雑感・高慢について

 

 聖書には、しばしば人間の「高慢」あるいは「傲慢」について戒めてある。古代ギリシャにおいても、神々の前に一番の罪とされたのは「高慢」(傲慢、ヒュブリス)だったそうである。

 そういえば、以前、箱崎にあるモスクでイスラム神学者の人と話した時も、何度も”arrogant”(アロガント、高慢・傲慢)という言葉を使って、それこそが最も人間にとって罪だということを述べていた。

 では、「高慢」あるいは「傲慢」とはどういうことなのだろうか。

 この前、矢内原忠雄全集を読んでいたら、そのことについてなるほどと思うことが書いてあった。

 矢内原によれば、「高慢」とは、「信仰に基づかない自信」のことだそうである。一方、 「信仰に基づく自信」は、「愛の実行力」をもたらすもので、大切なものだそうである。(矢内原忠雄「自信について」、全集14巻371頁)

 つまり、自分の力だけでなんとでもなると考えて、神に対する信仰に基づかない自信を持つと、人はどんどん神から離れていく。

 一方、神がこの宇宙を経綸している以上、自分も何かしら神の善い目的と計画の中で意味のある存在として創造されたわけであり、したがって自分の命には何かしらの意味があり、神を讃え神の栄光を現すために生きる、自分には意義がある、という自信があることは、より一層信仰を深め、また信仰にもとづく良い実践をもたらすものなのだろう。

 信仰に基づかない自信も、また信仰に基づく自信を持ち合わせない単なる卑屈も、どちらも滅びにつながるものなのかもしれない。

 とすれば、信仰にもとづく自信をしっかり持つことが、人生を意義深く生きるためにも最も枢要なことかもしれない。しかし、そのような、信仰にもとづく自信をしっかり持っている人の、なんと世に少ないことか。

資料:ハバクク書(上) ―  義人は信仰によって生きる

ハバクク書(上) ―  義人は信仰によって生きる 』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、ハバククの疑問① なぜ神は悪を放置するのか?

Ⅲ、神の答え① バビロンを興す 

Ⅳ、ハバククの疑問② 神はなぜ悪しき者を用いるのか? 

Ⅴ、神の答え② 約束と信仰 

Ⅵ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに 

    

 

ハバクク:十二小預言書のひとつ。全三章。紀元前600年頃、南ユダ王国の末期に活動した預言者・ハバククによる預言をまとめたもの。内容は、神義論(なぜこの世の悪を神が放置するのかという疑問)とそれに対する答えである前半と、後半のハバククの信仰の喜びを歌った詩から成る。

 

ハバククとは誰か?:ハバクク書以外の旧約聖書中の情報がなく、詳しいことは不明。父の名も出身地も不明。ただし、十二小預言者中、名前の前に「預言者」と冠して呼ばれている数少ない人物(他にハガイとゼカリヤのみ)なので、職業的預言者ないし神殿に仕える預言者だったと推測される。(なお、旧約聖書続編の「ダニエル書補遺 ベルと竜」には、ダニエルを助ける人物として預言者ハバククが登場するが、これはかなり後世の伝説と考えられる。)

 

ハバククの時代背景:ユダの王ヨシヤ、ヨアハズ、ヨヤキム、ヨヤキン、ゼデキヤの時代(BC640頃-587以前)

 ハバククの生きた時代は、預言内容から考えて、中東でアッシリアが急速に衰退し滅亡し、新バビロニア王国(聖書本文中の「バビロン」)が急速に台頭し、その猛威に南ユダ王国がさらされた頃である。エルサレム陥落とバビロン捕囚を実際に見届けたかどうかは本文中からは明らかではない。預言者のナホムおよびエレミヤとほぼ同時代と考えられる。

 

 

※ 「ハバクク書の構成」

 

第一部 ハバククの疑問と神の答え 第一章~第二章(1:1~2:20)  今回

第二部 ハバククの詩 第三章(3:1~3:19)  次回

 

ハバクク書は、第一、第二章の前半部分と、第三章の後半部分とでかなり内容が異なる。前半部分は、神がなぜ悪を放置するのかというハバククの問いとそれに対する神の答えが、後半部分ではハバククの詩が記される。

 

・第一部(第一~二章)の構成 

 

Ⅰ、ハバククの疑問① なぜ神は悪を放置するのか? (1:1~1:4)

Ⅱ、神の答え① バビロンを興す (1:5~1:11) 

Ⅲ、ハバククの疑問② 神はなぜ悪しき者を用いるのか? (1:12~1:17)

Ⅳ、神の答え② 約束と信仰 (2:1~2:20)

 

ハバクク書の前半部分である第一部は、ハバククの二つの問いと、それぞれに対する神の答えが記される。おそらく、一つ目の問いと、二つ目の問いの間には、かなりの時間の流れがあると想定される。

 

 

Ⅱ、ハバククの疑問① なぜ神は悪を放置するのか? (1:1~1:4)

 

◇ 1:1 題辞

ハバククアッカド語のバジルの木を意味する植物名「ハムバクーク」という説があるがよくわからない。「(神に)抱かれるもの」という意味との説もある。

:啓示。ハーゾーン(hazon)、神からの啓示、語りかけ。Vision。

 

◇ 1:2~4 ハバククの疑問① 「なぜ神は悪を放置するのか?」

 

新共同訳「不法」=「暴虐」(岩波訳)

新共同訳「災い」=「不義」(岩波訳)

 

ここで言われている「悪」とは何か:

① 南ユダ王国内部の悪:ヨヤキム、ヨヤキンなどの王、その大臣たちの悪、不信仰など。

② アッシリアのこと。

 

 

Ⅲ、神の答え① バビロンを興す (1:5~1:11) 

 

カルデア人新バビロニア王国(バビロン)をつくった人々のこと。五つの部族から構成されていた。主神はマルドゥクカルデア人は、かつてはアッシリア支配下にあったが、紀元前625年に独立し新バビロニア王国を建国。メディアと同盟を結びアッシリアを滅ぼし、紀元前605年のカルケミシュの戦いでエジプトを撃破し、中東一円を支配した。紀元前587年にはエルサレムを陥落させバビロン捕囚を行う。しかし、のちにペルシア帝国に倒され、紀元前539年に新バビロニア王国は滅亡。

 

神は、バビロンを興す。 ⇒ アッシリアの滅亡、南ユダ王国の罪の審判。

 

バビロン(カルデア人)の圧倒的な軍事力、猛威。(c.f.モンゴル、ナチスetc.)

 

◇ 1:11 バビロンは「自分の力を神とした」=罪に定められる。

 

 

Ⅳ、ハバククの疑問② 神はなぜ悪しき者を用いるのか? (1:12~1:17)

 

◇ 1:12前半 フランシスコ会訳:「主よ、あなたは永遠の昔からわたしの神、/わたしの聖なる方、不死なる方ではありませんか。」

(新共同訳「我々は死ぬことはありません」⇒ 神が「不死なる方」?)

