されている。両者の併存が新約聖書であり、したがっていずれかを否定する必要はない。

しかし、教会の教義や儀式が人の救いの妨げになる場合には、塚本虎二の「教会の外に救いあり」という言葉が、本当に救いになる場合もある。それが私の場合だった。

 

 

「私にとっての無教会の意義 ② 個人的な体験・私の妹のこと」

 

十五年前、私が二十五歳の時に二つ年下の妹が、四年間の闘病の末に亡くなった。悪性リンパ腫という病気で、入退院をくりかえし、私から二回骨髄移植を行い、本人も家族も一丸となって病気が治ることを願っていたが、治らなかった。その時は、「神も仏もない」と思った。また、そうであればこそ、強く宗教的な救いを希求するようになった。いくつかの宗教を遍歴し(『季刊無教会』第四十八号にそのことは記させていただいた)、途中を割愛し結論だけ述べると、私はキリストを信じ、聖書を学ぶようになった。

しかし、そうなったらなったで、キリスト教の信仰を持たずに亡くなった私の妹は、死後に救われたのかという疑問が生じるようになった。若き日に矢内原忠雄内村鑑三に対して同様のことを質問したというエピソードがある。ノン・クリスチャンだった父親は死後に救われたのかと問う矢内原に対し、内村は自分にもわからないと答え、その疑問は時が来ればおのずとわかると答えた。これは、杓子定規に結論を出すことはできず、時間の経過の中で神と対話を積み重ねる中で解決が与えられると内村は言いたかったのだと思う。

 私も長くこの疑問を抱いていたが、今年の四月、同じ無教会の集会の方の勧めで『母 小林多喜二の母の物語』という映画を見て、氷解した。

 周知のとおり、小林多喜二特高警察の拷問によって非業の死を遂げた。戦後になり、何年も経っても、母のセキは多喜二の死を思うとはらわたの焼けるような思いがしていた。そんなある日、ある牧師が、セキに、マタイによる福音書の二十五章の四十節を引き、以下の内容のことを述べた。

エス様は、小さい者のために尽くした人は、イエス様のために尽くしたのと同じだと述べている。小林多喜二キリスト教徒ではなかったかもしれないが、本当に弱い人々や貧しい人々のために命をかけて尽くした。そのことはイエス様に本当に尽くしたのと同じだから間違いなく天国にいると思う…。

その映画の中のセリフは、私にとっては啓示のように響いた。そして、私の妹の、生前には知らなかった、あることを思い出した。それは、私の妹の小学校・中学校・高校の時の友人が、それぞれ一人ずつ、妹が亡くなった後に、わが家にやって来て、語ってくれた感謝のことばだった。

妹が小学六年の二学期、わが家は引っ越した。妹は卒業まで、電車で以前の小学校に通学し続けた。私はてっきり、途中で小学校が変わるのが嫌だからそうしていたと当時は思っていた。しかし、小学時代の妹の友人が、妹が亡くなったあと、語ってくれたことは、瞳ちゃん(私の妹のこと)は、自分のために引っ越し後も電車で通学してくれていた、ということだった。その友人は、小学校で私の妹の他に友達がいなかった。とてもおとなしい性格だった。そのため、心配して、瞳ちゃんは電車で通い続けてくれた。そのおかげで、自分も小学校を無事に卒業できた。その後は順調にずっと来ている。瞳ちゃんのおかげだ、と。

中学の時の妹の友人も、ある時うちに来て、生前知らなかったことを語ってくれた。とても明るくかわいらしい方で、今は保育士になっている。その中学時代の妹の友人は、妹のいる中学に途中から転入してきたのだけれど、引っ越してくる前の中学で、大変ないじめに遇ったことがあったそうだ。それでとても心が傷ついた状態で転校してきたところ、すぐにうちの妹が友達になってくれて、それで新しい中学ではいじめられることもなく、無事に卒業できた。そのあとはずっと順調で幸せに過ごしている。瞳ちゃんのおかげです、と語ってくれた。

