資料『ゼカリヤ書(6) エファ升の中の女と神殿―人間の罪』 

 

『ゼカリヤ書(6) エファ升の中の女と神殿―人間の罪』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、エファ升の中の女 

Ⅲ、二人の翼を持つ女によるエファ升の神殿への移動

Ⅳ、罪について

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに        

       

 

前回までのまとめ:

ゼカリヤ書は、捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)の預言者ゼカリヤの預言とされる。第一章では、神に立ち帰ることの勧めと、キリストのとりなしのビジョンが告げられた。第二章では、悪と戦う神の使いたちのビジョンと、神が再びエルサレムを選ぶビジョンが告げられた。第三章では、神がヨシュアの罪を赦し、メシアが来て人類の罪を取り除くことが預言された。第四章では、ゼカリヤが眠りから起こされ、神からたえず油(霊)がそそがれる燭台のビジョンが告げられた。また、二本のオリーブの樹のビジョンが示された。

第五章前半では、飛ぶ巻物のビジョンが告げられ、律法は呪いであることが告げられた。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章⇒今回は五章後半

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章) 

第五の幻 七つの灯皿と二本のオリーブ (第四章)

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章前半)

☆第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章後半) ⇒ ※ 今回

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)

ヨシュアの戴冠 (第六章)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

□ 第五章後半(第七の幻)の構成 

 

第一部 エファ升の中の女 (5:5~5:8)

第二部 二人の翼を持つ女によるエファ升の神殿への移動 (5:9~5:11)

 

 第五章後半では、第七の幻が示される。まず第一部において、エファ升とその中の女のビジョンが告げられ、それぞれ罪と邪悪を意味していることが示される。

第二部では、二人の翼を持つ女が、エファ升を封印し、シンアルの地にある神殿へエファ升を移動し置くことが告げられる。

 

Ⅱ、エファ升の中の女 (5:5~5:8)

 

◇ 5:5  目を上げて、そこに出てくるものが何かを見なさい

 

※ 天使が、ゼカリヤに、目を上げて、そこに出てくるものが何かを見るように促している。私たちの人生も、今そこに出てくるものをきちんと見るように、気づくか気づかないかにかかわらず、天使から促されている。

 

◇ 5:6 エファ升

 

・1エファは約23リットル(本によっては36リットル、19リットルなど諸説あり)。穀物を量る単位。穀物を量る升(英訳ではバスケット)。

 

※ このエファ升が、罪であると述べられる。

 

 

・なぜエファ升が「罪」を表しているのか?

 

 「升」は量りの道具であり、量りをごまかして暴利をむさぼる人が当時いたらしい。そのことへの怒り、批判、罪の指摘か?

 

レビ記19:36a「正しい天秤、正しい重り、正しい升と正しい瓶を用いなさい。」

 

箴言11:1「主は人を欺く秤をいとい/正確な量り石を喜ばれる。」

 

アモス8:5「…エファ升を小さくし、…偽りの天秤を使ってごまかし、」

 

ミカ6:10「まだなお、悪人の家、不正に蓄えた富/容量を減らした呪われたエファ升が/あるというのか」

 

 

 人を量ること自体が罪であるということか? 善悪を人間がみずからの基準で決め、他人を裁くこと自体が罪だと、聖書では指摘する。

 

マタイ7:1-2「人を裁くな。裁かれないためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。」

 

ヨハネ8:1-11 姦淫の女に対して 「私もあなたを罪に定めない」

 

⇒ ①は旧約聖書の観点においてはよくわかりやすい解釈で、多くの注釈書でそう述べられている。

しかし、新約の光に照らした時、人を量ること自体が罪だという視点が、すでに旧約のゼカリヤ書にも述べられていると②のように見ることもできると思われる。

 

(※ 5:6「罪」は、ヘブライ語原文では「目」で、新改訳も罪ではなく「目」とこの箇所を訳している。その場合は、「目」は聖書では「魂」を指すので(マタイ6:22-23、ゼカリヤ3:9)、量りをごまかす、あるいは人を量るような魂のあり方を問題にしている箇所となる。)

 

 

◇ 5:7-8   エファ升の中の女=邪悪

 

エファ升の中に封印されている女。それそのものが「邪悪」だと告げられる。

 

聖書には、しばしば、人を誘惑し罪に陥れる存在が比喩的に「女」として描かれる。

 

箴言7:6-27 「彼女の家は陰府への道/死への部屋へと下る。」

 

黙示録17:4-5「大バビロン、淫らな女や地上の忌まわしい者たちの母」

 

そのすぐ後の箇所にこの邪悪な女を封印し運び去る翼を持った天使も女であるとされているので、必ずしも女性一般を邪悪と述べているのではなく、邪悪な女もいれば天使のような女も聖書には出てくるということと思われる。

男性にとって、特に誘惑や無意識の非合理な情動が女性として観念されることがあるので、このような表現をとっているのだとも思われる。

 

 「邪悪」の女が、エファ升の中にいて、鉛の蓋におさめられているというのは、人間の内面の奥底に、無意識に、邪悪なものが存在している、罪が存在しているということの指摘と思われる。

 

参照:フロイトのリビドーとタナトスロジェ・カイヨワ戦争論

 

万葉集「家にありし 櫃(ひつ)に鍵刺(かぎさ)し 蔵(をさ)めてし 恋の奴(やつこ)の つかみかかりて」(巻一六、三八一六)穂積皇子)

 

思いもよらぬ誘惑で身を持ち崩した事例は歴史に数多い。

(ex.ダビデ玄宗etc.)

 

※ エファ升の中の女は、再びみ使い(天使)によって封印された。

 

Ⅲ、二人の翼を持つ女によるエファ升の神殿への移動 (5:9~5:11) 

 

◇ 5:9  翼に風をはらんだ二人の女

 

おそらくは二人の女は天使。「風」は神の聖霊のことと思われる。「こうのとり」は関根訳では「あおさぎ」。

 

「地と天の間に持ち上げた」⇒ 神の国と地の国の中間ということか。罪を持った人間のこの人生における状態は、神の国にも地獄にもどちらにも行きうる存在。猶予が与えられている。

 

◇ 5:10 どこに運んで行くのですか?

 

ゼカリヤは率直に天使に尋ねている。私たちも、物事がどのように運ばれていくのか、天使や神に率直に問いながら生きて良いのだと思われる。

 

◇ 5:11 シンアルの地に神殿が建てられ、エファ升はそこに置かれる

 

 神殿:ヘブライ語では「バイス」。家という意味である。

 

シンアル:バビロンや南メソポタミアの古い呼び方。バベルの地、バベルの塔を建てたニムロドの支配していた地域。(創世記10:10)

 

⇒ 今で言えば、「もろこし」や「天竺」や「南蛮」といった語感か。

 

※ シンアルの地に、エファ升が移動されるということは、何を意味するのか?

 

① ユダヤの罪がエファ升に封印され、升ごとバビロンの地の神殿に運ばれることで、ユダヤは罪がない状態となり、罪が処分されたということを意味する。

 

⇒ この解釈だと、この第七の幻は、罪の除去・罪の処分についてのメッセージということになる。多くの解釈がこのような解釈をとっている。

 

② 「シンアル」を実際のバビロンの地ととらえず、バベルの塔の故事を踏まえた、己の力を頼りとし、神を神とせず、おごりたかぶるあり方を指しているのであれば、この「シンアル」はどこにでもありうる。

⇒ 特に、この時期に建設中だった神殿は、他ならぬエルサレム神殿である。⇒ したがって、この「シンアルの神殿」は、再建中のエルサレム神殿であり、そこに封印された形で人間の罪・邪悪が安置されるという意味になる。

 

※ ①が多くの解釈であるが、②は、のちの歴史において、まさにこの再建された神殿において、大祭司や律法学者や群衆がイエスを裁き、十字架につけたことを考えれば、そのことを預言したものとも考えられる。

 

⇒ 神から離れ、己の力を頼り、人を裁く。この人間のどうしようもない「罪」や「邪悪」が、再建される神殿にすら根深く残るということを、この第七の幻は示しているのではないか。

 

 

Ⅳ、罪について 

 

◇ 上記で、ゼカリヤの第七の幻を見た。ここで「罪」について考察したい。

 

※ 罪とは:

ヘブライ語「ハッタース」(的外れ)、「アヴェラー」(神の意志を拒否すること)ギリシャ語「ハマルティア」(的外れ)。

 

※ 悪とは:ヘブライ語「ラー」 善(幸福や生命をもたらすもの)の反対。苦しみ・死につながるもの。

 

⇒ ユダヤ教における罪とは、具体的な行為のことであり、律法に具体的に違反した行為を指す。キリスト教における罪は、行為のみならず、神から逃れようとする傾向性そのものを指し、神の恵みや愛に対して自らの自由意志で拒絶することを罪と呼んでいる。

 

⇒ 人間は、神の愛がわからず、自己を中心とし、神ではなく己を頼りとしようとする傾向がある。それをキリスト教では「原罪」と呼ぶ。この原罪が、的外れな状態を人間に生じさせる。その結果、神のいのちにどこまで辿っていっても辿り着くことができず、努力すればするほどかえって悪が生じる。

 

(ex. 本来は人間の解放や平等をめざしたはずのマルクス・レーニン主義によるソビエトや東欧での悲惨な歴史。)

 

□ 私の個人的な体験:なかなか「罪」がわからず。あまり自分が悪いという気がしない。そんなにたいした罪も犯していないという気持ち。

⇒ 塚本虎二の本を以前読んでいた時に(どの文章だったかを忘れ、今回探したけれど見つからず)、神の愛は絶対的でいかなる人をも平等に絶対的に愛する、この神の絶対的愛を持ちえないことが人間における罪だという指摘がなされており、はじめて自分の罪が少しわかった。

 

※ 神の愛から離れ、神のような愛を持ちえないのが人間。

 

参照:「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」(ロマ3:9)

 

人間はどこまでいっても自己中心的な不完全な愛しか持ちえない。また、神の愛から離れ、他人を心から愛することができず、他人の尊厳を無視してしまう。

 

※ 律法は本来は、人をいのちに導き、罪を防ぐために与えられたものだったはずだが、かえって律法そのものが罪を生み、他人を裁く根拠に使われるようになってしまった(ex.ファリサイ派の人々)。

 

⇒ そのような律法や神殿までも、他人を裁き、他人を量る道具にしてしまった人類の真っただ中に現れ、十字架と復活によって人類の罪を贖い、愛とは何かを示してくださったのがイエス・キリスト

 

⇒ ただイエス・キリストの十字架の贖いと復活を信じるだけで、人は義とされる。神の愛とつながり、神の愛を伝える人生を歩むことができる。

 

⇒ 神を愛し、人を愛する人生(マルコ12章)。しかし、これは人間の力のみでは不可能であり、神の恵みがあってはじめて可能なこと。

 

内村鑑三「罪のなき所に救いはない。そして罪の感覚の浅い所には救いの喜びも浅く、罪の感覚の深き所には救いの喜びも深い。深く恩恵の宝泉に汲まんと志す者は、まず鋭利なる解剖刀をもって自己の心を切りさかねばならぬ。されば罪の認知は信仰の礎石としてきわめて重要なものである。」

(『内村鑑三聖書注解全集十六巻 ロマ書の研究(上)』第15講人類の罪(二)、125頁)

 

Ⅴ、おわりに  

 

ゼカリヤ書五章後半(第七の幻)から考えたこと

 

・ゼカリヤ第七の幻が、再建される神殿に罪・邪悪が存在し続け、キリストが来る時までは封印されているが、キリストが来た時にそれらが露わになるということを指していることに思い至った時に、深い戦慄を感じずにはいられなかった。聖書はまさに人の書ではなく神の書。

 

・私たち日本人も、一時的に罪や邪悪が封印されたかのように敗戦後思われた時代もあったが、実は罪や邪悪は消えておらず、再び噴出している時代に生きているのではないか。

(『世紀の遺書』に数多く書き込まれた戦争への痛切な反省や人類愛への希求や戦争の二度とない平和への祈りが忘却されていっていること。参照:アガペ像)。

 

・どうにもならない人間の罪や邪悪を、キリストが十字架の贖いと復活によって解決し、神のいのちや愛と通い合うようにしてくださったことのありがたさ。

 

・翼に聖霊を受けた天使が常にいて、神の国と地の国の両方がせめぎあい、天国と地獄のどちらにも行きうる、地上の人生を生きる私たちに、なんらかの手助けをしてくれていること。

 

・この世を生きる上では人間の心の奥底に罪や邪悪が潜んでいることを謙虚に認識し注意しつつも、もはや罪がキリスト者にとっては恐れるに足らず、安心して神に身をゆだねて生きることができることのありがたさ。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、英訳(NIV等)

・レオン・デュフール編『聖書思想事典』三省堂、1999年

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

「箴言27:21」について

箴言27:21」について

 

 

先日、箴言の27章21節について、新改訳と協会共同訳が大きく異なるが、その理由は何かと尋ねられた。

気になって、自分なりに調べてみた。

 

※ 協会共同訳と、その他の訳でかなり異なる。多くの訳は新改訳と同主旨(英訳も)。

 

協会共同訳:「銀の精錬にはるつぼ、金には炉。

人は賛美する口によって精錬される。」

 

新改訳2017:「銀にはるつぼ、金には炉があるように、

人は他人の称讃によって試される。」

 