 

◇ 1:17 新共同訳「剣を抜いても」 フランシスコ会訳脚注「網を使う」

岩波訳「その網を空にして」

 ⇒ 網を使って人々を捕まえ、網を使って殺し、その網に対してバビロンが香を焚いて供物を捧げている。

 ⇒ 「網」は、武器のたとえか? あるいは人を生かすのがキリストの網で、人の魂を悪しきものによってとらえて殺してしまうのがバビロンの網?

 

※ バビロンが、アッシリアや南ユダの悪を罰するための神の道具として用いられているとしても、なぜ清いはずの神が、神に逆らうものであるバビロンを用いるのか?なぜ神はバビロンの悪を放置するのか?

 

⇒ 我々も直面する問題。

仮に戦時中の日本の罪があったとして、原爆が用いられて良いのか?

ナチスに罪があったとして、ソビエトによるドイツの甚大な被害は何なのか?ナチスが去った後の東欧は、なぜソビエトに抑圧されねばならなかったのか?

イラクサダム・フセイン⇒ アメリカ・ブッシュ政権による戦争⇒ IS

 

⇒ もっと言えば、なぜこの世に「悪」は存在するのか?なぜ神は悪を放置するのか? ⇒ 神議論(theodicy)

 

 

Ⅳ、神の答え② 約束と信仰 (2:1~2:20)

 

◇ 2:1 答えを待ち望み意識して神のことばに耳を澄ます。職業預言者としてのハバククの態度、あるいは神との対話に関して万人に望まれる「沈黙」(2:20)。

⇒ 神の答えが与えられる。啓示。

 

◇ 2:2~4 フランシスコ会訳:「啓示を書き記せ。/それを読む者が容易に読めるように、/板の上にはっきりと書きつけよ。/この啓示は定められた時までのもの、/終わりの時について告げるもので、偽りはない。/もし、遅れるとしても、それを待ちなさい。/それは必ず来る。/それは遅れることはない。/見よ、心がまっすぐでない者は崩れ去る、/しかし、正しい人はその誠実さによって生きる。」

 

2:4 岩波訳:「見よ、増長している者を。/その魂はまっすぐではない。/義しい者は、その信仰によって生きる。」

 

2:4 関根訳:「見よ、不遜な者はその魂その中に留まらぬ。/しかし義人はその信実によって生きる。」

 

 

※ のちに、パウロが信仰義認説の根拠として引用。

 

「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ロマ1:17)

 

「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。」(ガラテヤ3:11)

 

※ ハバクク書の文脈で言えば、「定められた時」「終わりの時」(=「主の日」・「再臨」)が来るという神の約束を信じることによって義しい者は生きること。

 

2:4 「高慢」 =信仰に基づかない自信のこと ⇔ 信仰に基づく自信=愛の実行力 (矢内原忠雄「自信について」、全集14巻371頁)

 

信仰:キリストを信じること=①内在(聖霊)・②超越(父=宇宙経綸の神)

① キリストを信じることによって、人は永遠の生命を生きてゆくことができる。十字架の贖いを信じるだけで、罪の赦しと復活の希望が与えられる。

② キリストの再臨の時(終わりの日・主の日)に、宇宙や自然が完成される。新しい天と新しい地が与えられる。万物が救われる。

 

⇒ ①の信仰から導かれる生き方:死後、神の審判において義とされ、永遠の生命によみがえることを人生の目的とし、この目的にふさわしい生き方をする。肉体とともに朽ちるのではない生命=永遠の生命が自分に与えられていると信じ、その観点から生きること。 

(⇔ この世だけ、物質や富や食べ物だけを目的とする生き方。)

 

⇒ ②の信仰から導かれる生き方:神は宇宙と歴史を経綸する神(計画をもって主宰する神)だと信じ、自分もまた神の宇宙経綸の一部・計画の一部だと理解して生きる。神は人とともに生きる歴史的存在であり、歴史の指導者であり、歴史を通して働くことを知る。ゆえに、神の意志を重んじ、神の栄光を現すことを心がける。自分を中心とするのではなく、神およびエクレシアや他の人のために生き、神の御心・御計画が実現するように願って生きる。

 

※ 「その信実」(エメット)は、人間の側の信仰なのか、それとも神の側の「誠実さ」なのか?

 

⇒ 神の「信実」(誠実さ)を知り、それに触れて、疑いがない状態が自分の側の「信仰」。

キリストの真実の生き方や御心に触れた時に、①の信仰も②の信仰も得られる。(旧新約聖書を通じて)。      

 

①と②の信仰がなければ、人は死ねば終わりという刹那主義や虚無主義に陥ったり、この人生や歴史に意味を見いだせなくなってしまう。①と②の信仰を得た時に、人は再びよみがえって、元気に活力にあふれ喜びをもって生きることができる。         (ハバクク2:3の「それ」=キリスト?)

⇒ キリストの真実・キリストの十字架の贖いによる「新生」。

 

 

※ 2:5~2:20 神の審判 

 

◇ 2:5 新共同訳「富は人を欺く」(クムラン写本) 岩波訳「葡萄酒は人を欺き」(マソラ本文) ⇒ この世の物質主義、あるいは間違った酔わせる考えにあざむかれること。

 

◇ 2:6後半 岩波訳「禍(わざわ)いだ、〔いつまでなのか、〕自分のものでないものを増やし続け、/担保で自分を重くする者よ」。

⇒ 自分のものでないものを不当にむさぼる者は、目に見えない負債・担保を自分で増やしていること。いつか審判が下る。

 

◇ 2:9 「高いところに巣をかまえる」 オバデヤ3節 参照 傲慢

 

◇ 2:10 新共同訳「自分をも傷つけた」 岩波訳「あなたの魂は罪を犯した。」(同脚注、死海写本「あなたはあなたのいのちの糸を切断した」

⇒他に対する暴虐は、自分自身の魂やいのちの糸を破壊し、必ず審判を受ける。

 

◇ 2:11 石が叫び、梁が答える。 下積みになっている人々・庶民から怨嗟の声が出れば、必ず国という建物全体がきしみ、壊れて再建を余儀なくされる。

 

◇ 2:14 審判 ⇒ 神の栄光の知識

 

◇ 2:15~16 他人に加えた侮辱、他者の尊厳を無視して辱めた場合、必ず自分自身も辱められることになる。 恥辱の因果応報。 (c.f. ヘイトスピーチ

 

◇ 2:17 レバノンにある森林の法外な伐採?(イザヤ14:8) 自然破壊により動物が姿を消したこと。そうした自然破壊の罪もしかるべき時に審判を受けること。

 

◇ 2:18~19 偶像崇拝のむなしさ。神でないものを神としても、そこに「命の息」は何もないこと。(現代における金銭や国家を崇拝する倒錯のむなしさ)

 

◇ 2:20 「御前に沈黙」 ⇒ 神の静かな声に耳を傾けること。

 

「まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。」

(イザヤ30:15)

 

地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」

(列王記上19:12)

 

Ⅴ、おわりに  

ハバクク書から考えたこと

 

・悪が何の裁きも受けずにいると、はたしてこの世に道理はあるのか、神はいるのかと疑いを持つ時が人にはあると思われる。(参照:詩編73編)

 しかし、神は必ず義の審判を下し、終わりの時までに良い方向に歴史を導き、この宇宙や自然や人間の世界を完成させると、聖書では啓示されている。

 この信仰を持った時に、人は疑いから無気力になるのではない、気力のある人生を生きていくことができるのではないか。

※ 矢内原忠雄「信仰と努力」、全集14巻379-384頁

・フィリピ1:6とフィリピ3:12-14

終わりの日には完成する、終わりの日までには間に合う、ということと、そうであればこそ、前に向かって励んでいくこと。

矛盾ではなく、希望や見通しがあるからこそ、安心して励み努力できる。

 

・神に対する率直な問い(ハバクク、ヨブ、ダビデ、ナオミetc.)。「沈黙」し、神の静かな声に耳を傾け、神と対話することこそが大切。神に対する信仰があるからこそ問いや対話(祈り)が成立し、応答の中で信仰は深められる。

 

 

※ ハバクク書 第二章四節 (義人は信仰によって生きる)

הִנֵּ֣ה עֻפְּלָ֔ה לֹא־יָשְׁרָ֥ה נַפְשֹׁ֖ו בֹּ֑ו וְצַדִּ֖יק בֶּאֱמוּנָתֹ֥ו יִחְיֶֽה׃

 

ヒネー・ウッペラー・ロー・ヤーシャラー・ナッショー・ボウ・

ヴェツァディーク・ベエムナトー・イェーヒイェー

 

「見よ、不遜な者はその魂その中に留まらぬ。

しかし義人はその信実によって生きる。」

 

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・デイヴィッド・W・ベーカー著、山口勝政訳『ティンデル聖書注解 ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書』いのちのことば社、2007年

・高橋秀典『小預言書の福音』いのちのことば社、2016年

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『矢内原忠雄全集第14巻』、岩波書店、1964年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

コーリー・テン・ブーム 「わたしの隠れ場」を読んで

今日、コーリー・テン・ブーム『わたしの隠れ場』を読み終わった。

 

著者はオランダ人の女性で、第二次世界大戦中、ユダヤ人をかくまったため、自分自身も家族も強制収容所に入れられた。

 

本の前半では、楽しかった日々や、だんだんとナチスの脅威が近づいてきた様子、そして、著者の家族たちをはじめとしたごく普通の市井の人々が、ユダヤ人を助けるために大変な勇気と優しさを発揮したことが、リアルに描かれていた。

 

そのうえで、本の後半では、ユダヤ人をかくまっていたことが原因で、著者と家族たちが強制収容所に送り込まれてからの日々の貴重な記録がしるされている。

 

著者のコーリーの父は、実直な時計工で聖書を愛読する心優しい人物だったが、逮捕直後に亡くなった。

コーリーとその姉のベッツィーは、はじめはオランダの、そして戦局が悪化してからはドイツの収容所に連れていかれ、過酷な日々を過ごす。

 

しかし、姉のベッツィ―とコーリーは、看守に見つからないようにいつも聖書を愛読し、人々にも読んで聞かせ、祈りと信仰の中で過ごした。

 

ナチスの人々や、多くの人が荒んだ心を持っている中、いつも愛に生きていたベッツィーの姿は、本当に奇跡としか思えない。

しかし、ベッツィーも、収容所の過酷な日々の中で、ついに病気で死んでしまう。

 

その後、コーリーは、なぜか突然釈放されることになり、そのあともすんなりとはいかず、なかなか大変なのだが、オランダに生きて帰ることができた。

それは事務上の単なるミスであったことがずいぶん後にわかり、しかも同じ収容所の人々はその直後にガス室送りになっていたことがあとでわかったそうである。

 

生前、ベッツィーは、「コーリー、もし人に憎むことを教えることができるとしたら、愛することも教えることができるのじゃないかしら。あなたも私も、たといどれだけ時間が掛かろうと、そのための方法を見つけ出さなくちゃ…」(267頁)と述べていた。

 

また、亡くなる直前には、ベッツィーが、ことこまかにのちに自分たちが心傷つく人々のための施設をつくることになる広い大きな屋敷の様子を語っていたという。

 

コーリーは、生きて帰ったあと、オランダで、たまたまその言葉とぴったり符号する大きな屋敷と庭に、戦争で心傷ついた人々のための施設をつくることになった。

 

それらのことは奇跡としか思えないが、何より一番の奇跡は、収容所の日々においてもベッツィーが感謝や愛を持ち続けていたことと、戦後になってコーリーが収容所の関係者の人に会って赦すことができたことだったと思う。

 

また、収容所の中で、知的障害者には何の価値もないと言うナチスの将校に対して、コーリーが言った以下の言葉も印象的だった。

 

「聖書を読みますと、神は、私たちの力や頭脳によって評価されるのではなく、神が私たちを造られたという理由だけで、私たちを価値あるものと認めておられることがわかります。神の目の前では、薄馬鹿が一介の時計工より、または中尉さんより価値があるかも知れないことなど、だれにわかるというのでしょう。」(244頁)

 

また、

 

「神の時間どりは完全です。」(340頁)

 

という言葉も深く胸打たれた。

 

誤った教育で誤った価値観を持ってしまった当時のドイツの人々のこともリアルに描かれていた。

二度とあのような時代や空気になってはならないと思う。

 

ある方から長く借りていて、返さねばと思い読んだのだけれど、読後は深い感動に包まれた。

この本を読むことができて本当に良かったと思う。

 

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diary

Yesterday, I sang hymns with my brethren.
In all 22 hymns, “Gariraya no Kaze” , “Still still with thee” and so on.
My gf played the piano accompaniment.
It was nice day.

 

This morning, I had a dream.

In the dream, I heard the words:

 

“One lives in the love of God.

And he/she lives in the love of people.

But one’s eyes can’t see that,

So he/she usually forgets it.

This is the reason why one reads the Bible,

which reminds him/her of that love.”