もう一人、高校の時の妹の友人が語ってくれたことがある。その友人は十五年経った今でも、妹の命日やお盆には必ずお花を贈ってくれる。県内有数の進学校を卒業し、今は結婚して幸せに過ごしている。その方が話してくれたことには、高校時代はどうも高校がなじめず、やめようと思ったこともあった。しかし、瞳ちゃんがいつもさりげなく側にいて友達でいてくれた。そのおかげで高校を無事に卒業することができた。今の自分があるのは瞳ちゃんのおかげだ、と。

 マタイによる福音書の二十五章四十節には、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と記されている。もし杓子定規な、儀式や典礼を中心とするキリスト教の教理による考え方であれば、洗礼を受けていない人間は天国には行かないのかもしれない。しかし、聖書自体の御言葉によるという無教会のおかげで、私は今は違う考えに至ることができた。

 べつに私の妹が正しい行為をしたから、その功績で天国に行ったということが言いたいわけではない。そういうことが言いたいのではない。そうではなくて、誰かから感謝されるような心で生きた人間を、愛である神がほっておかれるはずがない。見捨てるわけがない。そのような神の愛というものに、私は、この御言葉を通じて触れることができた。小林多喜二についての映画をきっかけに、このマタイによる福音書の二十五章四十節の御言葉にあらためて触れて、神の愛がいかなるものか、決してそのような人を見捨ててはおかぬ神の愛というものに、触れた気がするのである。

 また、仮に信仰によってのみ人が救われるとして、ある人が心の中で信仰に至っていたかどうかについて、たとえ家族であっても本当にわかるのだろうか。妹の生前は、私自身がまだキリストへの信仰に至っておらず、妹とキリストへの信仰について話をしたことはなかった。しかし、母から、私の妹が亡くなる少し前に、「私は神にさからうことをやめた。」と言ったと聞いたことがある。妹がどのような意味でそう言ったのか今となってはわからない。

また、私の妹は、ノン・クリスチャンだったはずなのだけれど、生前なぜか旧約聖書の「ヨナ書」と旧約聖書続編の「トビト記」を愛読していた。好きだったレンブラントの絵や当時読んでいた文学作品の影響だったと思われるが、そのことがきっかけで、現在私は福岡の集会で十二小預言書の講話を担当している。いつかヨナ書をきちんと理解したいと思い、その思いがきっかけとなって、十二小預言書を学ぶようになり、講話担当させていただくことになった。

 また、妹が亡くなった後、絵が好きだったので、遺したスケッチや絵をまとめて自費出版したことがあった。この画集を自費出版する時は、まだ私も母も無教会の集会に通うようにはなっておらず、キリストへの信仰にも至っていなかったが、たまたま母が当時読んでいた本の中から『Sursum Corda(スルスム・コルダ)』というタイトルにした。ずっと後になり、私も母も無教会の集会に通うようになってから、『讃美歌21』の中にこのタイトルの讃美歌があると知って驚いたことがあった。

 これらを思うに、すでに妹が救われているからこそ、その後、その導きで、自分がいま福音の信仰に至ったのだと思う。そして、聖書を学ぶようになり、時間の経過の中で、聖書のことばや、神との対話を積み重ねる中で、少しずつ、すべてに感謝し、神を讃美する心持に、変わっていくことができたのだと思う。

長い間、なぜ人は生きねばならないのか、この人生に何の意味があるのかと問うことも多かったが、今は、神は愛であり、愛をもって創造されたすべての存在や人生に意味があり、きっと私も、妹も、何がしか神の御経綸の中で意味がある存在なのだと思えるようになった。

 

 

 「結論」

 

私にとっての無教会とは、聖書という霊の糧を日々に学ぶことができ、また私のような教会の外の人間にとっても本当に聖書の言葉に即した慰めと救いをもたらしてくれる場である。教会の儀礼や儀式や教理とは縁のない私のような教会の外の人間にとって、真の救いをもたらすことができるかけがえのないエクレシアである。

 霊(プネウマ)の糧は、聖書の御言葉にある。人間は、肉体・こころ・霊の三つの要素から成り立つ(矢内原忠雄全集十五巻、二〇二~二一〇頁)。聖書こそ霊の糧であり、この霊の糧を日々に味わうことを通じて、キリストの愛による喜びの人生が開かれていくのだと考える。