新共同訳:「銀にはるつぼ、金には炉。人は称賛によって試される。」

 

岩波訳:「銀にはるつぼ、金には融解炉。

人は、その賞賛〔の程度〕に応じて〔試験される〕。」

 

ヘブライ語原文:

マツレフ・ラケセフ・ヴェフール・ラザハヴ・ヴェイッシュ・レフィ・マハラロー

(るつぼ・銀に・そして炉・金に・そして人は・~によって・その賞賛)

 

⇒ つまり、多くの訳に補足されている「試される」は原語にはない。箴言17:3のよく似た文章から「試す」の語を補足して訳している。

参照:箴言17:3 新改訳2017「銀にはるつぼ、金には炉、人の心を試すのは主。」

協会共同訳「銀の精錬にはるつぼ、金には炉/心を精錬するのは主。」

 

賞賛の原語「マハラル」は「ハラル」から来ており、praiseの意味。「レフィ」はaccording toの意。したがって、「銀にはるつぼ、金には炉、人は、その讃美に応じて。」とも訳せる。また、「レフィ」の元の形の「ペー」は「口」の意味もある。

 

箴言17:3がよく似ており、前半は同じなので、その「試す」の語句を27:21に補足して読めば新改訳や多くの訳の「人はその賞賛によって試される」という訳になるかと思われる。

 

しかし、箴言17:3を考えず、全く別個の文章と考えるならば、箴言27:21は「銀にはるつぼ、金には炉、人は、その讃美に応じて」あるいは「その讃美の口に応じて」となる。単独で読むのであれば、協会共同訳も正確な訳と言えると思われる。協会共同訳は他の訳とあえて異なる訳を提起しているが、人が讃美によって精錬されるというビジョンは美しいと思われる。

ゼカリヤ書(5) 飛ぶ巻物―律法の呪いと裁き

『ゼカリヤ書(5) 飛ぶ巻物―律法の呪いと裁き』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、飛ぶ巻物とその意味

Ⅲ、主の裁きの宣告

Ⅳ、律法について

Ⅴ、おわりに

 

Ⅰ、はじめに        

   

前回までのまとめ

ゼカリヤ書は、捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)の預言者ゼカリヤの預言とされる。

第一章では、神に立ち帰ることの勧めと、キリストのとりなしのビジョンが告げられた。

第二章では、悪と戦う神の使いたちのビジョンと、神が再びエルサレムを選ぶビジョンが告げられた。

第三章では、神がヨシュアの罪を赦し、メシアが来て人類の罪を取り除くことが預言された。

第四章では、ゼカリヤが眠りから起こされ、神からたえず油(霊)がそそがれる燭台のビジョンが告げられ、人の力によらず神の霊によって人が生きる時に世の光となることが示された。また、二本のオリーブの樹(政治と宗教の両方の分野で神と結びついた指導者)のビジョンが示された。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章⇒今回は五章前半

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章) 

第五の幻 七つの灯皿と二本のオリーブ (第四章)

☆第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章前半)⇒ ※ 今回

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章後半)

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)

ヨシュアの戴冠 (第六章)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

□ 第五章前半(第六の幻)の構成 

 

第一部 飛ぶ巻物とその意味 (5:1~3)

第二部 主の裁きの宣告  (5:4)

 

 第五章前半では、第六の幻が示される。まず第一部において、飛ぶ巻物のビジョンとその意味が告げられる。

第二部では、主の言葉が告げられ、盗みと偽りの誓いをする者たちが裁きを受けることが伝えられる。

 

Ⅱ、飛ぶ巻物とその意味 (5:1~3)

 

◇ 5:1 ゼカリヤが再び目をあげて見ると

 

※ 四章冒頭では眠りこけていて、天使に揺り起こされたゼカリヤは、五章では最初から目覚めている。すでに霊的に鈍い状態を脱し、神の霊としっかりと結びついたゼカリヤは、自ら目を上げた。⇒ 飛ぶ巻物が見えた。

 

◇ 5:2 「何が見えるか?」

 

・ゼカリヤ4:2と同じ。神は、しばしば、いま何が見えるか?と人に問う。(ゼカリヤ5:2、エレミヤ1:11、1:13など)。

 ⇒ 預言者というのは、神の問いに対して、誠実にきちんと目に見えたものを答える人。私たちも、いま何が見えているのか、問いつつ生きることが大切。

 

◇ 5:2 飛んでいる巻物:長さ20アンマ、幅10アンマ

 

⇒ 巻物=神の御言葉が記された巻物(エゼキエル2:8-10、黙示録5:1、黙示録10:9-10)。

 当時は、羊皮紙やパピルスに文字を記し、巻物にしていた。聖書も巻物だった。

次の3節で「呪い」であることが示されていることを考えれば、「律法の呪い」(ガラテヤ3:13)、つまりこの巻物は「律法」(モーセ五書もしくはそれを中心にした旧約聖書に示された神の掟と意志)を意味している。

 

※ 参照:「仰せを地に送ると/御言葉は速やかに走る。」(詩編147:15)

および詩編19:1-5 

⇒ 神の意志が全地に速やかに執行されることを、「飛ぶ巻物」と述べている。

 

☆ 1アンマは約45㎝。したがって、この飛んでいる巻物の大きさは、長さ9メートル、幅4.5メートル。(講話担当者の5人分ほどの高さと幅)

 

※ この巻物の大きさは、ソロモンの神殿の玄関前の広さと同じ。

(参照:列王記上6:3「神殿の外陣の前にある廊は、神殿の幅に従い、長さ二十アンマ、神殿の前に幅十アンマであった。」

 

⇒ ゼカリヤ四章ではゼルバベルとヨシュアによって神殿の再建が進む様子が希望をもって語られたが、五章では神殿再建後は、その再建された神殿から、神の律法に基づく裁きの声が鳴り響くというビジョン。

 

◇ 5:3 飛ぶ巻物の意味は呪い

 

・全地に出ていく呪い。つまり、神の裁き。律法に違反した場合、律法にもとづいて神の裁きが行われる。

 

特に、「盗む者」と「偽って誓う者」が「取り除かれる」ことが記され、盗みと偽りの誓いの罪が呪いの対象となっている。

◇ 「盗み」と「偽りの誓い」とは

 

※ モーセ十戒出エジプト20章、申命記5章)の第七戒「盗んではならない」と第八戒「隣人について偽りの証言をしてはならない」のこととも考えられる。だとすれば、十戒の中の、特に他人に対する道徳や倫理への違反について取り上げ、主が裁くことを述べている。

 

※ あるいは、十戒の第七戒はそのとおりとして、「偽りの誓い」は「隣人についての偽りの証言」に限らず、十戒全体および十戒を含めたすべての律法を指すとも考えられる。

もともと、十戒や律法全体は、モーセに率いられたイスラエルの民が神と結んだ契約であり、「呪いを伴う契約」(申命記29:11)であり、違反した場合は呪われ罰せられることが約束されていた。

 

⇒ その場合、「盗み」と「偽りの誓い」は、本来の律法の精神である神を愛し隣人を愛すること(マルコ12:29-30)に違反し、隣人を大切にせず侵害し、神を大切にせずおろそかにすることであり、律法の精神全体の毀損を指していると考えられる。

 

※ イザヤ48:1には、「主の名によって誓い/イスラエルの神の名を唱えるが/真実もなく、正義もなくそれをなす者よ。」とあり、「偽りの誓い」は、神への真実の信仰がなく、形式的な宗教に堕していることを指している。ゼカリヤにおいても、真実の信仰つまり神と自分との一対一の生き生きとした関係を持たず、単なる形式的な祭儀だけになることへの警戒や批判があったとも考えられる。

 

※ ちなみに「盗み」については、関根訳の脚注には、バビロン捕囚で遠方に行っていた人々の家屋や土地を自分のものとして占有していた人々のことが当時問題になっていたのではないかと推測している(パレスチナ人の家屋にその後イスラエルの人々が定住したことと若干似た歴史と思われる)。

 

※ また、「盗み」については、マラキ3:8から、十分の一の収入を神のために用いるということをしないことを含意しているという解釈もある。(参照・ネヘミヤ13:10、十分の一の献納がなくレビの分が与えられていなかったこと。)

 

 

Ⅲ、主の裁きの宣告  (5:4) 

 

◇ 主が飛ぶ巻物を送り出した

 

主が律法を啓示し、律法にもとづく裁きを執行すること。

 

◇ 「飛ぶ巻物」が「盗人の家」や「偽りを誓う者の家」に入り、とどまり、滅ぼす

 

⇒ 「飛ぶ巻物」が擬人化され、律法違反者の家に入り、とどまり、滅ぼす主体として描かれている。律法、つまり法則が、審判を執行するということ。

 

◇ 「家」が裁かれること

 

 家:ヘブライ語では「バイス」。家庭および家屋の両方の意味がある。

 

※ 「家」は民族や部族を表す場合もある。

イスラエルの家」(出エジプト16:31、アモス5:4など)、「ユダの家」(イザヤ37:31など)、「ヨセフの家」(ゼカリヤ10:6など)

 

※ 「家」は王家や王朝を表す場合もある。

ダビデの家」(歴代誌上17:24)、「ヤロブアムの家」(列王記上14:10)、「アハブの家」(列王記下8:27)

 

※ 聖書においては、神が家を建てる、つまり家庭にしろ、ひとつの国家や王家にしろ、建てると考えられている。

参照・詩編127:1「もし、主が家を建てるのでなければ/それを建てる人々は空しく労苦することになる。/もし、主が町を守るのでなければ/守る人は空しく見張ることになる。」

 

※ 神の裁きは、子や孫にかかわる。

出エジプト20:5b「私を憎む者には、父の罪を子に、さらに、三代、四代までも問うが、」  (※ただし「愛千義三」)

 

岩波訳5:4f「家の〔梁や板張りの〕木も〔基礎の〕石も滅ぼし尽くす」。

⇒ 盗みや偽りの誓いにより、隣人や神に対して罪を行う者の家庭もしくは国家に対して、神は裁きによって上部構造も根底の下部構造も滅ぼし尽くす。

 

律法に違反し、神に対する愛や隣人愛を失った存在は、魂が枯れていき、神によってしか建てられない家が、神の加護を離れるために滅びる。

 

⇒ 「家」が裁かれるということは、それぞれの家庭が裁きの対象であるとともに、民族や王国など共同体が裁きの対象であることを表している。

 

 

◇ モーセの七戒と八戒:「盗み」と「隣人への偽証」について

 

ルターは、十戒についての文章の中で、以下のように第七戒と第八戒を深く受けとめている。参照:藤田孫太郎編訳『マルティン・ルター 祈りと慰めの言葉』(新教出版社、1966年)38-40頁。

 

第七戒(あなたは盗みをしてはならない)について:

① ここで学ぶこと:自分で汗して自ら養う。神が私の財産を安全に保護したもうこと。

② 神が全世界にこのような善い教訓と庇護を与えた好意に感謝。

③ 「わたしは、生涯にわたって他人に不当な行為をしたり、他人を短気にあるいは不誠実に取り扱ったならば、私のすべての罪と忘恩を懺悔する。」

④ 「盗みと強奪と高利を貪ることと横領と不正を少なく」する神の恵みを、自分と全世界に祈る。

 

⇒ ルターは第七戒を単なる「盗み」だけでなく、他人に対する不当な行為全体を指すものだと深く受けとめ、自らの罪を懺悔し、神の恩恵を感謝する契機としている。

 

八戒(あなたは偽りの証しを立ててはならない)について:

① この掟が教えること:「互いに真実であり、あらゆる虚言と中傷を避け、他人のことについて喜んで最善のことを語りまた聞くこと」

② 神の庇護と教えに対して感謝。

③ 「わたしたちは、わたしたちの隣人に対して虚言と偽りの悪しき口をもってわたしたちの生涯をかく恩知らずに、また罪悪的に過ごしたことを懺悔し、このためにめぐみを切に求める、というのは、わたしたちも自分にしてもらいたいと思うように、わたしたちは隣人のすべての名誉と無過失を維持する義務があるからである。」

④ この掟を守るため、援助と救いのためになる舌を祈願。

 

⇒ 隣人に対して真実であり、最善のことを語り、聞くことを第八戒の精神としてルターは受けとめ、隣人の名誉を維持することだと深く受けとめている。

⇒ ゴシップやヘイトスピーチや嫉妬や罵りがネット上に蔓延する現代社会には、この精神こそが大切と思われる。

 

☆ 他人を誠実に取り扱い、他人の名誉を守ること。これができない社会は神の裁きを受けることが、宣告されている。

 

 

Ⅳ、律法について 

 

◇ 上記で、ゼカリヤの第六の幻「飛ぶ巻物」についての聖書の記述については見た。ここで「律法」について考察したい。

 

◇ ゼカリヤ書五章前半本文では「律法」の言葉は出ておらず、「飛ぶ巻物」であるが、それが神の呪いと裁きを意味していることを考えれば、律法を指していることは明白である。(参照:ガラテヤ3:13「律法の呪い」)

 

※ 律法とは:

ヘブライ語「トーラー」(תּוֹרָה 教え)、ギリシャ語「ノモス」(νόμος法則)

 

旧約聖書においては、創世記・出エジプト記レビ記民数記申命記のいわゆるモーセ五書を「律法」と呼ぶ。それらの箇所は、歴史物語を多く含み、必ずしも法律的内容だけではないが、祭儀的律法(幕屋や犠牲や祭りについての規定など)と道徳的律法(十戒など)を多く含む。