人(イッシュ)について およびマゴネット先生との質疑応答メモ

ユダヤ教のラビのマゴネットさんの講演があったので、聴きに行ってきた。

 

出エジプト記の二章についての話だった。

 

モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。」(出エジプト 2:12)

 

という箇所は、「誰もいない」というのは、すぐそのあとに他のヘブライ人が目撃していたことがわかるので、その場に多くの人がいたことがわかる、

つまり、ここで「誰か人がいないか見回した」というのは、不正義を黙って見ておらず、不正義に抗議するような、そういう「人」がいないか探し、いないことを見いだしたので、やむなくモーセが奴隷を虐待しているそのエジプト人を倒した、ということだ、という解説をしてくださった。

 

この箇所、原文だと、「「人」がいないか」、という文章になっており、「人」は「イッシュ」というヘブライ語だそうである。

そして、ヘブライ語では、ただの人間は「アダム」だけれど、「イッシュ」はインテグリティを持ったひとかどの立派な人、というニュアンスがあるそうである。

日本語で言うと、「漢(おとこ)」を探したがいなかった、といった感じだろうか。

歴代のレビの解釈として、ここは特に「イッシュ」に着目し、上記のような意味に受け取る解釈がなされ、深められてきたそうである。

ラビの伝統はやっぱすごいなぁと感銘。

 

結論では、モーセ出エジプトを果たすには、エジプトの王子として育てられ、かつミディアンの野で羊飼いをしていた、という二つの経験が不可欠だったということが述べられていた。

奴隷根性ではなく独立した誇り高い精神や幅広い教養や知性と、羊の群れの様子を繊細に感じ取って世話をしていく精神や能力と、これらをモーセが持っていたから出エジプトができた、また、モーセアイデンティティは多義的だった、ということの指摘がなされていた。

 

質疑応答の時に、私も三つ質問させてもらった。

 

1、世の中にある不正を黙視しない、義を見てせざるは勇なきなりの心を持った「人(イッシュ)」ということに関する御話は感銘深かった、世の中はなかなかそういう人が少なく、ユダヤ人虐殺もごく少数は黙視しなかったものの多数が見て見ぬふりをしたためあのような事態になったと思う、もし聖書やユダヤ教の中に人が「イッシュ」であるための何かもっとあれば教えていただきたい。

 

2、申命記(23章)には、エドム人とエジプト人は嫌ってはならないし、三代目はイスラエルの会衆に加わることができる、とある。これは、モーセがエジプト人として生まれ育った経験と関係があるのか。

 

3、イザヤ書19章には、エジプト人とアッシリア人イスラエル人の三つが、神の祝福を受け、世界の祝福の源になる、という箇所がある。しばしば通俗的な見方ではキリスト教は普遍的なのに対しユダヤ教は偏狭な自民族中心主義と言われるが、イザヤ書のこの箇所を見るとそんなことはなく、もともと旧約聖書の時から普遍主義的な要素があったと思われるし、今日の「イッシュ」の御話を聞いても、モーセの時からそうだったとも思われるが、その点はどうか。

 

これに対して、マゴネットさんは、以下のような答えをしてくださった。

 

1、ユダヤ人はマイノリティだったため、歴史の中でしばしば迫害やジェノサイドの対象となってきました。そのような経験から、ユダヤ人は歴史的に、正義ということを非常に重視し、正義の観念を希求するようになりました。

しかし、自分が権力を持つ側になった時に、それまでこれほど求めてきた正義の観念とどう向い合っていくかということは、長い間マイノリティだったユダヤ人には不慣れな問題であり、イスラエル建国後今に至るまでパレスチナ問題が生じています。

しかし、希望となることを言えば、イスラエル国内にも、また世界中のユダヤ人にも、パレスチナ問題におけるイスラエル国家のありかたを正義に照らして批判する大勢の人がいます。

 

2、奴隷として扱われたことがあったにもかかわらず、聖書の中には、律法の中には、おっしゃるとおり、エジプト人に対する優しい気持ちを示す箇所が存在しています。これは、モーセのエジプト人として育てられた経験や、エジプトへの理解によるのかもしれませんが、推測以上のことは申せません。

 

3、そのとおりで、イザヤ書には、おっしゃるとおり、イスラエルが世界の光となるという、普遍性を志向した内容があります。民族や宗教団体や、あらゆるなんらかの組織や団体は、常にみずからのアイデンティティを探し求め問う傾向があります。そして、多くの場合は、自分が何でないか、外との関係によって、アイデンティティを決めようとします。その一方で、それとは別に、他とうまくやっていこうとし、その中でのアイデンティティを求める場合もあります。実は、出エジプト記の中にも、イスラエルアイデンティティについての、注目すべき箇所があります。

出エジプト記19章6節に「あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。」とあります。

この「祭司の王国」というのは、祭祀というのは民を代表して神と向かい合う存在ですが、イスラエルの民全体が祭司とここではされていて、つまり世界の他の民族を代表し、イスラエルの民全体が祭司とならねばならない、ということです。

ですから、代表するためには、他の民のこともよく理解し、代表できるように仲良くやっていく必要がある、ということになります。

一方で、「聖なる国民」の「聖なる」は、「分けられた」とも訳せる言葉であり、区別された民ということです。ここでは、他の民族とは異なった独自の特徴や風習を持つことということになります。

ユダヤ人にとって、外の他の民族をよく理解し仲良くやっていくことと、その一方で他の民族とは区別された独自性を保持することは、常にどちらも重要な課題であり、そしてこの二つの葛藤を常にも続けてきたわけですが、この出エジプト記の箇所がすでにこの二つの要素と葛藤が書き込まれていると見ることができます。

これは、おそらく、ユダヤ人に限らず、どの民族にも多かれ少なかれ該当する葛藤ではないかとも思います。

 

という返答で、とても興味深く、ためになった。

 

1についての返答を敷衍すると、苦しみの体験からこそ本当の正義感は生じるし、仮に今現在がマイノリティではないとすれば、マイノリティの声に耳を傾けたり、かつて自分がそうであったことを忘れないことが大事、ということだろうか。

 

にしても、やっぱりユダヤ教はすごいなぁとあらためて思った。

 

ナホム書 資料 (下)

『ナホム書(下) ―  良い知らせ 』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、良い知らせ

Ⅲ、ニネベへの攻撃とニネベの滅亡

Ⅳ、アッシリアの滅亡への嘲笑

Ⅴ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに 

    

・ナホム書 紀元前663頃-627頃に述べられたと推測される。

 

※ 前回(第一章)の内容のまとめ 

 

・神は悩みの日の砦 (アッシリアの急速な衰退と滅亡という困難な時代(紀元前7世紀)においても)

アッシリアに対する審判。アッシリアは歴史上の一帝国であるのと同時に、弱肉強食の帝国主義そのものをナホム書では象徴的に指している。)

・ベリアル(悪・罪)に対する審判。罪からの解放、救い。

 

※ 「ナホム書の構成」

 

第一部 ニネベに対する主の怒り 第一章(1:1~1:14)  前回

第二部 ニネベ崩壊とアッシリア滅亡の預言 第二~三章(2:1~3:19)  今回

 

・第二部(第二~三章)の構成 

 

Ⅰ、良い知らせ (2:1~2:3)

Ⅱ、ニネベへの攻撃とニネベの滅亡 (2:4~3:17) ※ニネベ=アッシリアの首都

Ⅲ、アッシリアの滅亡への嘲笑 (3:18~3:19)

 

旧約聖書の読み方 

 