 最後に、詩編の第三〇編二~六節(新共同訳)を読み、神を讃えたい。

 

「主よ、あなたをあがめます。

あなたは敵を喜ばせることなく

わたしを引き上げてくださいました。

わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを

あなたは癒してくださいました。

主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ

墓穴に下ることを免れさせ

わたしに命を得させてくださいました。

 

主の慈しみに生きる人々よ

主に賛美の歌をうたい

聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。

ひととき、お怒りになっても

命を得させることを御旨としてくださる。

泣きながら夜を過ごす人にも

喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」

『ハバクク書(下) ―  神による喜びと讃美 』 

 

ハバクク書(下) ―  神による喜びと讃美 』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、ハバククの詩 ① 導入・嘆願

Ⅲ、ハバククの詩 ② 神の顕現

Ⅳ、ハバククの詩 ③ 結論 

Ⅴ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに 

     

前回のあらすじ ハバクク書の第一章と第二章:

ハバクク書は、紀元前600年頃、アッシリアが滅亡し、新バビロニア王国が急速に台頭する時代を背景としている。第一章・第二章では、ハバククの神に対する問いかけと、神の答えが記されている。その主題は、神議論(神はなぜ悪を放置するのか?)である。

ハバククは、南ユダ王国国内、あるいはアッシリアの悪を見て、なぜ悪が放置されているのかと神に問う。すると、神はそれらの罪の審判として、バビロンを興すと答える。ハバククは、バビロンの暴虐を目の当たりにし、どうしてこのような悪を神が道具として用いるのかと問う。神は、その問いに対し、終りの時が必ず来ること、悪に対しては裁きがあること、「義人は信仰によって生きる」(ハバクク書2章4節)ことを答える。

ハバクク書は、神義論の問題に対して、長い時間をかけて歴史を通して神の意志が必ず実現するという「信実」(エメット)を伝えることで答えている。神の「信実」に基づく「信仰」を持つ時に、人は本当に生きるということが、ハバクク書では述べられている。

人は、信仰により、永遠のいのちを無償でいただき、かつこの宇宙には神の御経綸があり、世界や宇宙は終りの日の完成に向かっていくものであり、その中で自分の存在にも何かしらの創造された意味と目的があると知る時、虚無主義や刹那主義を乗り越え、本当に充実した意味のある人生を生きることができる。そのためには、神の御前に沈黙し、静かにささやく神の声に耳を傾け、神と対話すること(祈り)が大事であり、率直な問いかけとその中での神との対話の深まりの中に信仰の深まりもありうる。

 

前回と今回の内容のつながり

ハバクク書の第三章は、第一章・第二章と大きく形式や内容が異なり、ハバククの神に対する讃美が詩の形式で書かれている。

第一章・第二章とどのような関係があるのかは諸説あり、まったく別個に成立したテキストがハバククの手によるものとして特に前後の脈絡もなくハバクク書に入れられたという説も成り立つ。しかし、第一部(第一章・第二章)の中での神との神義論をめぐる対話を経て獲得した信仰による喜びと神への讃美を歌ったものと考えれば、第一部の内容を前提としてはじめて第二部(第三章)の讃美は成り立つと考えられる。

 

※ 「ハバクク書の構成」

第一部 ハバククの疑問と神の答え 第一章~第二章(1:1~2:20)  前回

第二部 ハバククの詩 第三章(3:1~3:19)  今回

 

・第二部(第三章)の構成 

① 導入・嘆願 3:1~2

② 神の顕現  3:3~15

③ 結論  3:16~19

 

Ⅱ、ハバククの詩 ① 導入・嘆願 (3:1~3:2)

 

◇ 3:1 題辞

シグヨノトの調べ:音楽の旋律あるいはリズムのことらしい。詩編第7編にも言及されている(「シガヨン」)。

岩波訳脚注(210頁)によれば、「語源的にヘブライ語のシャーガー(「迷い出る、さまよう、夢中になる」)から転調の激しい挽歌のような調べを想定する場合もあり、またアッカド語シグーから、哀歌の調べだと説明する試みもある。」とあるが、正確なところは不明。