 

旧約聖書は、律法のみでなく、歴史・預言書・知恵文学の部分を持つ。しかし、その根幹を成すのは律法であり、他の部分は律法に関連している。

 

・歴史(列王記、歴代誌など)は、律法に違反したイスラエルの民に対する神の裁きを主な内容としており、単なる歴史というよりも、律法と関連した歴史観で貫かれている(申命記史観)。

・預言書は、律法に違反したイスラエルの民の罪を指摘し、神と律法に立ち帰ることが繰り返し記されている。

・知恵文学も、律法が知恵の中心とされている(バルク4:1「知恵は神の掟の書、永遠に続く律法である。これを堅く保つ者は皆、命に至り、これを捨てる者は死に至る。」、および詩編19:8など。)

 

⇒ つまり、旧約聖書においては上記のとおり一見すると律法が中心的位置を占めている。

 

※ ただし、新約聖書においては、「律法」はモーセ五書のみを指すとは必ずしも限らず、他の用例が新約聖書には存在している。

 

パウロは異邦人も良心と自然によって律法を持っていると論じている(ロマ2:14-15)。(これを「自然の律法」と『聖書思想事典』はまとめている。)

 

・また、パウロは「キリストの律法」という言葉も用いている。(ガラテヤ6:2、Ⅰコリ9:21)。ヤコブでは「自由をもたらす律法」が述べられている(ヤコブ1:25、同2:12)。これは、福音のことを指している。

 

したがって、聖書における律法には三種類ある。

 

① 自然の律法 (異邦人や、アダム以後モーセ以前の人々の律法。理性や良心によって把握される。)

② モーセの律法 (祭儀的律法と道徳的律法の両方を含む)

③ キリストの律法 (福音。新約聖書の教え。)

 

※ たとえば、日本の歴史においては、仏教や儒教が①の自然の律法をある程度、人々に教えていたと思われる。仏教の五戒や十善戒には、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語など、モーセ十戒に共通するものが含まれる。また、儒教における孝の精神は、父母を敬う十戒の精神と共通している部分もある。

 

①あるいは②によって、すべての人が本来は滅びるはずだったのが、キリストの十字架の贖いを信じるだけで罪が赦される、というのが新約聖書の教え。

参照:「キリストは律法の終わりであり、信じる者すべてに義をもたらしてくださるのです。」(ロマ10:4)

 

 

◇ それでは、福音と律法(①~③を含む)の関係はどうなるのか?

 

塚本虎二は「福音と律法」(塚本虎二著作集・続 第七巻、317-324頁)において、以下の三つの態度が多く存在していることを指摘し、どれも否定している。

 

A、律法主義 (クリスチャンはモーセ律法もすべて遵守すべき。マタイ5:17-20などに依拠)

 

B、律法否定主義 (パウロの「信仰によって義とされる」を極端に推し進め、守るべき律法はないとし、モーセ律法のみならず、あらゆる道徳から自由であると主張)

 

C、折衷主義 (モーセ律法は否定されたが、イエスによる山上の垂訓や使徒による訓戒の遵守を主張。つまり、②は廃棄されたとするが③を律法的に受けとめる。)

 

※ 塚本は、どれも不可としている。

Aはキリストの十字架を無意味とするものであり、Bは無道徳主義で堕落に陥ると指摘。Cは、不徹底な立場で、イエスが律法の呪いからすでに私たちを解放したのに、再び新たなる律法をつくるはずはない、と論じる。

 

⇒ それでは、律法と福音の関係はどうなるのか?

 

※ 塚本虎二の高利貸のたとえ:高利貸からの債務を友人が支払ってくれた。法律上はなんらの義務もなくなった。しかし、友人の愛に対する道徳上の義務・愛の義務が新たに生まれた。キリストの無限の愛に対する感謝から、全身全霊全力をささげ尽くし、モーセ律法に百倍千倍する義務をキリストに対して負う。冷酷な義務の綱ではなく、温かき愛の絆となる。

 

※ 律法は本来は自然の法則を示しており、神から恩恵として与えられたものだったが、常に自己中心でしか生きられない罪を抱えた人間は、律法を持つとかえって律法を根拠に人を裁き、残酷になってしまう。かつてのパウロがそうであり、今も昔も、なんらかの正義にもとづいてかえって残酷になってしまう人間は多い。罪がかえって律法によって罪として現れてしまうのが人間である。しかし、十字架の贖いと復活によって、罪がすでに赦され、聖霊が働く人は、一挙にすべてではなくても、時折は、中心が自己から離れて、神を讃える讃美歌を歌ったり、神を中心とし、隣人を愛することが聖霊の恵みによってできるようになる。中心が自己から神に移る。この自己中心を離れることは、聖霊の恵みによってはじめてできることで、これが律法の呪いからの解放ということ。

 

 

Ⅴ、おわりに  

 

ゼカリヤ書五章前半(第六の幻)から考えたこと

 

・個人的なことを言えば、キリストを信じる以前から、「自然の律法」の問題は、仏教の自業自得の法則の問題として、私にとっては大きな問題だった。仏教には自業自得を超える弥陀回向の本願念仏の教えもある。しかし、浄土門の場合、キリストには歴史的実在の人格であることと、十字架の贖いという要素があるのに対し、非歴史的理念的存在であり、贖いという契機があいまいな点が異なっていた。

 

・ゼカリヤは、十戒の第七戒と第八戒の違反を特に問題としていたが、日本ははたしてこれを守れているのか?

(国家全体としては、日本国憲法前文や九条の精神と誓約がともすれば忘却され軽んじられていること。また河野談話村山談話の精神や誓約が全く軽んじられていること。社会全体としても、オレオレ詐欺や手抜き工事やブラック企業の蔓延、他人の名誉や人権への軽視が横行していること。その一方で、これらを大切にする地の塩・世の光も存在している。)

 

・本来であれば、律法の呪いによって、飛ぶ巻物によって、滅ぼされるべき私たちが、キリストの十字架の贖いによって、すでに罪を赦され、自由の身となった。この恵みの本当のありがたさは、しかしながら、飛ぶ巻物、つまり「義」の厳しさがわからないと、わからない。義がわかって神の愛はわかる。

 

・キリストを信じる私たちはすでに律法の呪いから十字架の贖いによって完全に自由になっており、自然の律法からもモーセ律法からも自由である。律法違反の罪からは解放され、神によって義とされ、永遠のいのちが与えられている。その限りない神の愛を知り、感じるほどに、自発的に神への愛と隣人の愛に生きることができる。キリストが来たのちは律法の巻物だけでなく、福音の巻物が全地を飛び交っており、私たちもまたその一助となることが願われる。

 

「参考文献」

・聖書:協会共同訳、新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、英訳(NIV等)

・レオン・デュフール編『聖書思想事典』三省堂、1999年

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

第二テモテ 資料集 異訳対照

資料集 

 

Ⅰ、第一の讃美歌 不滅のいのち (第二テモテ1:9~10)

 

 

協会共同訳:神が私たちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、私たちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにあって私たちに与えられ、今や、私たちの救い主キリスト・イエスが現れたことで明らかにされたものです。キリストは死を無力にし、福音によって命と不死とを明らかに示してくださいました。

 

新共同訳:神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。

 

共同訳:神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです(エフェ2 8-9、ティト3 5参照)。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエススにおいてわたしたちのために与えられ(エフェ1 4参照)、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエススの現われによって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし(一コリ15 54-57、ヘブ2 14-15参照)、福音を通して不滅の生命を現してくださいました。

 

岩波訳

〔神は〕私たちを救い、

聖なる召しによって召して下さった、

私たちの行ないに従ってではなく、

御自身の意思(おもい)と恵みに従って。

〔この恵みは〕キリスト・イエスにある私たちに与えられた、

永遠の時以前から。

〔この恵みは〕今やあらわにされた、

私たちの救い主キリスト・イエスの顕現を通して。

〔キリストは〕一方で死を無力にし

他方で生命(いのち)と不死性を光のもとに導いた、福音を通して。

 

塚本虎二訳:神はわたし達をお救いになり、聖であらせようとしてお召しになった。それはもちろんわたし達の業によるのでなく、御自身の(選びの)計画と恩恵とによるのであって、永遠の昔すでにキリスト・イエスにおいてお定めになったわたし達の分であるが、いまわたし達の救い主キリスト・イエスの御降臨によってついに啓示されたのである。このお方は一方では死を滅ぼし、他方福音によって不滅の命を明るみに出されたお方であって、

 

前田護郎訳:神がわれらを救って、聖なる招きをもってお招きになったのでして、それはわれらのわざによらず、彼ご自身のおぼし召しと恵みによるものです。この恵みは永遠の昔からキリスト・イエスにあってわれらに賜ったものです。それは今やわれらの救い主キリスト・イエスの出現によって現実にされました。彼は死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅とを明らかになさったのです。

 

口語訳:神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。

 

新改訳2017:神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自分の計画と恵みによるものでした。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられ、

今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。

 

文語訳:神は我らを救い聖なる召をもて召し給へり。これわれらの行為に由るにあらず、神の御旨にて創世の前にキリスト・イエスをもて我らに賜いし恩恵によるなり。この恩恵は今われらの救主キリスト・イエスの現れ給うによりて顕れたり。彼は死をほろぼし、福音をもて生命と朽ちざる事とを明かにし給えり。

 

フランシスコ会:神はわたしたちを救い、また聖なる招きをもって招いてくださいましたが、これは、わたしたちの業によるのではなく、神ご自身の計画とその恵みによるのです。この恵みは、キリスト・イエスに結ばれているわたしたちに、永遠の昔から与えられ、今、わたしたちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたものです。キリストは死を滅ぼし、福音によって不滅の命を明らかに示されました。

 

バルバロ訳:神が聖なるお召しによって私たちを救いそして召されたのは、私たちの行いによるのではなく、神のみ旨と恩寵による。その恩寵は、代々の前からイエズス・キリストにおいて私たちに与えられたもので、死を滅ぼし、福音によって命と不朽を輝かされた救い主キリスト・イエズスの現れによって、今明らかにされた。

 

柳生直行訳:われわれは救われて、かたじけなくも神のお招きにあずかる者となった。それは、われわれが何か善いことをしたからではなく、神御自身の恵みの計画に基づくことだったのである。その恵みは、永遠の昔から、キリスト・イエスとの結合を通してわれわれに与えらえているものなのだが、それが今、われらの救い主キリスト・イエスの出現によって、はっきりと示されるに至ったのだ。では、その恵みとは何か。それは、キリスト・イエスが死を滅ぼし、福音によって不死の生命(いのち)を目のあたり見せて下さった、ということである。

 

宮平望訳

神が私たちを救い、

聖なる招きによって呼び出したのは、

私たちの業によるのではなく、

御自身が恵みとして差し出したものによるのであり、

それはキリスト・イエスにおいて私たちに与えられた

永遠の昔からのもの、

今や明らかにされたもの、

私たちの救い主キリスト・イエスの輝きによって、彼は死を滅ぼし、

福音によって朽ちることのない命に光を当てました。

 

田川健三訳:神は我らを救い給うた方、聖なる召しによって、我らの業績の故ではなく御自身の計画と恵みによって、我らを召し給うた方。恵みは、キリスト・イエスにおいて、此の世の時よりも前に我らに与えられたもの。その恵みが今や我らの救済者キリスト・イエスの顕現によって明らかとなった。キリストは死を無効にし、福音によって生命と不滅とを輝かせて下さった。

 

岩隈直訳:彼(神)はわたしたちを救い、聖なる召しによって召し給うたが、それはわたしたちのわざによるのでなく(神)御自身の計画と恩恵によるのである。それ(恩恵)は永遠の昔にクリーストス・イエースースにあってわたしたちに与えられたものであるが、今わたしたちの救い主イエースース・クリーストスの出現によってあらわされたものである。彼(イエースース・クリーストス)は、一方において死を滅ぼし他方において福音によって命と不朽とを明らかにされた。

 

9 τοῦ σώσαντος ἡμᾶς καὶ καλέσαντος κλήσει ἁγίᾳ, οὐ κατὰ τὰ ἔργα ἡμῶν ἀλλὰ κατὰ ἰδίαν πρόθεσιν καὶ χάριν, τὴν δοθεῖσαν ἡμῖν ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ πρὸ χρόνων αἰωνίων,

 

10 φανερωθεῖσαν δὲ νῦν διὰ τῆς ἐπιφανείας τοῦ Σωτῆρος ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστοῦ, καταργήσαντος μὲν τὸν θάνατον φωτίσαντος δὲ ζωὴν καὶ ἀφθαρσίαν διὰ τοῦ εὐαγγελίου.

 

9 tou sōsantos ēmas kai kalesantos klēsei hagia, ou kata ta erga hēmōn alla kata idian prothesin kai charin, tēn dotheisan hēmin en Christō Iēsou pro chronōn aiōniōn,

 

10 phanerōtheisan de nun dia tēs epiphaneias tou sōtēros hēmōn Christou Iēsou, katargēsantos men ton thanaton phōtisantos de zōēn kai aphtharsian dia tou euangeliou.