1、旧約聖書そのものをそれ自体として完結したテキストとして精緻に読み、歴史的に研究する。 ex:マゴネット先生

2、新約聖書の信仰の観点から旧約聖書を読む。(旧約は新約の光に照らした時にその意味がわかる。新約の真理は旧約の中に隠れている。)  ex:アウグスティヌス

 

 無教会は1と2の両方。可能な限り歴史的背景や旧約それ自体のテキストを正確に理解しようとしつつも、2の観点からも明確な光を当てて読み込む。(ex:内村鑑三 聖書全体の著者は神という視点)

※ ナホム書も、1と2の両方の観点から読まれるべき。

 

⇒ ナホム書の中の「良い知らせ」は、アッシリア滅亡を吉報として受けとめた当時のユダヤ人の言葉であるのと同時に、キリストの福音の到来の預言=メシア預言として読むことができる。また、アッシリアの滅亡は、単に歴史上の一帝国の滅亡としてのみでなく、時代を越えた人間の、他人を力ずくで支配しようとする「内なる罪」や「内なる帝国主義」に対する審判として読まれる時に、私たちにとってより切実な意味を持つ。⇒ 本講話はそのささやかな試み

 

Ⅰ、良い知らせ (2:1~2:3)

※ 2:1~3は、ナホム書の中で、前後の文章との関連がわかりにくい箇所。内容も抽象度が高い。 ⇒ メシア預言?

 

◇ 2:1 「良い知らせ」(בָּשַׂר  バサル)  旧約では単に「吉報」の意味。

 福音 (Gospel/Good News, ユーアンゲリオン) 新約ではキリストの到来。

フランシスコ会訳2:1「善い知らせを告げる者が、山々の上をやって来る。/それは平和を告げる者。/ユダよ、祭りを祝い、お前の誓いを果たせ。/無法の者はすべて滅ぼされ、もうお前の間をまかり通ることはない。」

ナホム書における「良い知らせ」の意味の受けとめ方

⇒ ①アッシリア滅亡の預言 

⇒ ②福音:イエス・キリストによる神の国の到来・罪の赦しと救いの到来の知らせ

    

 

この箇所がメシア預言あることの証拠:

① 平和を告げるメシア ② ヤコブイスラエル=肉と霊の救い ③ぶどう

 

① 「平和を告げる者」 ⇒ 平和(שָׁלוֹם シャロームを告げるメシア:

 

イザヤ9:5 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられる。 」

 

・イザヤ11:1~16 「・・・狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」

 

・「祭りを祝い」 ヘブライ12:22「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、」

「誓願」 ⇒ 罪から解放され、霊的な祝福と喜びの中でこそ、のびのびと自分の人生の本当の願いを実行し、実現して生きていくことができる。

「よこしまな者」=ベリヤアル(ベリアル、キリストと対をなす悪魔、Ⅱコリント6:15) ⇒ 単なる歴史上のアッシリアではなく、罪や悪のこと。

「彼らはすべて滅ぼされた。」 悪・罪が完全に滅ぼされること。救い。

◇2:2 「腰の帯を締め」 ⇒ エフェソ6:11~17

「…神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、/平和の福音を告げる準備を履物としなさい。…」

⇒ 2:1で罪からの解放は示されているが、仮に信仰を得て罪から個人としては解放されても、「天にいる悪の諸霊」(エフェソ6:12)がこの世界には存在している以上、しっかり気を付けて闘っていくべきこと。

 

② 肉と霊の回復・救い

◇2:3 ⇒「主はヤコブの誇りを回復される/イスラエルの誇りも同じように」

 

イスラエルヤコブの別名。

創世記32:29(ペヌエルでの天使との格闘の後の祝福の命名)。

ともにヤコブの子孫であるヘブライ人のこと。

同語反復?

⇒ ヤコブを神の顔に会う前の肉としての人間という意味と、イスラエルを神と出会った後の霊的な再生・新たな出発の意味と受けとれば、福音による霊的な新生のこと。また、信仰を得た時に「義」とされた上で、徐々に清められていくこと。霊と肉の両方の救い・回復。

 

③ ぶどう 2:3 新共同訳「その枝」=フランシスコ会訳「ぶどうのつる

(文語訳「葡萄蔓」、NIV “their vines” ヘブライ語 זְמֹרֵי  zemorah)

フランシスコ会訳2:3 

「主はヤコブの誇りを回復された。/イスラエルの誇りを。/かつて、荒らす者が荒らし、そのぶどうのつるを全滅させたのだったが。」

 

参照・ヨハネ15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」

⇒ かつて、ぶどうの幹(神)とつながっているはずの「ぶどうのつる」(神の民)が荒らされたが、福音の到来により回復され、霊的に復活する。

⇒ 良い知らせ(福音)により、神とのつながりを回復し、霊と肉の両方が救われる。

 

Ⅱ、ニネベへの攻撃とニネベの滅亡 (2:4~3:17)

 

 2:4 赤い盾・緋色の服の軍隊。⇒ ゼカリヤ1:8,6:2 黙示録6:4 審判

歴史上で言えば、アッシリアを攻めるメディアとバビロニアの連合軍。

非常に精彩に富んだ文章。ニネベ攻撃の叙事詩

  

 

◇ 2:8 「王妃」・「侍女」 ⇒ フランシスコ会訳「女主人」・「召使」

アッシリアの歴史上「女王」はおらず、ここでは、女神イシュタルと巫女・神殿娼婦たちを指していると考えられる。

 

  

・イシュタル 

 

愛と戦闘の神。シュメール・バビロニアアッシリアで広く崇拝。ニネベには古くからイシュタルの神殿があった。シュメールでの呼び名はイナンナ。カナン地方ではしばしばアシュトレトと習合。ギリシャ・ローマのアフロディテ/ヴィーナスとも習合。聖書では、「天の女王」とも記される。ユダヤでも崇拝されるようになり、エレミヤ44:17-30ではエレミヤが厳しく批判した。

⇒ 現代文化におけるSex&Violence. 性愛と暴力。他の人格を無視しても、自分の欲望を成し遂げ成就したいという人間の願望が生み出した偶像。

⇒ メソポタミア神話では、イシュタルには120人以上の愛人がいたとされる。

(イシュタルの夫のドゥムジ(タンムズ)の神話。イシュタルに身代わりとして殺され冥界に送られる。ギルガメシュ叙事詩にも登場)

 

⇒のちに黙示録ではバビロンの大淫婦と表現される。(ナホム3:4 黙示録17:1-6)

余談:メソポタミア神話はグノーシス主義の説話と密接なかかわりがある(参照・月本昭男『古代メソポタミアの神話と儀礼』第四章。七柱の神、十二宮。)

(他にもリリト/リリス(イザヤ34:14「夜の魔女」)は、もともとはメソポタミア神話に登場。)

 

◇ 2:9 水の流出。覆水盆に帰らず。 水=御言葉や霊とすれば、アッシリアがもはや神とつながった霊的な感性やいのちを失い、滅びていくことをとどめえないこと。

 