バルバロ訳では「悲しみの歌の調べ」と訳されている。

 

◇ 3:2  神への嘆願

・新共同訳「御業に畏れを抱きます。」(マソラ本文) :

・岩波訳脚注「業を見ました」(七十人訳

 

・新共同訳「数年のうちにも」 : 口語訳「この年のうちに」。

⇒ ハバクク書第二章までの内容を踏まえて、長い年月をかけて神が必ず悪に対して審判を行い、良い方向に歴史を導くと信じているとしても、それをできる限り早く、自分たちが生きている間に見たいという願い・祈り。

 

※ この箇所では、ハバククが神に対して、近い将来に歴史に対する審判としての神の御業を示して欲しいという嘆願と、怒りの中にあっても哀れみを忘れずにいて欲しいという祈りがなされている。

 

文語訳 3:1-2シギヨノテに合せて歌える預言者ハバククの祈り。/エホバよ、われ、汝の宣(のたも)うところを聞きて懼(おそ)る。/エホバよ、このもろもろの年のあいだに汝の運動(わざ)を活発(いきはたら)かせたまえ。/このもろもろの年のあいだにこれを顕現(あらわ)したまえ。/怒る時にも憐れみを忘れたまわざれ。」

 

Ⅲ、ハバククの詩 ② 神の顕現 (3:3~15)

 

◇ 3:3  テマン:エドムの中の地域名。

パランエドムの地域の中にある山の名前。

 

※ なぜエドムの中の地名が出るのか?

 

① 申命記33:2「主はシナイより来り/セイルから人々の上に輝き昇り/パランの山から顕現される。主は千よろずの聖なる者を従えて来られる。その右の手には燃える炎がある。」

  士師記5:4「主よ、あなたがセイルを出で立ち/エドムの野から進み行かれるとき/地は震え/天もまた滴らせた。雲が水を滴らせた。」

⇒ 出エジプトの時に、この地域を通って主に導かれてきた歴史的な経緯の想起。神の御力と御業を思い起こすため。

 

② ケニ人説。ヤハウェ一神教は、エテロ(モーセの舅)をはじめとしたケニ人(ミデアン人の一部)からもともと伝わったという学説。ハバクク書のこの箇所は、もともとヤハウェ一神教イスラエルよりも南のエドムやミデアンの地域から伝わったことを示唆すると考える。

 

⇒ おそらくは①説が妥当か?

 

文語訳3:3~4「神、テマンより来たり、聖者(きよきもの)パラン山より臨みたもう。その栄光、諸天を蔽い、その讃美、世界に徧(あまね)し。その朗耀(かがやき)は日のごとく、光線その手より出づ。彼処(かしこ)はその権能(ちから)の隠るるところなり。」

 

◇ 3:5 病気も神に従うこと: c.f. 十災。あるいは、逆にキリストが多くの人を癒したこと。

⇒ しばしば、病は、人を神に導く先触れとなる。 (本人、あるいは家族の)

 

◇ 3:6 自然も悠久のように見えるが、神の被造物であり、しょせんは無常なもので、本当に永遠なものは神の道のみ、ということ。

ただし、関根訳のみ若干解釈が異なる。

 

関根訳3:6-7「…永遠の軌道も彼によって壊される。」

⇒ この解釈だと、神のみ自由に自然法則に介入して奇跡を起こしたり、人間の決まりきったパターンをくつがえすことができる、という意味になる。

 

◇ 3:7 クシャン=クシュに属するもの。 クシュはエチオピヤ(聖書の指す範囲はエジプト南部から東アフリカ一帯)を指すが、まれにベニヤミン人のことを指すらしい用例もある(詩編第7編)。あるいは、ここでは、ミデアンと関係のある南アラビアの地方あるいは部族を指していると考えられる。

 

※ この箇所は何を述べているのか?