 

 

 

 

Ⅱ、第二の讃美歌 主の真実 (第二テモテ2:11~13) 

 

協会共同訳

次の言葉は真実です。

「私たちは、この方と共に死んだのなら

この方と共に生きるようになる。

耐え忍ぶなら

この方と共に支配するようになる。

私たちが否むなら

この方も私たちを否まれる。

私たちが真実でなくても

この方は常に真実であられる。

この方にはご自身を

否むことはできないからである。」

 

新共同訳

次の言葉は真実です。

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、

キリストと共に生きるようになる。

耐え忍ぶなら、

キリストと共に支配するようになる。

キリストを否むなら、

キリストもわたしたちを否まれる。

わたしたちが誠実でなくても、

キリストは常に真実であられる。

キリストは御自身を

否むことができないからである。」

 

共同訳

次の言葉は真実です。

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、

キリストと共に生きるようになる(ロマ6 2-5、8参照)。

耐え忍ぶなら、

キリストと共に支配するようになる(ロマ5 17、8 17、エフェ2 6、黙示5 10、22 5参照)。

キリストをいなむなら、

キリストもわたしたちをいなまれる(マタ10 33、ルカ12 9参照)。

わたしたちが誠実でなくても、

キリストは常に誠実であられる(ロマ3 3-4参照)。

キリストはご自身をいなむことができないからである」。

 

岩波訳

この言葉は信に値する。

私たちは〔キリストと〕共に死んだなら、

〔キリストと〕共に生きもするだろう。

私たちは耐え忍ぶなら、

〔キリストと〕共に王国的支配もするだろう。

私たちが〔キリストを〕否むなら、

彼もまた私たちを否むだろう。

私たちが忠実でなくても、

彼は忠実であり続ける。

自身を否むことができないから。

 

塚本虎二訳:(キリストの復活についての)今の言葉は本当である、すなわち――「なぜなら、もしわたし達が(キリストと)一しょに死んだら、一しょに生きる。もしわたし達が耐え忍ぶなら、(キリストと)一しょに王となる。もしわたし達が(キリストを)否認するなら、このお方もわたし達を否認される。たといわたし達は不誠実であっても、このお方はいつも誠実である。御自分(の言葉)を否認することはお出来にならないのだから」。

 

前田護郎訳:信ずべきはこのことばです。――「われらは彼とともに死ねば、共に生きよう。彼とともに忍べば、共に王になろう。彼を否めば、彼もわれらを否もう。われらがまことならずとも、彼はつねにまことにいます、彼は自らを否みえないから」。

 

口語訳:次の言葉は確実である。

「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、また彼と共に生きるであろう。

もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。

たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである」。

 

新改訳2017

次のことばは真実です。

「私たちが、キリストとともに死んだのなら、

キリストとともに生きるようになる。

耐え忍んでいるなら、

キリストとともに王となる。

キリストを否むなら、

キリストもまた、私たちを否まれる。

私たちが真実でなくても、

キリストは常に真実である。

ご自分を否むことができないからである。」

 

文語訳

ここに信ずべき言(ことば)あり『我等もし彼と共に死にたる者ならば、彼と共に生くべし。

もし耐へ忍ばば、彼と共に王となるべし。もし彼を否まば、彼も我らを否み給わん。

我らは真実ならずとも、彼は絶えず真実にましませり、彼は己を否み給うこと能わざればなり』

 

フランシスコ会

次の言葉は真実です。

「わたしたちは、キリストとともに死んだのなら、

キリストとともに生きるようになる。

わたしたちは、耐え忍ぶなら、

キリストとともに支配するようになる。

わたしたちがキリストを否むなら、

キリストもわたしたちを否まれる。

わたしたちが誠実でなくとも、

キリストは常に誠実であられる。

キリストはご自身を否むことができないからである」。

 

バルバロ訳

すなわち、次のことばは信じるに足るものである。「私たちがキリストとともに死んだならまたキリストとともに生きるであろう。もし最後まで耐え忍ぶなら、私たちもキリストとともにその王国をつかさどる。もし否むならキリストも私たちを否まれる。私たちが不忠実であっても、神は常に忠実である。神がご自分を否むことはないからである」。

 

柳生直行訳

次の言葉は真実である。

「われわれは、彼と共に死ぬなら、

彼と共に生きることができる。

耐え忍ぶなら、

彼と共に支配する者となる。

彼を否むなら、

彼もわれわれを否むであろう。

だが、われわれは不実でも、

彼はつねに誠実である。

彼は本性上、不実たり得ないのだ。」

 

宮平望訳

この言葉は真実です。

「実に、もし、私たちが共に死んだのなら、共に生きるだろう。

もし、私たちが耐え抜くなら、共に王にもなるだろう。

もし、私たちが拒むなら、

その方も私たちを拒むだろう。

もし私たちが信じないとしても、その方は常に真実である。

かれは自分自身を拒むことができないからである。」

 

田川健三訳

この言葉は信実である、「もしも我々が共に死んだのであれば、共に生きるであろう。耐え忍ぶならば、共に王となるであろう。否定するならば、彼もまた我々のことを否定するだろう。我々が不信実であるとしても、彼は信実でありつづける。彼がみずからを否定することはありえない」、という。

 

岩隈直訳

この(次の)言葉は信じてよい、

というのは、もしわたしたちが(クリーストスと)一緒に苦しんだなら、わたしたちも一緒に生きるであろう。

もしわたしたちが忍耐するなら、わたしたちも一緒に王になるであろう。

もしわたしたちが(クリーストスを)否認するなら、彼もまたわたしたちを否認し給うであろう。

たとえわたしたちが不信実であっても、彼は信実であり続け給う、というのは、彼は自分を否認することができないのだから。

 

11 πιστὸς ὁ λόγος · εἰ γὰρ συναπεθάνομεν, καὶ συζήσομεν ·

12 εἰ ὑπομένομεν, καὶ συμβασιλεύσομεν. εἰ ἀρνησόμεθα, κἀκεῖνος ἀρνήσεται ἡμᾶς.

13 εἰ ἀπιστοῦμεν, ἐκεῖνος πιστὸς μένει. ἀρνήσασθαι γὰρ ἑαυτὸν οὐ δύναται.

 

11 pistos o logos ei gar sunapethanomen, kai suzēsomen

12 ei hupomenomen, kai sumbasileusomen. ei arnēsometha, kakeinos arnēsetai hēmas

13 ei apistoumen, ekeinos pistos menei, arnēsasthai gar heauton ou dunatai.

ゼカリヤ書(4) ただ神の霊によって光となる

 

『ゼカリヤ書(4) ただ神の霊によって光となる』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、金の燭台と七つの灯皿

Ⅲ、ともしびとなるために神の霊と結びつくこと

Ⅳ、二本のオリーブの木と枝

Ⅴ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに     

    

 

前回までのまとめ

 

ゼカリヤ書は、捕囚帰還後の時代(紀元前520年頃)の預言者ゼカリヤの預言とされる。第一章では、人が神に立ち帰ればただちに神もその人に立ち帰ることが告げられ、ミルトスの林の中で神と人との間をとりなすみ使い(おそらくはキリスト)のビジョンが告げられた。第二章では、四本の角を切る四人の鉄工職人つまり悪と戦う神の使いたちのビジョンと、神が再びエルサレムを選び、そこには城壁がなくその只中に神が住んでくださるというビジョンが告げられた。第三章では、サタンの告発から主のみ使いが大祭司ヨシュアを弁護し、神がヨシュアの罪を赦すことと、さらには若枝(メシア)が来て「地の過ち」(人類の罪)を一日のうちに取り除く(十字架の贖い)がなされて平和に至ることが預言された。

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章 ⇒今回は四章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章) 

☆第五の幻 七つの灯皿と二本のオリーブ (第四章)⇒ ※今回

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章)

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章)

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)

ヨシュアの戴冠 (第六章)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

□ 第四章(第五の幻)の構成 

 

第一部 金の燭台と七つの灯皿 (4:1~5)

第二部 ともしびとなるために神の霊と結びつくこと (4:6~10)

第三部 二本のオリーブの木と枝(4:11~14)

 

 第四章では、第五の幻が示される。まず第一部において、金の燭台と七つの灯火皿のビジョンが示される。

第二部では、それがゼルバベルに向けられた神の言葉であることが示され、人の力によらず神の霊によって人が生きる時に、メシアの到来へと向かう歴史の一部となり、世の光となることが示される。

第三部では、二本のオリーブの木の枝が、二人の神の霊をそそがれた人間であることが告げられ、神の霊としっかり結びついた人間によって神の霊は人々に伝わることが示される。おそらくその二人の人物であるユダヤ総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアは、政治と宗教のそれぞれを象徴している。俗と聖の両方の分野で神の霊と結びついた指導者に恵まれる時に、この世は光輝きだすことが示されている。

Ⅱ、金の燭台と七つの灯皿 (4:1~5)

 

◇ 4:1 眠っていたゼカリヤとそれを起こすみ使い

 

バルバロ訳:「それから、私のなかで語っていた天使は、眠りから目覚めるように、私の目をさまさせた。」

 

※ なぜゼカリヤは眠っていたのか?

 

⇒ 四章の中にはその説明は何もない。通常、聖書では霊的に鈍くなった状態のことを「眠り」と表現する場合が多い(ヨナ1:5、マルコ14:40)。

 

・直前の三章では、メシアによる罪の贖いが説かれている。三章との関連で考えると、このことと関連していると思われる。

 

⇒ キリスト教においては、キリストを信じるだけで罪が贖われて救われることが告げられる。そのこと自体は真実だとしても、それが硬直した教義になると、信仰箇条を列挙してそれを承認すれば救われる、という姿勢になりやすい。つまり信仰が知識やドグマの問題にすり替わってしまう。

 

⇒ 単なる知識としてキリストとその救いを知っただけで、そこに安住し、生き生きとした神との霊的なつながりや神の言葉との絶えざる対話を持たないと、そこには霊的に鈍い状態が起こりうる危険がある。単なる儀式や知識と、本当に生きた信仰は異なる(⇒「眠り」から常に目覚めるのが無教会主義)。

 

◇ 4:2 「何が見えるか?」

 

・神は、しばしば、いま何が見えるか?と人に問う。(ゼカリヤ5:2、エレミヤ1:11、1:13など)。

 ⇒ 預言者というのは、神の問いに対して、誠実にきちんと目に見えたものを答える人。 ⇒ 一方、人はしばしば、この世界の出来事に気づかず、見ていないこと、あるいは見て見ぬふりをすることがあるのではないか?

 

 ⇒ 私たちも、いま何が見えているのか、何を見ているのか、問いつつ生きることの大切さ。

◇ 4:2-3 金の燭台と七つの灯皿と二本のオリーブの木

 

⇒ 1頁めの図を参照。ただし、おそらくはもっと古い時代の素朴な燭台で、円筒の上に丸い鉢があり、その上に七枚の皿があるという形。

 

(※ただし、関根訳だと、1頁めの図のようである。 関根訳「私は見ると、見よ、一つの燭台があって、すべて金でできています。一番上に皿があり、それに七つのともしびがついていて、そのともしびごとに七つのくちがあります。」)

 

◇ 4:4-5 主に意味を尋ねる。

 

・ゼカリヤはみ使いに、見えたものにどのような意味があるかを尋ねている。み使いが「何であるか知らないのか」と尋ねると、「知りません」と素直に答えている。

 

⇒ 私たちは、しばしばこの人生や世界において見えていることの意味がわからないことがある。その時は、神にその意味を尋ね、聖書を開いてその意味を尋ね求め、神との対話を続けていくことが重要なのだと思われる。

 

 

Ⅲ、ともしびとなるために神の霊と結びつくこと(4:6~10) 

 

◇ 4:6-7 金の燭台の意味:ゼルバベルに向けられた言葉・み使いが語る。

 

ゼルバベル

当時のユダヤ総督。大祭司ヨシュアと共に捕囚帰還後のユダヤの民の指導者として復興や神殿再建に尽力。第一次バビロン捕囚(BC596年)で捕虜となった南ユダ王国の王ヨヤキン(ヨシヤ王の孫)の孫。ダビデ王家の出身。ハガイ書には神の言葉を受け入れ「神の印章」となったことが記され、ハガイ書・ゼカリヤ書ともにゼルバベルを高く評価している。

しかし、聖書の中には、唐突にゼルバベルについての記述が消えてしまい、その後の消息については不明。一説には、なんらかの政治的陰謀に巻き込まれて非業の死を遂げたと考えられ、イザヤ書五十三章において第二イザヤが描く「苦難の僕」は、ゼルバベルのことを指していたと推測する説もある。

 

新改訳2017 『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』

関根訳 「力によらず、権力によらず、わたしの霊によって」

岩波訳 「『武力によらず、権力によらず、わが霊によってである。』〔という意味だ。〕」

フランシスコ会訳 『武力によらず、権力によらず、むしろわたしの霊による』

バルバロ訳「それは権勢ではなく、力ではなく、私の霊によるものである」

 

⇒ ゼルバベル(ハガイ書では神の印章となった人物)は、人の世の力によってではなく、神の霊の力によって立つということと、そのことが金の燭台やオリーブの木の意味だと告げられる。

 

⇒ この世を良く変えたいと考えたとき、人はしばしば権力や武力などのこの世の力を持ちたいと考える。また、権力や武力を持たない場合、何もできないと無力感に陥る場合もある。しかし、ゼカリヤ書では、本当に世の中を変えるのは、神の霊の力であることが告げられている。