◇ 2:10-11 世俗の富は滅亡を防ぐことに何の役にも立たないこと。

ルカ12:13-34 愚かな金持ちのたとえと、地にではなくて天に富を積むべきこと。

 

◇ 2:12-14 「獅子」

⇒ 己の力を頼りとする人の罪。実は神の絶大な力と恩恵に支えられているのに、それを無視しておごり高ぶっていたこと。この世は弱肉強食ではなく、己の力だけによって生きているわけでもない。

参照・ヨブ38:39-41 「お前は雌獅子のために獲物を備え/その子の食欲を満たしてやることができるか。/雌獅子は茂みに待ち伏せ/その子は隠れがにうずくまっている。/誰が烏のために餌を置いてやるのか/その雛が神に向かって鳴き/食べ物を求めて迷い出るとき。」 ⇒獅子や烏の食べ物を備えるのは神。

⇒ ルカ12:24 「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。」

 

⇒ アッシリアは自国民のために多くの罪や殺戮を犯してきた。しかし、戦車=軍事力はすべて神の審判によって喪失され、アッシリアがかつて振るった「剣」が若獅子つまりアッシリアの若い世代を餌食とする事態となることが述べられる。軍事力の行使や軍事力に頼ることは、次世代や若い世代を犠牲にする。

 

使者の声」:列王記下18:19-35 

ラブシャケのヒゼキヤ王たちに対する愚弄の言葉:「…ヒゼキヤの言うことを聞くな。彼は、主は我々を救い出してくださる、と言って、お前たちを惑わしているのだ。/諸国の神々は、それぞれ自分の地をアッシリア王の手から救い出すことができたであろうか。…」

⇒ こうした大国の驕りの言葉は、二度と言えなくなる。聞かれなくなる。

 

◇ 3:1 「災いだ、流血の町は。

アッシリアの罪:

イスラエル王国の首都・サマリア陥落。北イスラエルの十支族はこの時に多くが殺され、生き残った人々も強制移住させられて歴史から消滅していった。(一部は南ユダに移住したと推測される。)

アモス5:3 「イスラエルの家では/千人の兵を出した町に、生き残るのは百人/百人の兵を出した町に、生き残るのは十人。」

 

アッシリア王の碑文:

 

①ティグレト・ピレセル一世の碑文:「敵の2万人の兵士およびその5人の王と余は戦い・・・彼らを大いに破った。余は彼らの血糊を、谷間や高い峰に流れさせた。彼らの首を斬り、彼らの町のはずれにそれらの首を、あたかも穀物の山のごとくに積み上げた。・・・余は彼らの町を焼き払い、破壊して、ついに無に帰せしめた。」(『ライフ人間世界史』13巻57頁)

 

②アッシュールナシルパル二世の碑文:「余は市の門に面して柱を立てた。そして主だった人すべての皮をはぎ・・・その皮を柱に巻きつけた。ある者は柱の中に塗りこめ、ある者はクイに刺して柱の上につき立てた。・・・そして役人どもの手足を切り落とした。」「そのうちの多くの捕虜を焼き殺し・・・ある者からは手と指を切り落とし、ある者からは鼻と耳をそぎ落とし・・・多くの者の目をえぐり出し・・・若者と娘たちを火の中に投げ込んだ。」(『ライフ人間世界史』13巻58頁)

 

センナケリブの碑文(バビロン占領の際の記録):「余は(その住民の屍で)市の広場を埋めた。・・・街と家々をその土台から先端にいたるまで、余は壊し、荒廃させ、火で焼いた。壁と外壁、神殿と神々、レンガと土で造った神殿の塔、それらをすべて破壊した。・・・余は市の中央に(ユーフラテス川から)運河をひかせて、町中に水をあふれさせた。・・・やがての日、町とその神殿と神々のありかがわからぬように、余は町を水に溶かし、・・・全滅させ、そこを野原のごとくにした。」(『ライフ人間世界史』13巻61頁)

 

 3:4-7 「呪文を唱える遊女」 cf.バビロンの大淫婦 黙示録17:1-6

当時の粘土板からは、大量の呪文に関する楔形文字のテキストが発見されている。

⇒ 科学ではない迷信。神の御旨ではなく自分たちの欲望を中心とした儀式・迷信。

⇒ それらが何の効果もなかったことや、ただ単に人をだましあざむくものだったことが明らかになり、正体が暴露される。 

⇒ 誰もこのような虚偽の滅亡を嘆かない。 ⇒ 後世に伝わらない。誰も偲ばない。

⇒ ユダヤ教キリスト教が時を越えて受け継がれ、語り継がれたことと対照的。

 

呪文・淫行: 虚偽(フェイクニュース)や人心を堕落させる情報・メディアは、現代における「呪文を唱える遊女」

⇒ それらは時が来れば正体が明らかになる。

 

 3:8-13

 

テーベ: エジプトの神アメン・ラーの宗教的聖地。エジプトの宗教的中心。

紀元前663年にアッシリア軍に占領されて略奪・破壊を受けた。(ナホム書の年代推定根拠)

テーベが破壊されたように、エジプトがアッシリアの攻撃で被害を被ったように、ニネベも破壊され、アッシリアも甚大な被害を受ける時が来るという預言。

  

 

※ 日中戦争当時、重慶爆撃を見て、東京や日本も同じ目に遭うと預言したようなものか。

重慶爆撃では一万人以上が死に、四万人以上が怪我。)

 

アメン・ラー讃歌第7連:「敵はテーベより追い払われる。/<テーベ>は諸都市の女主人、全土の眼、(中略)アトゥムの聖眼、ラーの眼なり。/テーベ、なべての都市にもまして強力にして、その勝利によりて国土に唯一の支配者を与えたり。/弓を手にし、矢をにぎり、その力かくも偉大なるが故に、その近くにて戦いなし。なべての都市、その名によりて誇る。テーベはその女主人、かれらにまして強力なり。」

同第800連:「人、称賛者としてテーベに上陸す。正義の場、沈黙の地たる<テーベ>に。<正しからざる者>正義の場たるテーベに入るをえず。その船<正しからざる者>を渡すことなし。そこに上陸するものは幸いなり。」

(筑摩世界文学全集第一巻『オリエント集』所収)

⇒ イシュタル信仰やアッシリアの宗教がなんらアッシリアの滅亡をくいとめることができず、単なる迷信だったことが明らかになったように、古代エジプトの宗教もテーベの被害を食い止めることができなかった。メソポタミアとエジプトの多神教は、のちに次第に失われていき、残るのは遺跡だけとなった。 

⇒ ユダヤ教キリスト教が今も続くのと対照的。

 

(※追記メモ1:ただし、エジプトとアッシリアの文化はイスラエルと密接に関連していた。特に旧約聖書の「箴言」は、エジプトの「アメンエムオペトの教訓」や「アニの教訓」およびアッシリアの「賢者アヒカルの言葉」と共通の格言を多数含み、その内容において密接なかかわりを持っている。神話も、ギルガメシュ叙事詩に洪水伝説が載っているように、関連が深い。)