① ミデアンやクシュの人々が神の審判を受けること

② ミデアンやクシュの人々が、バビロンの攻撃を受けて動揺すること。

⇒ おそらく②と考えられる。まず南ユダ王国の周辺の弱小地域や部族がバビロンの攻撃を受けその支配に組み込まれる様子を描いている。

 

 

◇ 3:9 新共同訳「言葉の矢で誓いを果たされる」:  難解な箇所

 

フランシスコ会訳脚注「み言葉と七つの矢」(「誓い」を同じ語源の「七」と読む)

⇒ この訳だと、み言葉と七つの聖霊(イザヤ11:2-3)という意味になり、メシアがみ言葉と七つの聖霊によって人々を救うという意味に受け取れる。

 

・岩波訳「(その)言葉が矢による誓いとなる。」

⇒ サムエル上20:42 ヨナタンが矢によってダビデの命を救う誓い

⇒ この意味だと、御言葉によって人の命を救う、という誓いの意味になる。

 

⇒ 聖霊による御言葉、あるいは人の命を救う御言葉の譬えとして、「矢」という言葉がここでは用いられていると読むべきか。

 

 

◇ 3:11 新共同訳「日と月はその高殿にとどまる。」 :これも難解

 

フランシスコ会訳3:11「日と月とはその住処(すみか)のうちに留まり、/あなたの矢の光と槍の煌めきに従って、/それらは動く。」

 

「日と月とはその住処(すみか)のうちに留まり」

⇒ フランシスコ会訳脚注:「日」を前節の最後と合せて読み、「日は昇るのを忘れる」と読みかえる説もある、と指摘。おそらく日食や、厚い雲が覆っていることを述べていると推測。

⇒ 日がささなくなったこと・日食あるいは暗雲の状況とすれば、キリストの磔刑の時の空の様子?

⇒ 太陽と月を、キリストとその光を受けて生きる使徒や弟子と考えれば、十字架の死と、その後に復活し、御言葉によって弟子たちも生き始めた様子?

 

◇ 3:13 油注がれた者を救うために神が動く。

⇒ メシアの復活と審判。あるいは、油注がれた者を、メシアではなく、イスラエルの民、あるいは神の民と解釈すると、それらの人々を救うために、キリストが悪や罪を根源から粉砕する様子のことか。

◇ 3:14 新共同訳「あなたは矢で敵の戦士の頭を貫き」

関根訳 3:14「あなたは彼ら自身の矢をもって/荒れ狂うその従者たちの頭を貫く」

⇒ 関根訳だと、自らの行いの報いが審判されるという意味になる。

 

②を通して

※ ひとつの解釈としては、3:8~12(怒りをもって国々を踏みつける)については、バビロンを道具として神の怒りが示され、バビロンの急速な勃興と支配が行われることを述べ、それに対して、3:13~15では、バビロンに対する神の怒りの審判のビジョンが示されていると読むことも可能か。

※ ただし、正確な意味は特定できず、壮大なビジョンの中で、神の圧倒的な力が示されているということと、それが「み言葉の矢」、つまり神の言葉によって遂行されることが述べられている。

 

Ⅳ、ハバククの詩 ③ 結論  (3:16~19)

 

◇ 3:16 「それ」とは何か?

 

 「それ」が指すものは、一見、この第三章の詩のそれまでの部分のように見える。しかし、そうすると、ハバククのこの箇所での苦悩や苦悶の理由がよくわからない。「それ」は、ハバクク書の1:5~1:11において示された預言、つまりバビロンの急速な勃興の預言のことと考えると、意味内容としては理解しやすい。

なお関根訳では3:16後半は「わたしは苦しみの日、われらを襲う/一つの民が起こる日のためにうめく。」となっており、このようにバビロンの台頭の預言と解釈すれば、ハバククの3:16前半での苦悩と苦悶の意味がわかりやすい。

あるいは、ハバククには、バビロンの台頭と、それによる南ユダ王国の滅亡およびバビロン捕囚までの両方が啓示されており、「それ」はその両方だと考えると3:16での苦悩は理解できる。(3:8~12と3:13~15の上記解釈参照)。