 

⇒ 本当に世の中を変えてきたのは、神の霊の力とつながった人物。ゼルバベルはイエスの予表。人は権力ある地位にいるかどうかに意義があるのではなく、神の言葉を受け入れ、神の霊と結びついている時、金の燭台(世の光)となり、その燭台に油を与え続けるオリーブの木の枝となりうる。

 

⇒ 神の霊という油が供給され続ける時、人は「世の光」(マタイ5:14)となる。

 

◇ 4:7 山がゼルバベルの前で平地となり、ゼルバベルは「恵みあれ」と叫びながら、「頭石」を運び出してくる。

 

⇒ 「頭石」=「親石」(詩編118:22「家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。」)、エフェソ2:20等。キリストのこと。メシアのこと。

 

⇒ 大きな時代の困難や課題も、神のしるしとされ神の霊の力によって立つ人の前では平定されていき、乗り越えていくことができる。それらの人々は「恵みあれ」と神を讃え、キリストの時代・メシアの到来へと至る歴史を歩む。

 

⇒ キリストの初臨以前の時代のゼカリヤにとっては初臨へと至る歴史をつくることであり、初臨と復活以後の時代の私たちにとっては、神の国の到来と再臨を待つ歴史の歩みを歩むこと。

◇ 4:8  ゼカリヤに告げられる主の言葉

 

 4:6-7の言葉はみ使い「彼」の言葉だった。4:8では、4:9-10は「主」の言葉だと告げられる。4:9では、「私」(主)を「万軍の主」が遣わされたと「あなた」(ゼカリヤ)は知るようになる、と記される。したがって4:6の「彼」つまり「み使い」は「主」だということになる(そうでないと主が主を遣わしたという意味のわからない一文になる)。ゼカリヤ一章以来登場した、ゼカリヤに御言葉を伝え、神と人との間をとりなし、ヨシュアを弁護し、ゼルバベルの意味を伝える「み使い」は(受肉前の)主イエス・キリストのこと。

 

◇ 4:9-10 ささいな日には大きな意味がある。

 

・ゼルバベルが神の家・神殿の基礎を据え、「その手」つまり神の手がそれを完成させていくこと。その歴史を通じて、ゼカリヤ(4:8の「私」)は4:9の「私」つまり「み使い」を「万軍の主」(父なる神)が遣わした「主」であると知るようになる。

⇒ ゼルバベルとヨシュアによる神殿の再建とイスラエルの復興は、長い歴史の目で見れば、数百年のちのイエスの到来を準備することであり、神が人として受肉して救いを現す歴史につながった。ゼカリヤはまだ遠い時代においてその未来を不思議なビジョンのうちに見た。

 

「誰がその日をささいなこととして蔑んだのか」

 

⇒ 私たちは、とかく日ごろの日々をささいなつまらない日常と思ったり、たいしたことのない日々だと思いがちである。しかし、神の霊と結びついた人々にとっての日々は、かけがえのない貴重な神の計画の一部であり、すべてのことに意味がある日々となる。神の国が来るための一歩一歩となる。その中で、人々は「喜び」生きていくことができる。 ⇒ゼルバベルとヨシュアたちの神殿再建やイスラエル復興の努力には大きな意味があった。

 

⇒ ゼルバベルが持っている「下げ振りの石」には七つの神の目がある。前回ゼカリヤ3:9で見たように、七つの目は七つの霊(イザヤ11:2、黙示録1:4-5)つまり神の霊、聖霊を意味しており、神がいつも神の霊と結びついた人々を見守っていること、および神の霊・神への信仰と結びついたゼルバベルのような指導者を得る時に、人々の「ささいな」日々もまた「喜び」ある日々になることを示していると思われる。「下げ振りの石」は測量に使う価値基準。

Ⅳ、二本のオリーブの木と枝(4:11~14) 

 

◇ 4:11-13 ともしびに油(神の霊)をそそいでいる、二本のオリーブの木と枝の意味をみ使い(キリスト)に尋ねる。(意味がわからない時は再度尋ねる。)

 

・金色は、主の幕屋の祭具に使われたように、神の栄光を現す色。「金色の油」は、原文では「金」。神の栄光、神の霊がオリーブの木を通じてともしびにそそがれている。

 

◇ 4:14 主の側に立つ油注がれた二人の人 =オリーブの木・枝

 

⇒ ゼルバベルとヨシュアのことか?

政治と宗教、政治的指導者と精神的指導者、聖と俗。

エスはこの二つを統合し、王にして大祭司であり、両面を備えた。

 

⇒ 政治と宗教、世俗と精神の両方の側面に優れた指導者がいる時に、しばしば世界の歴史は大きく変わることもある(ex.ケネディキング牧師)。

 

⇒ 権力や武力によらず、神の霊としっかりと結びついた、ゼカリヤとヨシュアのような政治的指導者と精神的指導者の両方を通じて、この世には神の霊・神の精神がそそがれ、この世のともしびがともされる。

 

「油そそがれた人たち」は、原文では「新しいオリーブ油の子ら」。

彼ら自身も、神の霊によって「新しい」人になるのであり、それ自体に力があるわけではない。人は神の霊と結びついた時に、人に神の霊を伝えるものとなりうるし、また神の霊はそのような人の働きを通じて伝わる。

 

※ なお、黙示録11:4には、「二人の証人」が「二本のオリーブの木」「二つの燭台」と記される。これは終末の日に、二人の預言者が現れることの預言であり、ゼカリヤのこの箇所も、その預言とも読める。

 

Ⅴ、おわりに  

 

ゼカリヤ書四章(第五の幻)から考えたこと

・ゼカリヤ書第四章に記される「第五の幻」には、先の第三章の「第四の幻」でメシアによる罪の赦しの福音が告げられたのちに、人々が霊的な眠りに陥らぬように示されている。信仰は単なる知識や信仰箇条の承認や儀式ではなく、常に神の油、つまり神の霊・神の御言葉がそそがれ続ける必要がある。たえざる神の御言葉との対話の中に、神とたえず結びつく時に、人は世の光となる。

 

・聖書の言葉と常に接していると、人は信じられない力を発揮する場合がある。

 

例:最近見た映画『ハクソー・リッジ』(2016年) 

デズモンド・ドス(1919-2006)を描いた作品。ドスは、良心的兵役拒否者だが、第二次世界大戦において衛生兵を志願。銃の訓練や所持を拒否するため、軍隊内で過酷ないじめに遭うが、除隊を拒否し、軍法会議にかけられるも勝訴して衛生兵となる。沖縄戦の過酷な戦場に行き、命がけで負傷兵の救護・救援を続け、75名以上の人命を救助し、良心的兵役拒否者としては初の名誉勲章を受ける。日本兵を救護したこともあったという。瀕死の重傷を負った時も肌身離さず聖書を所持した。

 

・「イエスの愛とは何なのか?」常に問い続けること。

最近見たドラマ『MAGI-天正遣欧少年使節-』(2019年)

 四人の少年は、イエスの愛とは何か、また宣教師たちの人種差別や黒人奴隷制や異端審問などに疑問を持ち、ローマ教皇グレゴリウス13世に問う。教皇は、イエスの愛とは何なのか問い続けることの大切さと、おそらくイエス自身も最後まで神の愛を問い続けたこと、問いや対話をやめず、対話し続けることが祈りであると述べる。

⇒ 硬直した教義や知識に安住せず、常に問いを持ち、神の言葉に触れ、神からの問いかけと神への問いとを続ける。

 

・油の絶えないともしびであること、さらには、オリーブの木そのものといかなくても、その枝ぐらいになりたい(そのためには聖書研究・無教会主義)。

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

ゼカリヤ書(3) ―神による着替え

 

 

『ゼカリヤ書(3) ―神による着替え』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、神による着替え

Ⅲ、神の約束と地の罪の赦し

Ⅳ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに     

      

前回のまとめ

ゼカリヤ書は、捕囚帰還後の時代に、ハガイとともに神殿再建に尽力した預言者ゼカリヤによる預言(紀元前520年頃)。第一章では、人が神に立ち帰ればただちに神もその人に立ち帰ることが告げられ、ミルトスの林の中で神と人との間をとりなすみ使い(おそらくはキリスト)のビジョンが告げられた。第二章では、四本の角を切る四人の鉄工職人つまり悪と戦う神の使いたちのビジョンと、神が再びエルサレムを選びそこは城壁がなくその只中に神が住んでくださるというビジョンが告げられた。

 

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章 ⇒今回は三章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

☆第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章) ⇒ ※今回

第五の幻 七つのともし火皿と二本のオリーブ (第四章)

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章)

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章)

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)

ヨシュアの戴冠 (第六章)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

 

□ 第三章(第四の幻)の構成 

第一部 神による着替え (3:1~5)

第二部 神の約束と地の罪の赦し (3:6~10)

 

 第三章では、第四の幻が示される。前半の第一部においては、大祭司であるヨシュアが民の代表として主のみ使いの前に立ち、サタンの告発を受けるが、主と主のみ使いはサタンを責め、ヨシュアを汚れた衣から晴れ着に着替えさせ、罪を取り去ったことを宣言する。

さらに、後半の第二部では、神の御言葉に忠実に歩むならば、神の家と庭(エクレシア)を治める身となることと、将来メシアがやって来ること、ヨシュアたちはその予表(しるし)となることが告げられる。そして、七つの目のある石に刻印がなされることにより、地の罪が一日で除かれ、人々の平和が来ることが告げられる。新約から見れば、ここに十字架の贖罪の預言が示されている。

 

Ⅱ、神による着替え (3:1~3:5)

 

◇ 3:1 神の法廷におけるヨシュアと主のみ使いとサタン

 

ヨシュア:当時の大祭司。総督のゼルバベルと共に捕囚帰還後のユダヤの民の指導者として尽力。ハガイ1:12には、ゼルバベルと共にハガイの預言に耳を傾けたことが記されている。(ゼカリヤ書1:12では民とともに自分たちの罪を認め神に立ち帰ることを表明したと考えられる)。

 

主のみ使い:第一章・第二章に登場したみ使いか?だとすれば、神と人との間をとりなす仲保者であるイエス・キリスト。 ※バルバロ訳では「主の天使」。

 

サタンヘブライ語では「敵対者」一般を指す(岩波訳では「敵対者」)。ただし、ここでは神の法廷において、人の罪を告発する役割を果たしており、単なる敵対者一般というより、人間に対して罪の裁きを要求し滅ぼそうとする霊的な存在を表している(後世の新約時代にはそのような意味での固有名詞)。

 旧約においては、人口統計をつくるようにダビデをそそのかすサタン(歴代誌21:1)や、ヨブを試すように神に対して勧めるサタン(ヨブ記1:6-12)などが現れる。新約では、人を誘惑し(Ⅰコリ7:5)、つけこみ(Ⅱコリ2:11)、妨げ(Ⅰテサロニケ2:18)、道を踏み外させる(Ⅰテモテ5:15)存在としてサタンが言及されている。最終的にサタンは神に敗北する(黙示録20:7-10)。

 

 

◇ 3:2 主のみ使いによる弁護

 

・主のみ使いは、神がサタンを責められることを二回述べ、人の罪を許さず裁きを要求し滅ぼそうとするサタンの姿勢が神の御心にかなわないことを述べる。

c.f. マタイ18:14「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 c.f. 弁護者(パラクレートス)ヨハネ14章

 

燃えさし:バルバロ訳「燃え残りの木」。

神の怒りはしばしば「燃える炉」や「炎」「火」と表現される(詩21:10、詩18:9など)。「火」は人を試し(詩17:3-4、詩26:2)、銀を火で練るように試みて清める試練を意味する(詩66:10)。

⇒ ここでは、バビロン捕囚という大きな苦難を経て生き残ってきたことを、「燃えさし」「燃え残りの木」と呼んでいると考えられる。

主のみ使い(キリスト)は、大きな苦難を経て神の言葉に耳を傾けるようになったヨシュアヨシュアが代表するイスラエルの民を愛し、彼らを完全に滅ぼすことを望まず、サタンの告発から弁護し守ろうとしている。

c.f. 「残りの者」(ミカ2:12、同5:6、アモス5:15、ゼファニヤ3:13、ヨエル3:5、イザヤ4:3、同10:20-22など。)

 

◇ 3:3-5 神による着替え

 

ヨシュアは汚れた衣を着て、み使いの前に立っている。(3:3)

⇒ 「汚れた衣」=罪に汚れている状態。

 

ヨシュアの罪とは?:

・神に背き、偶像崇拝や社会的不正義に耽り、南ユダ王国が滅亡するという事態に立ち至ったユダヤの民。

・バビロン捕囚期においても、異国の風習や文化に染まったことが考えられる(ヨシュアの一族も異民族の女性と結婚した者が多数いたことが記されている(のちに離縁)(エズラ10:18-19)。)

・捕囚期間後も二十年の間、神殿再建が滞っていたことは、ハガイ書が記すとおりであり、ヨシュアはその点では力不足の指導者でもあった。

 

・さらに言えば、アダム以来、人は神から離れようとする傾向・罪を持っており、皆大なり小なり汚れた衣を着てキリストの前に立っていると言える。(創世記3章、ホセア6:7、ロマ5:12、知恵の書2:23-24)。

 

◇ 3:4 「晴れ着」=新改訳2017・岩波訳「礼服」、関根訳「立派な服」

 