 

(※追記メモ2:ちなみに、ナホムの頃は、エジプトは第二十五・第二十六王朝の時代である。(第二十五王朝がアッシリアによって征服され、その後第二十六王朝が独立)。モーセの頃はエジプトは第十八もしくは第十九王朝と推測されている(ハトシェプストが十八王朝、ラムセス2世が十九王朝。ちなみにアマルナ改革を行ったアメンホテプ4世やその息子のツタンカーメンも第十八王朝)。

 

◇ 3:14 「粘土」

ヨブ38:12-15:「お前は一生に一度でも朝に命令し/曙に役割を指示したことがあるか/大地の縁をつかんで/神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。/大地は粘土に型を押していくように姿を変え/すべては装われて現れる。/しかし、悪者どもにはその光も拒まれ/振り上げた腕は折られる。」

⇒ 神の圧倒的な力に比べれば、ほんの小さな力しか持たないのに、人間がわずかな城砦や城壁をつくっておごり高ぶっていたことの罪。

 

 3:15-17 「いなご」

御言葉を食い荒らし、人心を荒廃させる情報や悪しき思想など?(cf.ヨエル書)

と同時に、頼りにならない軍人や指導者たちのこと。いち早く自分たちが逃亡する。

 

⇒ 敗戦の時の関東軍など。

⇒ アッシリア滅亡に際し、踏みとどまって戦おうとする者がおらず、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった様子。

⇒ 現代日本の指導的立場にある人々はどうか?(311の時に東電の会長や社長は出張先からなかなか戻らず、しかも事故現場から社員たちを撤退させようとしていたことetc.)

 

※ 頼りにならない教えや人々は、いなごのように危機に際しては飛び去って逃げる。

 

Ⅲ、アッシリアの滅亡への嘲笑 (3:18~3:19)

 

アッシリアの最後の王シン・シャル・イシュクン(サルダナパロスの伝説)。二年間ニネベに籠城するものの、毎日酒池肉林の遊蕩に耽り、ただの一度も危機を打開しようという努力やみずから出撃しようということはなく、最後は自らと王妃たちを火の中に投げ込んで焼け死んだ。(伊藤政之助『世界戦争史』一巻)

アッシリアは1400年間の歴史に終止符を打ち、その後二度と再建されることがなく、ニネベは19世紀に発掘されるまで長い間場所自体も忘れ去られた。

   ドラクロワ「サルダナパールの死」

 

王・牧者・貴族たちがまどろみ、眠りこける。 ⇒ 亡国の兆候・原因。日本においても、政治家や知識人や社会の責任ある立場の人々が、まどろみ、眠りこけていないか。

 

◇ 3:19 「お前のうわさを聞く者は皆/お前に向かって手をたたく。」

⇒ 手を叩いてその滅亡が喜ばれた。

 

※ キリストとの対照

 

ルカ23:47-48 

「百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。/見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。」

⇒ その滅亡を手を叩いて喜ばれた「アッシリア」と、人々が胸を打ってその死を嘆いたイエス

 

ルカ 23:49 、マルコ15:40 婦人たちは遠くから見守っていた。近づけば仲間として逮捕されて命の危険があり、それはイエスも望まなかったため。

 

泥憲和さんのことと、ある看護師さんの患者の社長さん

内村鑑三と、今はあまり名前も思い出されない多くの当時の有力者たち

内村鑑三キリスト教問答』の中のナポレオンのエピソード。

 

しかしながら、・・・

 

罪の結果が滅びであるならば、アッシリアのようなみじめな滅亡は万人にとっての結果だったはず。

※「神の前に罪びとでない者はいない」のであれば。(詩53:2-4)

 

罪なきイエスが、万人に代わって、一手にみじめな滅びや冷笑や嘲笑を引き受けて死んでいった。(イザヤ53章、ルカ23章)

 

ナホム書の末尾は、本来であれば、罪びとである私たちが受けるべき定めだったものを、代わりにキリストが引き受けたということに思い到ったときに、はじめてその深い意味がわかるのではないか。

 

十字架上のキリストの死と復活⇒ 万人の罪のゆるし ⇒ 万人の祝福と栄光

 

⇒ アッシリア・エジプト・イスラエル すべてが神の祝福を受けるとイザヤ書19章では述べられる。また、世界を祝福する源とされる。

 

ナホム書では述べられないが、アッシリアもまた神の祝福を受ける存在となる。

 

イザヤ19:22-25

「主は、必ずエジプトを撃たれる。しかしまた、いやされる。彼らは主に立ち帰り、主は彼らの願いを聞き、彼らをいやされる。/その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する。/その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう。/万軍の主は彼らを祝福して言われる。「祝福されよ/わが民エジプト/わが手の業なるアッシリア/わが嗣業なるイスラエル」と。」

 

日本もかつては、アッシリアのように、軍国主義偶像崇拝に走り、近隣諸国からその滅亡を手を叩いて喜ばれた。しかし、平和国家として歩む今は、311では130カ国以上が支援を申し出て、多くの国から信頼され愛されている国と言える。「世界を祝福するもの」のひとつになっているか、引き続きなりうるかどうかは、今後の歩み次第。

 

Ⅴ、おわりに  

 

1、偶像崇拝とは何か

 

・偶像は、単なる「彫像」ではない。単なる彫像があってはいけないのであれば、教会の十字架像やマリア像などもすべてだめということになる。

⇒ 神の御心やキリストの感性(つまりお互いを大切にするということ)を見失わせ、忘れさせ、別の方向にそらせてしまい、しかもそのようなありかたを自己正当化する根拠になるものが「偶像」。

⇒ 現代における金銭、セキュリティ(安全)、弱肉強食、自己責任などなど。

 

2、アッシリアは他人ごとではない?

 

軍国主義や周辺諸民族への征服や圧迫や、偶像崇拝や、「神殿娼婦」などの問題は、日本にとっては決して他人事ではなく、植民地や遊郭従軍慰安婦などを抱えていた戦前の日本の姿そのものだったのではないか。

⇒ 1945年の8月15日の時に、近隣諸民族から手を叩いて喜ばれた点でも、アッシリアに似ていた。しかし、戦後の日本が平和国家として復活したことは神の恩寵だった。 ⇒ にもかかわらず、再び「オムリの定めたこと、アハブの家のならわし」(ミカ書6:16)を辿っていないか。

3、アッシリア滅亡の原因 

 

※ 伊藤政之助『世界戦争史』第一巻の考察:

1、強制移住政策をとったため、首都周辺に異民族が多く、首都陥落の際もぜんぜん愛国心が存在せず、頼りにすべき自民族は遠方にいた。

2、スキタイやキンメリなど、騎馬民族の攻撃。

3、アッシュルバニパル王が文治政策に走った結果、文弱になった。

4、長年の宿敵エジプトを倒し征服してしまった結果、目標を失い気が緩んだ。

5、軍事大国だったため外交を無視し外交が下手だったため、危機に瀕した際に誰も助けてくれる国がなかった。

6、王が暗愚だったため。

 

⇒ どれももっともだが、一番の原因は「神を愛し、人を愛すること」を見失ったからではないか。偶像崇拝に走り己の力だけを頼りにした結果ではないか。

⇒ アッシリアが裁きを受けた理由は、神を大切にし、人を大切にするという根本のことを忘れ、力ずくで他人を支配し従わせる生き方を推し進めた結果であった。

 

4、私は本当に「良い知らせ」(福音)を喜んでいるのか?