 つまり、直近のバビロン捕囚の預言にハバククは苦悩すると同時に、バビロンへの審判と捕囚からの解放も示されているとすると、そのことを「静かに待つ」と述べていることの意味がわかる。

 南ユダの滅亡と捕囚、およびその後の解放も同時に啓示され、すべては神の計画として避けられないことをハバククは知り、このように呻き、かつ「静かに待つ」と述べたと考えられる。

◇ 3:17  全く何も実をつけず、生計の糧もない、絶望的な状況。

⇒ 人生における苦境。何をやってもうまくいかない時期。貧乏や窮乏の時期。

あるいは、いちじく=律法、ぶどう=福音、オリーブ=黙示録(未来の預言)の象徴と考え、そのどれも無力なように感じられる打ちひしがれた様子。

 

◇ 3:18 新共同訳「踊る」:原語は、「よろこぶ」のヘブライ語のもう一つの言葉。

 

◇ 3:19  新共同訳「高台」:口語訳「高い所」 NIV“heights”(高み)

 

偶像に対する崇拝が行われていた「高台」と解するよりも、「高いところ」と一般的に解した方が、信仰の喜びによって、くじけずに、いかなる場合も高い精神性を持って歩み、気高い生涯を生きることができるという意味に受けとることができる。

⇒ 絶望的な状況にあっても、無条件の喜びが信仰によって存在することが述べられている。

 

ハバクク3:18-19 諸訳対照

 

・関根訳3:18-19「わたしはヤハウェにあって喜び/わが救いの神にあって楽しもう。/主ヤハウェはわが力、/彼はわが足を雌鹿のようにされ、/わたしをして地の高みを歩ませ給う。」

 

・口語訳3:18-19「しかし、私は主によって楽しみ、わが救(すくい)の神によって喜ぶ。/主なる神はわたしの力であって、/わたしの足を雌じかの足のようにし、/わたしに高い所を歩ませられる。」

 

・岩波訳3:18―19「しかし、私はヤハウェによって喜び、/わが救いの神に、私は喜び踊ろう。/わが主(なる)ヤハウェはわが力、わが足を雌鹿のようにし、私に高き所を歩ませて下さる。」

 

フランシスコ会訳3:18-19「しかし、わたしは主にあって喜び、/わたしの救いの神にあって歓喜しよう。わたしの主なる神はわたしの力。/わたしの足を雌鹿のようにし、/わたしに高い所を歩ませられる。」

 

・バルバロ訳3:18-19「しかし、私は主において楽しみ、/私の救い主、神において喜ぶ。/神である主は私の力。/主は、私の足を雌じかの足のようにし、/頂を歩ませられる。」

 

・文語訳3:18―19「さりながら、われはエホバによりて楽しみ、わが救いの神によりて喜ばん。/主・エホバは、わが力にして、わが足を鹿のごとくならしめ、われをしてわが高きところを歩ましめたもう。」

 

※ どの訳も一長一短あり、それぞれに素晴らしいが、ハバクク第三章の訳について言えば、冒頭の箇所と末尾は、特に文語訳が素晴らしい?

 

讃美の喜び

ハバククのこの詩は、指揮者によって伴奏付きで歌われた(3:19)。

ユダ王国の末期、バビロンに圧迫され、最終的にはエルサレムが陥落させられ、バビロン捕囚の憂き目にあったユダヤの民にとって、このハバククの詩はことのほか愛唱され、語りつがれ、歌い継がれてきたと考えられる。

 

最初に嘆願によって始まったハバククの詩は、末尾の結論としては、現状をあるがままにすべて感謝し喜ぶことによって結ばれている。

その喜びの背景には、いつかは必ず神によって審判や救いの時が来るという希望があるということもあるかもしれない。

しかし、この箇所は、いかなる状況でも神と共に生き、神との交わりの中で生きること自体が喜びであり、この信仰の喜びは無条件にどのような状況でも与えられるということを述べており、将来というよりも現在の喜びを述べていると考えられる。いかなる状況にあっても、意気阻喪して低みを生きる人生ではなく、信仰を持ち神とともに生きるがゆえに、雌鹿のように元気に生きて高みを歩いていけるということが、確信をもってここには述べられている。