・「過ち」=新改訳2017・岩波訳「咎」、フランシスコ会訳・関根訳「罪」。

 

フランシスコ会訳3:4「見よ、わたしはお前の罪を取り除いた。お前に礼服を着せよう。」

バルバロ訳3:4b「<見よ、私は、お前の罪を取り除いた>。」

 

⇒ み使い(キリスト)は、天使たちにヨシュアの汚れた衣を脱がせ、罪を取り除き、礼服を着せる。

 

c.f. マタイ22章、宴会のたとえ。天国の宴会では「礼服」をつけている必要があり、礼服を着ていないと追い出される。

 

礼服=キリストを信じることによって神に義とされること。キリストを着る。

 

「主イエス・キリストを着なさい。」(ロマ13:14a)

「キリストにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)

c.f. 新しい人を着なさい(エフェソ4:24)、朽ちる存在の人間が不朽の死なないものを着る(Ⅰコリ15:53)。

 

・人は罪(汚れた衣)を身にまとっているが、キリストの十字架の贖いを信じるだけで「汚れた衣」を脱ぎ、罪が赦され、「礼服」を着、キリストを着て、神の御前に立ち、キリストや天使と交わることができる存在となるというのが聖書の示すところである。黙示録によれば、天国の住人は「白い衣」を着ている。(黙示録3:4、3:5、4:4、6:11、7:9、7:13-17)。

 

◇3:5 「清いターバン」=フランシスコ会訳・岩波訳・バルバロ訳「清いかぶりもの」。 ⇒ 礼服をより完全にするという意味か。頭を清いターバン・かぶりもので覆うということで、思考までも完全に清らかな神にふさわしい聖なるものとなる、という意味か。(信仰による義認⇒一生をかけての完全なる聖潔)

 

 

Ⅲ、神の約束と地の罪の赦し(3:6~3:10) 

 

◇  3:7 

「家」:ヘブライ語バイス」。神の家の意味の場合は「神殿」と訳される。

「庭」:聖書では、庭・園は荒野と対比され平和な美しい豊かなイメージと結びつく。また、出エジプト記27章では「幕屋を囲む庭」が記され、庭は神の臨在の場所という意味もある。

 

⇒ 神の道を歩み、務め(関根訳「誡命」、新改訳2017「戒め」)を守るならば、神の家と庭の管理者となる。エクレシア(集会、教会)を守る者となる。

 

※ 信仰によって罪が赦されたのちは、神の御言葉に従って生きることが勧められている。

c.f. ヨハネ8:11 姦淫の女へのイエスのことば「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」

c.f. Ⅰヨハ2:6「神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。」

そして、さらに、そのように御言葉に従って生きるようになった人は、自分だけでなく、エクレシアにおいて応分の役目を果たし、エクレシアを守るべきことが期待されていることが、この箇所では言われていると考えられる。

 

◇ 3:7c「ここに立っている者たちの間で行き来することを許す。」

 

フランシスコ会訳3:7c「ここに立っている者たちの間に入ることを許そう。」

=神やキリストや天使や聖徒の交わりに入ることが許されること。

 

・「礼服」を着た人は、神やキリストやエクレシアの交わり(コイノニア)に入ることが許され、可能となる。 

c.f. ヤコブの梯子(創世記28:11-12)

ヨハネ1:51「さらに言われた。「よくよく言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

  •  3:8 

 

「しるし」=文語訳「前表(しるし)」。予表。

 

イザヤ書20:3、エゼキエル12:11などの用例では、これから起こる出来事の前触れ・兆しという意味で「しるし」という言葉を使う場合がある。

 

「若枝」:メシアのこと。キリストのこと。

・イザヤ4:2「その日には、主の若枝は麗しく、光り輝く。地の実りは、イスラエルの生き残った者にとって誇りと栄誉となる。」

・イザヤ11:1「エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち」

・イザヤ53:2「この人は主の前で若枝のように/乾いた地から出た根のように育った。彼には見るべき麗しさも輝きもなく/望ましい容姿もない。」

他、エレミヤ23:5、同33:15、ホセア14:7等。

 

※ ヨシュアやその同僚の人々(つまり当時のイスラエルの大祭司や祭司たちや総督ゼルバベルなど)が、メシア(キリスト)の予表・先ぶれとなることと、メシアが来ることが告げられている。「ヨシュア」という名前は、ギリシャ語では「イエス」である。

 ヨシュアの姿は、罪の赦しの宣言という意味でキリストの十字架による贖罪の予表であるのと同時に、ヨシュアが大祭司だということはキリストの贖いによって救われた人は皆「祭司」になるという新約の予表も意味していると考えられる(Ⅰペテロ2:9、黙示録5:10)。万人祭司の予表というしるしだとも、キリスト教の信仰の立場からは考えられる。

 

  •  3:9 ヨシュアの前に置かれた「石」の「七つの目」と、そこに刻まれるものと、罪の除去

 

 石の上の「七つの目」:

① ゼカリヤ4:10では、石にある七つの目は「すべての地を巡る主の目」だと言われている。ゆえに、このゼカリヤ3:9も、すべてを見守るし完全に知る「主の目」をこのように表現していると考えられる(7はユダヤにおいて完全数)。

② 「石」を宝石と考えれば、切子面のことを「目」と呼んでいると考えられる。大祭司の胸当てに付ける宝石のことか。ただし、ヨシュアの「前に置いた石」なので、この解釈が妥当かはいささか疑問。

③ 「目」のヘブライ語「アイン」(ayin)は、「泉」を意味する場合があり、その場合は、石に七つの泉があるということになる。石に七つの泉があり、その入り口を開けておく、という意味になる。モーセが岩を打って泉を湧かせたこと(出エジプト17:6、民数記20:7-11)や、いのちの水(ヨハネ4:14)とつながる。

 

⇒ おそらく、ゼカリヤは①の「目」と③の「泉」の両方の意味を「アイン」の語に持たせたと考えられる。(c.f. イザヤ11:2、黙示録1:4-5、七つの霊)

 

「石」:イエスは「かなめ石」(エフェソ2:20、Ⅰペテロ2:6)、

「親石」(マタイ21:42、マルコ12:10、ルカ20:17、使徒4:11、詩篇118:22「家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。」

「岩」:いのちの水の湧いた岩=キリスト(Ⅰコリ10:4)

 

  • 3:9c「私はそこに文字を刻む。」

 

岩波訳「見よ、わたしがそこに彫るべき徴を刻み込む。」

(岩波訳脚注「徴」の原語は「彫り物」と注記。(ヘブライ語:ピットゥアハ))

 

バルバロ訳「見よ、私は、みずから、この石の上に銘を刻む」

 

⇒ 文字を刻むというよりも、なんらかの銘・彫りこみをそこに刻むというのが正しい意味と思われる。

 

⇒ つまり、「隅の親石」・「霊的な岩」でありすべてを知り人々を慈しみ見守る(七つの目・いのちの泉)であるキリストに、十字架という人類の忘れえぬ彫りこみがなされる。

 

□ 3:9d「そして私はこの地の過ちを一日のうちに取り除く。」

 

関根訳「そして一日のうちにその地の罪を除く。」

⇒ 七つの目・泉の石に彫りこみがなされ、一日のうちに全人類の罪が除かれる。 

⇒ キリストの十字架の受難による人類の罪の贖いことと考えられる。

 

◇ 3:10 ぶどう・いちじく=新約と旧約のことか。

キリストの福音が世界に広まったのちには、旧約と新約の御言葉の両方を人々がよく学び、御言葉に従うようになり、神を愛し隣人を愛し、おのおのそれぞれ自分の場所を持ち、全き平和が来る、の意か。

c.f. ミカ書4:4「人はそれぞれ自らのぶどうの木/いちじくの木の下に座し/脅かすものは誰もいないと/万軍の主の口が語られる。」

 

 

Ⅳ、おわりに  

 

ゼカリヤ書三章(第四の幻)から考えたこと

 

・ゼカリヤ書第三章に記される「第四の幻」は、キリストの十字架の贖いによる人類の罪の赦しを示しているとしか私には思えない。旧約において、最も人類の罪に対する神の赦しを明確に示している預言と考えられる。この「第四の幻」の意味は、新約の時代において明らかにされたと考えられる。

 

・キリスト以前の時代に生きた人々は予表・前表という意味でキリストの「しるし」であり、キリストの以後の時代に生きるキリスト者は「キリストの香り」(Ⅱコリ2:14-16)という意味で「しるし」なのだと思われる。

 

・最近見た映画『バラバ』(イタリア、1961年。アンソニー・クイン主演)

 悪人で、すべて的外れで、なかなか回心しないバラバが、最後はキリストにすべてをゆだねる。

 思えば、出エジプト記に出てくる頑ななファラオや、列王記・歴代誌・預言書に出てくる頑なな民、そしてバラバは、私自身の姿であると思われる。

 そのような自分が、不思議な導きにより、キリストを信じ、御言葉を学ぶようになったのは、本当にありがたいことだと思う。

 

芥川龍之介西方の人』『続・西方の人』 

芥川が独自の観点からイエスを描き、常に「超えていこう」とする人であり、俗物と闘い、共産主義的で、ボヘミアンな人物として、天才的な「ジャアナリスト」だったとしている。それらは大変興味深く、魅力的で、イエスのある側面については鋭くとらえている部分もあると思われるが、「十字架の贖い」が決定的に抜け落ちている。晩年の芥川はキリストに随分と心惹かれていたようで、『続・西方の人』は遺稿でもあったが、最後まで贖罪の信仰に至らなかった。自殺してしまったのは、そのことが大きかったように思われる。

 

・「かくして、人がイエスの十字架の死の中に己自身の罪を認め、イエスが死んだのは自分の罪のために自分に代わって死んだのであることを信ずるならば、神はイエスの従順のゆえに、かく信ずる人の罪を赦す。すなわちもはやその人の罪の責任を追求しないのである。

 このように、イエスは我らの罪のために十字架にわたされ、我らの義とせられるために復活させられた。このことを信ずる者には聖霊によりて新しい生命が注がれ、神に対する背反はいやされて、神に対する従順の心が与えられる。第一の人アダムの背反がすべての人の原罪となって、人に死をもたらしたように、第二のキリストの従順は、彼を信ずるすべての人に罪の赦しと新しい生命をもたらしたのである。」

矢内原忠雄キリスト教入門』(中公文庫)、101-102頁)

 

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、神による着替え

Ⅲ、神の約束と地の罪の赦し

Ⅳ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに     

      

前回のまとめ

ゼカリヤ書は、捕囚帰還後の時代に、ハガイとともに神殿再建に尽力した預言者ゼカリヤによる預言(紀元前520年頃)。第一章では、人が神に立ち帰ればただちに神もその人に立ち帰ることが告げられ、ミルトスの林の中で神と人との間をとりなすみ使い(おそらくはキリスト)のビジョンが告げられた。第二章では、四本の角を切る四人の鉄工職人つまり悪と戦う神の使いたちのビジョンと、神が再びエルサレムを選びそこは城壁がなくその只中に神が住んでくださるというビジョンが告げられた。

 

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章 ⇒今回は三章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章)

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章)

☆第四の幻 神による着替え(罪の赦し) (第三章) ⇒ ※今回

第五の幻 七つのともし火皿と二本のオリーブ (第四章)

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章)

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章)

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)

ヨシュアの戴冠 (第六章)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

 

□ 第三章(第四の幻)の構成 

第一部 神による着替え (3:1~5)

第二部 神の約束と地の罪の赦し (3:6~10)

 

 第三章では、第四の幻が示される。前半の第一部においては、大祭司であるヨシュアが民の代表として主のみ使いの前に立ち、サタンの告発を受けるが、主と主のみ使いはサタンを責め、ヨシュアを汚れた衣から晴れ着に着替えさせ、罪を取り去ったことを宣言する。

さらに、後半の第二部では、神の御言葉に忠実に歩むならば、神の家と庭(エクレシア)を治める身となることと、将来メシアがやって来ること、ヨシュアたちはその予表(しるし)となることが告げられる。そして、七つの目のある石に刻印がなされることにより、地の罪が一日で除かれ、人々の平和が来ることが告げられる。新約から見れば、ここに十字架の贖罪の預言が示されている。

 

Ⅱ、神による着替え (3:1~3:5)

 

◇ 3:1 神の法廷におけるヨシュアと主のみ使いとサタン

 

ヨシュア:当時の大祭司。総督のゼルバベルと共に捕囚帰還後のユダヤの民の指導者として尽力。ハガイ1:12には、ゼルバベルと共にハガイの預言に耳を傾けたことが記されている。(ゼカリヤ書1:12では民とともに自分たちの罪を認め神に立ち帰ることを表明したと考えられる)。

 

主のみ使い:第一章・第二章に登場したみ使いか?だとすれば、神と人との間をとりなす仲保者であるイエス・キリスト。 ※バルバロ訳では「主の天使」。

 

サタンヘブライ語では「敵対者」一般を指す(岩波訳では「敵対者」)。ただし、ここでは神の法廷において、人の罪を告発する役割を果たしており、単なる敵対者一般というより、人間に対して罪の裁きを要求し滅ぼそうとする霊的な存在を表している(後世の新約時代にはそのような意味での固有名詞)。