 

福音とは? 福音を受け入れ信じることによる救い

⇒ 誰もが救われる。明るい充実した良い人生・いのちが開かれる約束。

(参照:内村鑑三森鴎外。吉村孝雄先生の湯川秀樹の回想。池明観さんの事。) 

・ローマの信徒への手紙3:21「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」

・ローマの信徒への手紙3:24「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

 

※ 福音が来ていること=「マラナタ」 (Ⅰコリント16:22) 

マラナタ=「我らの主きたり給う」「我らの主きたりませ」の意味 

 

塚本虎二:「再臨の信仰に燃えし初代の兄弟姉妹たちは幸いであった。マーラナサの一語に生き、また死にし彼らは、最も恵まれし者であった。この一語は彼らの涙をぬぐい、傷をつつんだ。迫害を喜びに、艱難を笑いに変えた。

「夜の寒さにうなだれて閉じた花が、太陽がこれを白むる時に、みな真っ直ぐにその茎の上に開くごとくに」、内と外の戦にまさにくずおれんとせし彼らの心は、マーラナサの一語によみがえった。

すべての複雑なる人生問題と社会問題と家庭問題とはその前に氷解した。慈母の足音を戸外に聴きて、子らのすべての問題が消散するごとくであった。羨ましき単純さよ!

 私は、キリスト者が一日も早くこの点に目覚めて、マーラナサが全信者の標語となり、暗語となり、この一語に、個人問題、家庭問題、社会問題、教会問題のすべてを解決する時の、再び来らんことを切に祈らざるを得ない。」

(塚本虎二『私の無教会主義』、(塚本虎二著作集続第一巻、13-14頁))

 

福音:キリストの誕生と生涯と十字架の死と復活と再臨の約束 

⇒ 全ての人がキリストのいのちを生きており、信仰を得た人は必ず救われる。罪が赦され罪から解放され、聖霊によって潔められる生涯を送り、キリスト再臨において復活しキリストに似た者となる。

⇒「マラナタ」を本当に喜べば、詩編100のような喜び

 

・福音を本当に喜んでいるのか、ナホム書2章1~3節を味わう中で、考えさせられた。

・ただキリストを信じるということのみによって、罪(ハマルティア=的外れ)から解放されたという恵みを、当たり前のように思い過ごしている自分がいる。

・「良い知らせ」(福音、マラナタ)をくりかえし聞き、喜び、讃美しながら生きていくところに人生の喜びはある。

・神を愛し人を愛し、神を大切にし人を大切にして生きていく中に、人生の終りにおいても、人から手を叩いてよろこばれる滅びでなく、人から悲しみ惜しまれ愛惜され、神から義の栄冠(Ⅱテモテ4:8)を受けるような人生がある。

 

※ ナホム書は激動の時代にあっても「神は悩みの日の砦である」ことと「良い知らせ」を教えてくれる。審判のみではなく「慰め」(=ナホム)の書。

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・デイヴィッド・W・ベーカー著、山口勝政訳『ティンデル聖書注解 ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書』いのちのことば社、2007年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

上野英信 『写真万葉録・筑豊』全十巻

上野英信『写真万葉録・筑豊』全十巻を読み終わった。
一ヶ月ほど前、上野英信の友人でもあった犬養先生から勧められて、ちょっとずつ読み始めた。
戦前・戦中・戦後の筑豊の様子などが映っていて、このような本にまとめねばおそらくは多くは忘れられていったかもしれない貴重な風景や光景の記録だった。
ごく普通の、名もなき人々への、限りない愛と惜別と寄り添う心がなければ、このような本はできなかったことだろう。
 
著者が言うには、筑豊は「日本資本主義のはらわた」であり、最も過酷な資本主義の収奪や抑圧が横行した地域だった。
推計によれば、六万人以上が事故死したらしい。
事故が多発する危険な労働環境である上に、骨の髄までしゃぶり尽くすような搾取と過酷な労働だったようである。
特に戦前・戦中はひどかったようだ。
 
しかし、この写真集では、束の間、廃坑閉山になるまでの間の戦後の一時期の、幸せそうなさりげない日常や、元気な子どもの様子も記録されていた。
ただ、それらの束の間の幸せも、エネルギー政策の変更による炭坑閉山で雲散霧消してしまったようである。
今は、筑豊はさびれて、かつての炭鉱もボタ山も、それと知って見なければわからないほど風雪にさらされている場合も多いようである。
 
この写真集を読んでいて印象的だったのは、筑豊の路地や炭坑の様子が映っている他の巻もさることながら、閉山後にブラジルやパラグアイに移住した人々の写真とそれらの人々の人生の経歴が書かれている巻だった。
国策で捨てられた「棄民」の人々の、ひとりひとりの顔や人生や名前を記録に残していった上野英信の「愛」は、本当にすごいと思った。
それらの人々の苦労は、とても想像を越えていたと思うし、そしてめったに顧みられることもなかったのかもしれないけれど、本当に立派だったと思う。
西ドイツまで移住して行った人々が多数いるということは、恥ずかしながら私はこの本ではじめて知った。
 
また、筑豊に強制連行されてきた朝鮮の人々の、墓石とも言えないようなごろごろとした石の墓や、名前すら書かれず年齢と「某鮮人」とのみ記された過去帳の写真なども、絶句せざるを得なかった。
戦時中は筑豊の炭坑労働者の三分の一は朝鮮の人々であり、その多くは強制徴用だったそうで、過酷な労働環境の中命を落としていった人も多かったそうである。
 
山本作兵衛の証言として本の中で紹介するエピソードの中の、あまりの過酷な労働環境に堪えかねて、ダイナマイトで自爆死する人が戦時中はしばしばいた、という話にも、なんとも絶句する他なかった。
 
こうした過酷な収奪の上に巨万の富を築いた炭坑財閥の人々の、邸宅が観光名所になり、今もその子孫が権勢を振るっているのを見ると、せめてもこうした歴史が一方にあったことを、庶民の側は忘れない方がいいのではないかと思えてならなかった。
 
かく言う私自身、この年になってこの本を読むまで、ほとんど何も知らなかったなぁとしみじみ思う。
福岡の公共図書館の多くにはこの本が置かれているようなので、多くの人々にこれからも読み継がれて欲しいと思った。