 

※参照 Ⅰテサロニケ5:16~18「いつも喜んでいなさい。/絶えず祈りなさい。/どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

 

Ⅴ、おわりに  

 

※ ハバクク書第三章から考えたこと 

 

1、讃美について

他宗教と比べた時に、キリスト教の大きな特徴は、讃美にあると思われる。たとえば、神道の神社においては、御祓いや祈願が多く、神を讃えることがそれほど多く行われているとは思われない。また仏教の寺院も、一般的に、修行や儀礼が多く行われる場ではあっても、それほど讃美が多いとは思われない。例外として浄土真宗では讃嘆門が一応重視されており、他の仏教に比べれば讃美が多いと言えるが、それでもキリスト教における讃美歌ほど多くの歌曲が歴史的に存在してきたわけではない。修行や祈願や儀礼が多くの宗教において主要形態であるのに対し、キリスト教の場合、すでに救われた喜びによる讃美が大きな比重を占めてきたことは注目に値する特徴と思われる。

讃美はイエスパウロ以降の新約聖書において顕著な特徴ではあるが、旧約聖書においても出エジプト記(15:1)をはじめとし、士師記詩編エズラ、ネヘミヤ、イザヤ、そしてハバククなど、神への賛美は至るところに存在し、聖書を一貫している特徴と言える。

 

2、何を讃美するのか?

 現実的に何か良いことがあった場合(ex.病気平癒や商売繁盛など)に、神を讃美することは、比較的たやすいことであり、諸宗教においてもしばしばありえることと考えられる。しかし、ハバクク書第三章において述べられるのは、絶望的な状況においても、なお神によって喜び神を讃美することである。いかなる状況でも、現実をあるがままに受けいれて神に感謝し、神を讃美する時に、神の力は思わぬ働きをなしとげるのではないか。

(※参照:マーリン・キャロザース著『讃美の力』生ける水の川、1975年)

 

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・デイヴィッド・W・ベーカー著、山口勝政訳『ティンデル聖書注解 ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書』いのちのことば社、2007年

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『矢内原忠雄全集第14巻』、岩波書店、1964年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

雑感・高慢について

 

 聖書には、しばしば人間の「高慢」あるいは「傲慢」について戒めてある。古代ギリシャにおいても、神々の前に一番の罪とされたのは「高慢」(傲慢、ヒュブリス)だったそうである。

 そういえば、以前、箱崎にあるモスクでイスラム神学者の人と話した時も、何度も”arrogant”(アロガント、高慢・傲慢)という言葉を使って、それこそが最も人間にとって罪だということを述べていた。

 では、「高慢」あるいは「傲慢」とはどういうことなのだろうか。

 この前、矢内原忠雄全集を読んでいたら、そのことについてなるほどと思うことが書いてあった。

 矢内原によれば、「高慢」とは、「信仰に基づかない自信」のことだそうである。一方、 「信仰に基づく自信」は、「愛の実行力」をもたらすもので、大切なものだそうである。(矢内原忠雄「自信について」、全集14巻371頁)

 つまり、自分の力だけでなんとでもなると考えて、神に対する信仰に基づかない自信を持つと、人はどんどん神から離れていく。

 一方、神がこの宇宙を経綸している以上、自分も何かしら神の善い目的と計画の中で意味のある存在として創造されたわけであり、したがって自分の命には何かしらの意味があり、神を讃え神の栄光を現すために生きる、自分には意義がある、という自信があることは、より一層信仰を深め、また信仰にもとづく良い実践をもたらすものなのだろう。

 信仰に基づかない自信も、また信仰に基づく自信を持ち合わせない単なる卑屈も、どちらも滅びにつながるものなのかもしれない。

 とすれば、信仰にもとづく自信をしっかり持つことが、人生を意義深く生きるためにも最も枢要なことかもしれない。しかし、そのような、信仰にもとづく自信をしっかり持っている人の、なんと世に少ないことか。