 旧約においては、人口統計をつくるようにダビデをそそのかすサタン(歴代誌21:1)や、ヨブを試すように神に対して勧めるサタン(ヨブ記1:6-12)などが現れる。新約では、人を誘惑し(Ⅰコリ7:5)、つけこみ(Ⅱコリ2:11)、妨げ(Ⅰテサロニケ2:18)、道を踏み外させる(Ⅰテモテ5:15)存在としてサタンが言及されている。最終的にサタンは神に敗北する(黙示録20:7-10)。

 

 

◇ 3:2 主のみ使いによる弁護

 

・主のみ使いは、神がサタンを責められることを二回述べ、人の罪を許さず裁きを要求し滅ぼそうとするサタンの姿勢が神の御心にかなわないことを述べる。

c.f. マタイ18:14「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」 c.f. 弁護者(パラクレートス)ヨハネ14章

 

燃えさし:バルバロ訳「燃え残りの木」。

神の怒りはしばしば「燃える炉」や「炎」「火」と表現される(詩21:10、詩18:9など)。「火」は人を試し(詩17:3-4、詩26:2)、銀を火で練るように試みて清める試練を意味する(詩66:10)。

⇒ ここでは、バビロン捕囚という大きな苦難を経て生き残ってきたことを、「燃えさし」「燃え残りの木」と呼んでいると考えられる。

主のみ使い(キリスト)は、大きな苦難を経て神の言葉に耳を傾けるようになったヨシュアヨシュアが代表するイスラエルの民を愛し、彼らを完全に滅ぼすことを望まず、サタンの告発から弁護し守ろうとしている。

c.f. 「残りの者」(ミカ2:12、同5:6、アモス5:15、ゼファニヤ3:13、ヨエル3:5、イザヤ4:3、同10:20-22など。)

 

◇ 3:3-5 神による着替え

 

ヨシュアは汚れた衣を着て、み使いの前に立っている。(3:3)

⇒ 「汚れた衣」=罪に汚れている状態。

 

ヨシュアの罪とは?:

・神に背き、偶像崇拝や社会的不正義に耽り、南ユダ王国が滅亡するという事態に立ち至ったユダヤの民。

・バビロン捕囚期においても、異国の風習や文化に染まったことが考えられる(ヨシュアの一族も異民族の女性と結婚した者が多数いたことが記されている(のちに離縁)(エズラ10:18-19)。)

・捕囚期間後も二十年の間、神殿再建が滞っていたことは、ハガイ書が記すとおりであり、ヨシュアはその点では力不足の指導者でもあった。

 

・さらに言えば、アダム以来、人は神から離れようとする傾向・罪を持っており、皆大なり小なり汚れた衣を着てキリストの前に立っていると言える。(創世記3章、ホセア6:7、ロマ5:12、知恵の書2:23-24)。

 

◇ 3:4 「晴れ着」=新改訳2017・岩波訳「礼服」、関根訳「立派な服」

 

・「過ち」=新改訳2017・岩波訳「咎」、フランシスコ会訳・関根訳「罪」。

 

フランシスコ会訳3:4「見よ、わたしはお前の罪を取り除いた。お前に礼服を着せよう。」

バルバロ訳3:4b「<見よ、私は、お前の罪を取り除いた>。」

 

⇒ み使い(キリスト)は、天使たちにヨシュアの汚れた衣を脱がせ、罪を取り除き、礼服を着せる。

 

c.f. マタイ22章、宴会のたとえ。天国の宴会では「礼服」をつけている必要があり、礼服を着ていないと追い出される。

 

礼服=キリストを信じることによって神に義とされること。キリストを着る。

 

「主イエス・キリストを着なさい。」(ロマ13:14a)

「キリストにあずかる洗礼(バプテスマ)を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのです。」(ガラテヤ3:27)

c.f. 新しい人を着なさい(エフェソ4:24)、朽ちる存在の人間が不朽の死なないものを着る(Ⅰコリ15:53)。

 

・人は罪(汚れた衣)を身にまとっているが、キリストの十字架の贖いを信じるだけで「汚れた衣」を脱ぎ、罪が赦され、「礼服」を着、キリストを着て、神の御前に立ち、キリストや天使と交わることができる存在となるというのが聖書の示すところである。黙示録によれば、天国の住人は「白い衣」を着ている。(黙示録3:4、3:5、4:4、6:11、7:9、7:13-17)。

 

◇3:5 「清いターバン」=フランシスコ会訳・岩波訳・バルバロ訳「清いかぶりもの」。 ⇒ 礼服をより完全にするという意味か。頭を清いターバン・かぶりもので覆うということで、思考までも完全に清らかな神にふさわしい聖なるものとなる、という意味か。(信仰による義認⇒一生をかけての完全なる聖潔)

 

 

Ⅲ、神の約束と地の罪の赦し(3:6~3:10) 

 

◇  3:7 

「家」:ヘブライ語バイス」。神の家の意味の場合は「神殿」と訳される。

「庭」:聖書では、庭・園は荒野と対比され平和な美しい豊かなイメージと結びつく。また、出エジプト記27章では「幕屋を囲む庭」が記され、庭は神の臨在の場所という意味もある。

 

⇒ 神の道を歩み、務め(関根訳「誡命」、新改訳2017「戒め」)を守るならば、神の家と庭の管理者となる。エクレシア(集会、教会)を守る者となる。

 

※ 信仰によって罪が赦されたのちは、神の御言葉に従って生きることが勧められている。

c.f. ヨハネ8:11 姦淫の女へのイエスのことば「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはいけない。」

c.f. Ⅰヨハ2:6「神の内にとどまっていると言う人は、イエスが歩まれたように、自らも歩まなければなりません。」

そして、さらに、そのように御言葉に従って生きるようになった人は、自分だけでなく、エクレシアにおいて応分の役目を果たし、エクレシアを守るべきことが期待されていることが、この箇所では言われていると考えられる。

 

◇ 3:7c「ここに立っている者たちの間で行き来することを許す。」

 

フランシスコ会訳3:7c「ここに立っている者たちの間に入ることを許そう。」

=神やキリストや天使や聖徒の交わりに入ることが許されること。

 

・「礼服」を着た人は、神やキリストやエクレシアの交わり(コイノニア)に入ることが許され、可能となる。 

c.f. ヤコブの梯子(創世記28:11-12)

ヨハネ1:51「さらに言われた。「よくよく言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

  •  3:8 

 

「しるし」=文語訳「前表(しるし)」。予表。

 

イザヤ書20:3、エゼキエル12:11などの用例では、これから起こる出来事の前触れ・兆しという意味で「しるし」という言葉を使う場合がある。

 

「若枝」:メシアのこと。キリストのこと。

・イザヤ4:2「その日には、主の若枝は麗しく、光り輝く。地の実りは、イスラエルの生き残った者にとって誇りと栄誉となる。」

・イザヤ11:1「エッサイの株から一つの芽が萌え出で/その根から若枝が育ち」

・イザヤ53:2「この人は主の前で若枝のように/乾いた地から出た根のように育った。彼には見るべき麗しさも輝きもなく/望ましい容姿もない。」

他、エレミヤ23:5、同33:15、ホセア14:7等。

 

※ ヨシュアやその同僚の人々(つまり当時のイスラエルの大祭司や祭司たちや総督ゼルバベルなど)が、メシア(キリスト)の予表・先ぶれとなることと、メシアが来ることが告げられている。「ヨシュア」という名前は、ギリシャ語では「イエス」である。

 ヨシュアの姿は、罪の赦しの宣言という意味でキリストの十字架による贖罪の予表であるのと同時に、ヨシュアが大祭司だということはキリストの贖いによって救われた人は皆「祭司」になるという新約の予表も意味していると考えられる(Ⅰペテロ2:9、黙示録5:10)。万人祭司の予表というしるしだとも、キリスト教の信仰の立場からは考えられる。

 

  •  3:9 ヨシュアの前に置かれた「石」の「七つの目」と、そこに刻まれるものと、罪の除去

 

 石の上の「七つの目」:

① ゼカリヤ4:10では、石にある七つの目は「すべての地を巡る主の目」だと言われている。ゆえに、このゼカリヤ3:9も、すべてを見守るし完全に知る「主の目」をこのように表現していると考えられる(7はユダヤにおいて完全数)。

② 「石」を宝石と考えれば、切子面のことを「目」と呼んでいると考えられる。大祭司の胸当てに付ける宝石のことか。ただし、ヨシュアの「前に置いた石」なので、この解釈が妥当かはいささか疑問。

③ 「目」のヘブライ語「アイン」(ayin)は、「泉」を意味する場合があり、その場合は、石に七つの泉があるということになる。石に七つの泉があり、その入り口を開けておく、という意味になる。モーセが岩を打って泉を湧かせたこと(出エジプト17:6、民数記20:7-11)や、いのちの水(ヨハネ4:14)とつながる。

 

⇒ おそらく、ゼカリヤは①の「目」と③の「泉」の両方の意味を「アイン」の語に持たせたと考えられる。(c.f. イザヤ11:2、黙示録1:4-5、七つの霊)

 

「石」:イエスは「かなめ石」(エフェソ2:20、Ⅰペテロ2:6)、

「親石」(マタイ21:42、マルコ12:10、ルカ20:17、使徒4:11、詩篇118:22「家を建てる者の捨てた石が/隅の親石となった。」

「岩」:いのちの水の湧いた岩=キリスト(Ⅰコリ10:4)

 

  • 3:9c「私はそこに文字を刻む。」

 

岩波訳「見よ、わたしがそこに彫るべき徴を刻み込む。」

(岩波訳脚注「徴」の原語は「彫り物」と注記。(ヘブライ語:ピットゥアハ))

 

バルバロ訳「見よ、私は、みずから、この石の上に銘を刻む」

 

⇒ 文字を刻むというよりも、なんらかの銘・彫りこみをそこに刻むというのが正しい意味と思われる。

 

⇒ つまり、「隅の親石」・「霊的な岩」でありすべてを知り人々を慈しみ見守る(七つの目・いのちの泉)であるキリストに、十字架という人類の忘れえぬ彫りこみがなされる。

 

□ 3:9d「そして私はこの地の過ちを一日のうちに取り除く。」

 

関根訳「そして一日のうちにその地の罪を除く。」

⇒ 七つの目・泉の石に彫りこみがなされ、一日のうちに全人類の罪が除かれる。 

⇒ キリストの十字架の受難による人類の罪の贖いことと考えられる。

 

◇ 3:10 ぶどう・いちじく=新約と旧約のことか。

キリストの福音が世界に広まったのちには、旧約と新約の御言葉の両方を人々がよく学び、御言葉に従うようになり、神を愛し隣人を愛し、おのおのそれぞれ自分の場所を持ち、全き平和が来る、の意か。

c.f. ミカ書4:4「人はそれぞれ自らのぶどうの木/いちじくの木の下に座し/脅かすものは誰もいないと/万軍の主の口が語られる。」

 

 

Ⅳ、おわりに  

 

ゼカリヤ書三章(第四の幻)から考えたこと

 

・ゼカリヤ書第三章に記される「第四の幻」は、キリストの十字架の贖いによる人類の罪の赦しを示しているとしか私には思えない。旧約において、最も人類の罪に対する神の赦しを明確に示している預言と考えられる。この「第四の幻」の意味は、新約の時代において明らかにされたと考えられる。

 

・キリスト以前の時代に生きた人々は予表・前表という意味でキリストの「しるし」であり、キリストの以後の時代に生きるキリスト者は「キリストの香り」(Ⅱコリ2:14-16)という意味で「しるし」なのだと思われる。

 

・最近見た映画『バラバ』(イタリア、1961年。アンソニー・クイン主演)

 悪人で、すべて的外れで、なかなか回心しないバラバが、最後はキリストにすべてをゆだねる。

 思えば、出エジプト記に出てくる頑ななファラオや、列王記・歴代誌・預言書に出てくる頑なな民、そしてバラバは、私自身の姿であると思われる。

 そのような自分が、不思議な導きにより、キリストを信じ、御言葉を学ぶようになったのは、本当にありがたいことだと思う。

 

芥川龍之介西方の人』『続・西方の人』 

芥川が独自の観点からイエスを描き、常に「超えていこう」とする人であり、俗物と闘い、共産主義的で、ボヘミアンな人物として、天才的な「ジャアナリスト」だったとしている。それらは大変興味深く、魅力的で、イエスのある側面については鋭くとらえている部分もあると思われるが、「十字架の贖い」が決定的に抜け落ちている。晩年の芥川はキリストに随分と心惹かれていたようで、『続・西方の人』は遺稿でもあったが、最後まで贖罪の信仰に至らなかった。自殺してしまったのは、そのことが大きかったように思われる。

 

・「かくして、人がイエスの十字架の死の中に己自身の罪を認め、イエスが死んだのは自分の罪のために自分に代わって死んだのであることを信ずるならば、神はイエスの従順のゆえに、かく信ずる人の罪を赦す。すなわちもはやその人の罪の責任を追求しないのである。

 このように、イエスは我らの罪のために十字架にわたされ、我らの義とせられるために復活させられた。このことを信ずる者には聖霊によりて新しい生命が注がれ、神に対する背反はいやされて、神に対する従順の心が与えられる。第一の人アダムの背反がすべての人の原罪となって、人に死をもたらしたように、第二のキリストの従順は、彼を信ずるすべての人に罪の赦しと新しい生命をもたらしたのである。」

矢内原忠雄キリスト教入門』(中公文庫)、101-102頁)

 

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数  

ゼカリヤ書(2) ―城壁のない開かれた所

 

『ゼカリヤ書(2) ―城壁のない開かれた所』 

 

Ⅰ、はじめに

Ⅱ、第二の幻:四本の角と四人の鉄工

Ⅲ、第三の幻:城壁のない開かれた所

Ⅳ、おわりに

 

 

Ⅰ、はじめに 

    

       

前回のまとめ

ゼカリヤ書は十二小預言書の一つで、バビロン捕囚から帰還した後の時代に、ハガイとともに神殿再建に尽力した預言者ゼカリヤによる預言をまとめたもの。メシア預言を多く含み新約とも関連が深い。第一章では、人が神に立ち帰ればただちに神もその人に立ち帰ることが告げられ、さらにミルトスの林の中で神と人との間をとりなすみ使い(おそらくはキリスト)のビジョンが告げられた。

 

 

※ 「ゼカリヤ書の構成」

 

第一部 八つの幻と社会正義への呼びかけ 第一章~第八章 ⇒今回は二章

第二部 メシア預言と審判後のエルサレムの救い 第九章~第十四章

 

・第一部(第一~第八章)の構成 

 

神に帰ること (第一章)                 

第一の幻 ミルトスの林と馬  (第一章)   

第二の幻 四本の角と四人の鉄工 (第二章) ⇒ 今回

第三の幻 城壁のないエルサレム (第二章) ⇒ 今回

第四の幻 汚れた衣を晴れ着に着替えさせられる (第三章)

第五の幻 七つのともし火皿と二本のオリーブ (第四章)

第六の幻 飛ぶ巻物 (第五章)

第七の幻 エファ升の中の女と神殿 (第五章)

第八の幻 四両の戦車と北の地の神霊 (第六章)

ヨシュアの戴冠 (第六章)

真実と正義の勧め (第七~八章)

 

 

Ⅱ、第二の幻:四本の角と四人の鉄工 (2:1~2:4)

 

◇ 2:1 四本の角

 

角:力の象徴。(図像には悪魔や鬼によく角が生えている。怒りや傲慢の象徴。)

四:四つの方角、世界全体の象徴。四方から角が攻めてくること。

 

・ダニエル書第七章:四頭の獣の幻、第四の獣は十本の角

 ⇒ バビロニア、メディア、ペルシア、マケドニア? あるいは、エジプト、アッシリアバビロニア、ペルシア?

 

・黙示録第十三章:二匹の獣、十本の角と七つの頭の獣と、小羊の角に似た二本の角の獣。  ⇒ ローマ帝国と偽メシア?

 

ゼカリヤ書二章の四本の角は、バビロニアエドム、アンモン、モアブ、ペルシア等?なんらかのユダヤに敵対する民族、国々を指すと一応は考えられる。

 

 

◇ 2:2 「ユダ、イスラエルエルサレム

 ⇒ 同じ意味ともとれるが、南ユダ王国と北イスラエル王国と、本来はそのどちらにとっても首都だったはずのエルサレムを挙げているともとれる。

その場合、ソロモンの背信の結果、南北に分裂してしまった神の民を嘆いている意味合いがこめられていることになる(参照:列王記上11、12章)

だとすれば、「角」は、単に外的や外部の力というよりも、内部において人々の心を分裂させる内的な力を指すと考えられる(ソロモンやヤロブアムの偶像崇拝、レハブアムの傲慢や他人への共感の欠如、ヤロブアムのベテルの神殿をつくるなどの分裂志向や反逆など)。

 

  • 四本の角とは:「角」を外的な勢力や国と受取ることは、外部の脅威に目を向ける人間にはありがちなことである。今の日本にも、周辺諸国を脅威としたり敵視する言説がはびこっている。しかし、内面に働く悪しき力と考えるならば、傲慢・過度の筋違いな怒り・欲望・偶像崇拝や物質主義などと「角」を解釈することも可能である。

 

 

◇ 2:3 「四人の鉄工」

 

鉄工:文語訳「鍛冶」、新改訳2017「職人」、岩波訳「鍛冶職人」

 

⇒ 神の命を受け、角を切り倒すために来る。

 

岩波訳2:3d :「これらは、その頭を上げ得ないほどユダを蹴散らした角だが、これら〔の鍛冶職人〕は、地に角を振り上げてユダを蹴散らした諸国民を脅かし、彼らの角を投げ倒すために来るのだ。」

 

四本の角に対しては、四人の「鉄工」が現れて、角を切り倒すために来る。

 

⇒ この世界の、さまざまな悪や問題に取り組む人々。

四は例として挙げられているだけで、本当は敵の数だけ天使が遣わされる(矢内原忠雄の解釈)。この世界の問題の数だけ、それに取り組む人々もいる。

 

ex:アパルトヘイトにはマンデラ公民権問題にはキング牧師、インドのスラム街にはマザーテレサアフガニスタンには中村哲さん、等々。

 

  • 大切なことは、世界のあちこちに存在している問題や悪(角)を見るだけではなく、それらと取り組んでいる神の命を受けた鉄工・鍛冶職人が必ずいることを知って、その人たちの取り組みを支援したり、それらの人々のメッセージに耳を傾けることではないか。また、自分自身もできれば鍛冶職人になり、角を切ることに尽力すべき。

 

参照:イザヤ54:16 「見よ、わたしは職人を創造した。彼は炭火をおこし、仕事のために道具を作る。わたしは破壊する者も創造してそれを破壊させる。」

 

⇒ 鉄工・職人のわざや創造もまた、神の創造の働きのうち。

神は人を通して働かれる。

「鉄工」は天使と解釈しても良いかもしれないが、悪と戦う神の命を受けた人間と解釈すべきと思われる。

 

 

・第二の幻から考えたこと:※「角」を国々、世俗の権力者のことだと考えると、世俗の権力をどう考えるべきか?

 

聖書においては、ロマ書13章では、権力は神に由来するとされ、従うべきとされる。一方、黙示録13章では、サタンによって権威が授けられている権力者がいるとされる。

⇒ 本来的には世俗の権力や国家秩序も神のつくった秩序の内であり、神によって命じられているものだが、その座に就くものが間違った目的や行動をとる場合、それは神ではなくサタンに仕えるものであり、サタンに据えられたものとも言える。

 私たちは、基本的にはロマ書13章に従い、権力や権威を尊重し従うべきではあるものの、実際の権力者や政治が何を目的とし何を基準としているかについてはよく聖書を基準に見定め、それが明らかに神の目的(一人一人を大切にする愛)に反している場合は、「角」を切り倒す「鉄工」となり不正と闘うこと、そうした鉄工の人々を支持することが重要ではないかと思われる。

 

 

Ⅲ、第三の幻:城壁のない開かれた所(2:5~2:17) 

 

◇  2:5-6 測り縄:

① エルサレム復興のため、修復や街づくりのための測量?

② 物事の価値基準を定めることの象徴?

③ エルサレム=神の民とすると、人々の心の広さや深さをみ使いが測る?

⇒ おそらくはそのどれもであるが、捕囚期間後というゼカリヤの背景を考えると、エルサレムの復興を示していると考えられる。

 

 

  •  2:7 「わたしに語りかけたみ使い」

⇒新改訳2017 「私と話していたみ使い」

 

  •  2:8 「あの若者」 ←測り縄を持ったみ使いのことではなくて、おそらくはゼカリヤのこと。測り縄を持ったみ使いに対し、もう一人のみ使いが、ゼカリヤに2:8以下のメッセージを告げるように言っていると解釈できる。

 

  • エルサレムは・・・城壁のない開かれた所となる。」

 

城壁:当時は、戦争の際の防御のため、通常、都市は城壁に囲まれていた。

 

では、なぜ城壁がないところになるのか?

 

① エルサレムが人と家畜に溢れて繁栄する場所となるので、小さな城壁だと手狭になってしまうので、測り縄を張って小さな城壁をつくるな、という意味(矢内原説)。

 

c.f. ウィーンのリングシュトラーセ。1857年に市壁の放棄が決定され、環状道路がつくられ、それが大きな発展の契機となった。

 

② 軍備を撤廃し、神が守ってくださることを信じ、城壁を持たない。

c.f.  日本の平城京は、長安などと比較した時に、そもそも城壁がなかった。

c.f. 武田信玄「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」⇒甲斐に城をつくらなかった。

c.f. 戦後の日本の憲法九条。コスタリカの軍備撤廃。

 

⇒ 次の9節で神自身が火の城壁となると言っていることを考えれば、②の解釈が正しいと考えられる。

 

 

主が「その中にあって栄光となる」。

神が神の民に中にいてくださる。(メシア預言)

 

 

  • 2:10―11 バビロンから逃れよという勧め。

 

当時の歴史的文脈から言えば、バビロン捕囚から解放されても、なお帰還せず多くのユダヤ人がバビロンに留まっていたという状況があった。それらの人に対し、バビロンから逃れることを勧めている(おそらくは精神や文化に悪影響があることや、イスラエルの復興を神が意図しているため)。

 

⇒ 歴史的文脈から離れれば、バビロンから逃れることの勧めは、いつの時代においても、神に信頼し、物質主義や利己主義や恐怖心から離れることの勧め。

 

c.f. 日本国憲法前文「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

(戦前の軍国主義や戦後のアメリカへの依存とは異なる、正義への信頼の道)

 

 

  • 2:12 「わたしの目の瞳に触れる者だ」

 

c.f. 申命記32:20 「主は荒れ野で彼を見いだし/獣のほえる不毛の地でこれを見つけ/これを囲い、いたわり/御自分のひとみのように守られた。」

 

c.f. コーリー・テン・ブーム『わたしの隠れ場』(いのちのことば社

第二次世界大戦中、オランダでユダヤ人をかくまったため、ホロコーストに送られた一家の物語(実話回想録)。著者の父親は、ユダヤ人をかくまったためにホロコーストに送られて殺されるが、ユダヤ人を迫害するドイツ人たちを見て、なんとかわいそうな人たちだと気の毒がっていた。娘が理由を尋ねると、彼らは神の瞳に触れてしまった、今に必ず恐ろしい罰が下ると述べた。

 

・神はユダヤ人やエクレシアに対してはもちろん、すべての人を「瞳のように守る」ことを忘れないこと。

 

  • 2:13 「自分自身の僕に奪われる」 ⇒ 暴虐な国や人々は自壊すること。神が瞳のように守る人々を傷つけ、虐げた国や権力者は、必ず反乱や内部の転覆で滅びる。

 

  • 2:14 人々のただ中に住まう神

 

人々の心の中に住まい、働きかける神。聖霊。(内なるキリスト、ヨハネ6:56、同14:17、同17:26、Ⅱコリ13:5、コロサイ1:27、Ⅰヨハ4:4)

 

岩波訳2:14「『娘シオンよ、/歓び、喜べ。/わたしは来て、/あなたの只中に住むからである』。/―〔これは〕ヤハウェの御告げ―」

 

  • 2:15 多くの国々が主に帰依し、その中に神が住まう。

 

異邦人の救いの預言。神の民はユダヤ人に限定されず、キリストを信じたすべての人、エクレシア全体が神の民であり、神がその中に住まう。

 

  • 2:16  再び選ぶ

神は一度背いても、立ち帰れば、再び選んでくださる。

 

  • 2:17

 

神の前に静かに沈黙すること。静かに沈黙して祈ること。 

c.f. イザヤ30:15 「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」

c.f. ハバクク2:20 「しかし、主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ。」

 

「主はその住まいから立ちあがられる。」

⇒ 主は歴史を通して働きかける神であること。

 

⇒ あるいは、復活を指す? ギリシャ語の復活・アナスタシス=立ちあがる

 

  • 神が守ってくださること、バビロンから逃れるべきこと、神の瞳のように大切にされていること、神がエクレシアの只中に住んでくださることを喜ぶこと、神が復活し、立ち上がること。これらを静かに沈黙の中で思い考えることの勧め。

Ⅳ、おわりに  

ゼカリヤ書二章から考えたこと

 

・神の民・神の国は壁のない開かれた所であるということ。

 

・私たちは、日ごろあまりにも多くの壁をつくってしまってはいないか。

ex:ベルリンの壁イスラエルパレスチナ分離壁、メキシコとアメリカの壁。アメリカの要塞町。

ex:人種、民族、病気/健康、学歴・教育、宗教、政治信条・政党etc.

 

⇒ イエスは、あらゆる壁や隔たりをなくし、壊された方だった。

 

エフェソ2:14-16:

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

 

・私たちもまた、イエスに倣い、なるべく壁や隔てをなくすように努めることが大切ではないか。

・平和や非暴力・非武装軍縮は、神への信頼・正義への信頼・真理への信頼が基礎になければ、難しいというのが聖書の示すところではないか。

・宗教の隔ての問題(マザーテレサはそれぞれの人の宗教を尊重。「わたしはどんな近づき方をするでしょう?カトリックヒンズー教、他のだれかには仏教と、その人の心に合った方法で。」)

 

 

「参考文献」

・聖書:新共同訳、フランシスコ会訳、関根訳、岩波訳、バルバロ訳、文語訳、口語訳、英訳(NIV等)

ヘブライ語の参照サイト:Bible Hub (http://biblehub.com/

・『新聖書講解シリーズ旧約9』いのちのことば社、2010年

・『Bible Navi ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社、2014年

・『聖書事典』日本基督教団出版局、1961年 他多数